星の在処とベルスーズ

FGOベディぐだ

「旅行に行こう!」
 この数日で例の喫茶店にも行き、買った書籍は全て読み終えてしまった。少し温かい日に付近をぶらりと歩き回ってみたものの、発見と言えるものはなく。つまるところ、暇を潰せる手段が尽きかけているのだ。体内時計の狂いが未だ治っていないのか、家にいると立香は慢性的な眠気に襲われて変な時間に寝てしまい、妙に体が気怠くなってしまう始末である。この事態を打開しようと企てたのは、突発的な旅行であった。
「旅ですか」
 食後の茶を啜りながら、ベディヴィエールは立香の言葉を返す。最初は戸惑いに満ちていたこの生活にも、彼は順応し始めているらしい。それは立香にとって喜ばしいことであった。
「最初からあまり遠くへは行かない方がいいかなと思ったから、近場にはなるけれど旅行らしく温泉宿にしてみました!」
 立香の提案にベディヴィエールが異を唱えることもなく、今はこうして電車に乗っている。朝のうちに家を出て、昼過ぎには目的地に着くらしい。一泊二日の小旅行ではあるが、いい刺激になるだろう。車窓を流れていく風景の変化を見つめながら、ぽつりぽつりととりとめのないことを話す。突発的に決めたことであるので、あまり目的地の情報については調べていないのだが、温泉郷自体が観光地と化しているようなので心配はなさそうだ。駅で見付けた観光情報のパンフレットを捲りながら、ざっくりとプランを立てていく。電車での移動距離は短いものではなかったが、それほど苦にはならなかった。
 最寄駅からは温泉郷までバスでの移動になり、乗り込んで程なくしてバスが発車する。季節柄もあってか沿道は雪景色に包まれており、どこか物悲しい印象を受ける。
「今は葉が落ちてるけれど、他の季節は緑が多い道みたい」
「城から少し離れた場所で、似た景色を見た覚えがあります。春になると、花も沢山咲いてとても綺麗なんです。その光景を見る度に、季節の巡りを感じたものでした」
 車窓から外を眺めながら語るベディヴィエールは、過去を回想しているのだろうか。一つの季節が廻り、芽吹きが訪れる度に、彼は守護の決意を新たにしていたのかもしれない。立香にその景色を見ることは敵わないが、彼が目にした美しい景色を見てみたいものだと淡い願望を抱く。
 またこの場所を訪れることがあるのならば、今度は違う季節にしよう。同じ土地が見せる違う顔も、また発見となり喜びとなるのだろう。遠い未来を、立香は頭の中で思い描く。その隣には、やわらかに微笑むベディヴィエールの姿があった。
 終点へと到着してバスを降りると、温泉郷へと続く長い坂が続いている。見慣れたビルの形は姿を消し、伝統を感じさせる外観の土産物屋が道を挟むようにして並んでいた。どこからともなく漂う硫黄の香りが都会の空気を切り離し、温泉街へと心を誘っていく。湯が巡っているのか、側溝のあちらこちらで白い湯気が上がっているのが面白い。それらを眺めながら歩き、程なくして現れたのは大きな木樋を流れる源泉であった。飴色に染まった欄干の内側で、真っ白い湯気の中ざぶざぶと温泉が注がれている。硫黄の香は一層強くなり、瓦屋根と木の温かみが感じられる落ち着いた景観が、いくつにも分かれた路地の中へと続いていた。温泉郷自体が観光地となっているのも頷ける。辺りでは様々な店の店員が呼び込みを行っており、行き交う観光客と共に賑わいを彩っていた。
 その光景に圧倒されながらも、ひとまず付近を散策して回ることにする。土産物屋で手渡された饅頭を二人で頬張りつつ、案内板に従い歩を進めていく。温泉が流れる川や小さな社、果ては美術館と、思いの外見どころは充実していた。あれやこれやと観光しているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。最後にぐるりと遊歩道を一周歩き、程よく疲れが溜まってきたところで予約していた宿へと向かった。
「す、凄い……!」
 宿に着いた立香は、呆然とその一言だけを絞り出した。いかにも老舗、という古式然とした旅館の戸を潜り、通された部屋は立香のそう長くない人生経験の中でも完全に浮いてしまうほどに上等なものであった。ベディヴィエールが西洋人であること、彼の持つ特殊な右腕を考えて、大浴場は避けた方がよいだろうと浴室が備え付けられた部屋を選んだのだが、随分といい宿を取っていたらしい。畳の藺草の匂いですら高級に感じられ、床の間には格式の高そうな掛け軸と、そこに寄り添うように生けられた花が鎮座していた。突如として現れた別世界に体を強張らせつつも部屋の奥へ進むと、障子を挟んで小さな庭へと続いており、窓を通じて直接出られる造りになっている。品良く整えられた植木が、雪化粧を施されて楚々と佇んでいた。
「こうも慎ましやかであると、喧騒に慣れていたぶん落ち着かないものですね」
 そう言って笑いながら、ベディヴィエールは仲居に出された熱い緑茶を静かに啜る。異邦の人間であるはずなのに、落ち着いた彼の佇まいは宿の空気と相俟って静謐な雰囲気を醸し出している。もしかすると、日本人である立香よりも融和しているかもしれないと思ってしまうほどに。名前すら知らない茶菓子が舌の上で滑らかに溶けていくのを感じながら、立香はその光景に見惚れていた。
 広い館内を見て回り、土産物コーナーを物色して部屋へと戻る。その頃にはすっかりと陽が落ち、窓から見える景色はすっかりと夜色に塗り替えられていた。緊張もすっかりと解け、和やかに談笑していると、部屋の中へと夕食が運び込まれてくる。鮮やかな色彩が目を惹く刺身に、からりと揚げられた天ぷらや郷土野菜と上質な肉が詰められた小鍋。並んだ料理それぞれの説明を終えると、静かに襖が閉じられた。くつくつと鍋が煮える音が静かに響く。カルデアでの記憶に劣らない美味しい料理の数々に舌鼓を打ち、器を空ける頃には夜も随分と更けていた。
 少し休憩を挟み、ベディヴィエールに促されて先に湯を使うことにする。一人どころか二人が入っても十分に余る広さの浴槽に身を沈めると、贅沢を通り越して妙な罪悪感すら抱かせる。人類最後のマスターなどという肩書を貰わず、普通の人生を送っていたならば、一生縁のない場所だったのだろう。湯船の中で、温泉がとろりと立香の体を包み込む。体が芯から温まっていくのを感じながら、立香は瞼を閉じてゆっくりと息を吐き出した。檜の香がほのかに漂い、樋を通じて湯が注がれる音が広い浴室に響いている。
 旅行を終えて、帰ったらどうしようか。いっそ部屋を捨てて、互いの身一つで世界を旅して回ろうか。立香は漠然とこれからを思惟する。あの部屋で漫然と過ごし続けるという停滞した選択肢はあり得なかった。この生活の中で、常に何かしらの目的や変化を求め続けた理由はひどく単純だ。ベディヴィエールをこの世界に縛る要素が欲しかったからだ。
 サーヴァントとは、聖杯にかける望みがあるからこそ現界し、契約者の剣となる。しかし、特例たる彼は違う。彼は既に自身の望みを果たしており、聖杯にかける願いがない。人であるうちに罪を犯し、それを贖うことを自らの望みとしてそれを叶えた。その功績を認められ、一度限りの特例として英霊と化したベディヴィエールが現界していたのは、王への忠義を果たすことに尽力してくれた立香へ恩を返すためであり、言わば彼の厚意でしかないのだ。贖うべき罪も、齎されるべき救済も持たぬ異端の英霊、それがサーヴァント・ベディヴィエールであった。
 立香は既に、与えられた任務を解かれている。本来ならもう、彼が立香に協力する理由は存在しない。それでも、ベディヴィエールは『最後の時を立香のために使う』という立香の願いに応えて傍にいてくれている。彼がその理由に価値を見出せなくなれば、疑問を感じれば、その瞬間ベディヴィエールを縛る鎖は断たれてしまう。だからこそ、立香は彼へ常に意味を与え続けてきた。知らないことがある、見たいものがある、何だってよかった。それが少しでも彼をこの世界に留める理由になるのであれば、何だって。
 思考に耽っていた頭が、茹だったように熱を持ち始めていた。このままではのぼせてしまう。それに、あまり長湯をしてしまってはベディヴィエールを待たせてしまう。そのことに思い至り、立香は急いで湯船から上がると浴室を出た。
「ごめんね! うっかり長湯しちゃった!」
 洋服から旅館備え付けの浴衣へと着替えて居室へと戻ると、入浴中に敷かれたのだろう、二組の布団が目に入る。ごく当然のように同じ部屋へ並べられたその敷布に疑問が沸き上がり、遅れてその理由に合点がいった。よくよく考えてみれば、男女二人でこういった部屋に泊まるのは、普通は蜜月旅行と捉えられるものではないだろうか。
 途端に顔が火を噴きそうなほどに熱く熱を持つ。湯上がりでよかった。そうでなければ、誤魔化せる自信などなかった。どくどくと心臓が早鐘を打っている。それが決して湯あたりによるものではないのだろうということは、自分が一番よく分かっている。
「私のことは気になさらずとも大丈夫ですよ。もっとゆっくりしてくださってもよかったのです」
「あんまり長湯しちゃうとのぼせちゃうからね……」
 すっかりとのぼせた頭で返事をすると、それもそうですねという言葉が笑みと共に返ってくる。そうして浴室へと向かっていったベディヴィエールを見送ると、立香はふらふらと庭へまろび出た。冷えた空気が、熱を持った体を心地よく包み込む。吐き出した白い息が真っ暗な夜闇の中へ溶け消えていくのを見送りながら、凛と冷たい空を見上げる。都会よりは幾分か近くに感じられる星々が、蒼い月と共に立香を見下ろしていた。彼らはいつでもそこにある。遥か遠い空の向こうで、煌々とした光を放ち続けている。静かに見守り、そして問いかけるように、ただそこに在り続ける。
 冷たい外気に思考はすっかりと落ち着けられていた。夜空を見上げ、少女は強く念じる。決して失うものかと。絶対にこの手を離すものかと。強く、強く。その瞳の奥で、激しい情念が篝火の如く燃えていた。
 そこへ、ふわりと何かが立香の体を包み込み、その思考は中断される。視線を落とせば、臙脂色の羽織が浴衣の上から着せられているのが見えた。
「ずっとそんなところにいては、風邪をひいてしまいます。こんなにも体を冷やして……」
 届いたのは主を慮る落ち着いた声。その音が、立香の心を紐解くように和していく。頬に触れる熱はひどく熱い。立香の体が冷えすぎているからだった。随分と長い間外にいたらしい。ぼうっとしていて気が付かなかった。
「……温かいね」
 立香はそのぬくもりに頬をすり寄せる。冷えた体に与えられる熱が、彼がそこにいるという証左が、無上の安堵を立香に齎す。このままこうしていたい、と思ってしまうほどに。
「貴女の体が冷たいんです。さあ、中へ入りましょう」
 その声は彼にしては珍しく、非難するような色が滲んでいる。随分と心配させてしまったようだ。振り返ると、立香の想像に違わない、沈痛な面持ちをしたベディヴィエールの姿がある。ごめんねと告げながら、立香は自身を支える腕に体を預け、そこから伝わる体温の心地よさに酔い痴れた。
 暖房のきいた室内へ戻り、淹れたての茶をゆっくりと飲んでいると、冷え切っていた体が徐々に熱を取り戻す。もう一度入浴をしてくるかとの問いかけに首を振り、支度を済ませて布団へと潜り込んだ。見た時には羞恥しかなかった布団の並びも、今となっては安心感すらある。灯りが落とされ、闇に包まれた部屋の中、立香は自身の隣にある気配に問いかけた。
「ベディ、いる?」
 それは、幼い子供のような問いかけだった。眠れぬ夜に親へと同衾をねだるような、どこか縋る色を滲ませた声音。
「はい、ここに」
 その問いにベディヴィエールははっきりと答える。眠れぬ子に子守唄を捧げるよう穏やかに、優しく。その姿を捉えることは敵わなくとも、ごく近くから返ってきたその声に笑みを零して、立香はゆっくりと眠りの中へと身を委ねた。

* * *

「驚いた。君は魔術師としてはポンコツだが、触媒としての素養は随分とあるらしい。それとも、君のその執念が成せることなのかな?」
 その言葉の内容とはまるで違う、ひどく冷静な男の声が降り注ぐ。少女は随分と息を乱しているらしく、一定の間隔で上下に揺れ続ける視界の中で、冠位魔術師が口元に弧を描かせながらこちらを見ていた。
「それは本来、君には扱えない魔術であるけれど、繋がっているパスが大部分を補助してくれるから問題ないだろう。それを通すための導線も整えた。だが、そこに堰があれば止められてしまう訳だ。だから、それを切れるようにしなくてはならない」
 その口ぶりからすると、少女は何かを教わっているのだろうか。彼女に向けられた言葉のどれもが気になって仕方がない。触媒とは一体どういうことなのか。断片的な情報しかなく、疑問だけがぐるぐると渦を巻いている。彼女達が何をしようとしているのかは一切分からない。だが、静かに張り詰めた空気から感じられる不穏なものに、ひどく不安な気持ちになるのだ。
「さて、じゃあやってみようか」
 城砦の縁に腰かけながら、魔術師は淡々と告げる。恐ろしいまでの静寂の中、どこか場違いなまでに爽やかな男の声だけが、草原を吹くそよ風のように通り過ぎていく。
「加減は間違えないように。死んでしまっては元も子もないからね」
 ひどく不吉なその一言へ応えるように、視線が深く沈み込んで、再び浮上した。蒼く、大きな月を背にして、男がじっと見つめていた。観察していた。その足元から姿を現した薄桃色の花が開花し、やがて零れた花弁が風に乗って一片飛んでいく。
「死んだりしない、絶対に」
 頷きと共に、少女は力強く宣言した。音のない夜の中では、深く息を吸い込む音すらひどく大きく聞こえる。ゆっくりと閉ざされた視界が次の瞬間大きく開かれ、そこに映っていたのは突如として吹き抜けた突風に煽られる長い白髪と、儚くも美しい薄桃色の吹雪であった。どこか幻想的に感じられる光景に思わず心奪われそうになった時、それは唐突に暗転し──ぷっつりと途絶えた。
 目を開ける。そこにあるのは見慣れぬ天井。ここは一体どこだろうと考えて、旅行に来ていたのだということを思い出す。微睡みの中にある頭はうまく働かず、思考が儘ならない。
 夢を、見ていたはずだ。思い出さなくてはならないはずのそれは、やはり靄の中にあるかのように形が分からない。そのことが、たまらなく口惜しい。何故、思い出せないのだろう。何故、こんなにも気になっているのだろう。身を起こし、考える。いつもより冷たい朝の空気が体を包み込む。何か、大事なことだったはずなのだ。それだけは分かるのに、肝心の内容には指先すら届かない。
「ぅ、ん……」
 ごく近くから聞こえた小さな呻きに思考は中断され、弾かれたように顔を向ける。まだ眠りの中にいる立香が、もぞりと寝返りを打っていた。そういえば、昨日は褥を並べて眠ったのだった。晒されたまだ少し幼さの残ったその寝顔に、ベディヴィエールは問いかける。
「貴女は、一体何をしようとしているのですか……?」
 返ってくる答えがないことは知っていた。

* * *