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* * *
全身の血管が無理矢理に広げられ、裂かれるような痛みが襲う。それは一度に通せる魔力の量を限界まで引き上げた代償であった。本来の許容量を遥かに超える魔力を体が形を保てる限界まで通せば、当然反動はやってくる。魔力を行使するたびに体が悲鳴を上げたが、膝を突くことはしなかった。
共有の魔術を用いようにも、桁外れの魔力量を危険であると判断した体がブレーカーを落としてしまえば、移行は叶わない。筋肉本来の力が普段は抑制されているように、魔力も本人の器を超えての行使はできないが、立香は自身の体が持つその防衛機構を破壊した。魔術師に教えを乞うていた間にその目標を達成することは叶わず、限界を超えた魔力供給ができるようになったのは、そこからもう少し先に泥の海で原初の母と対峙した時のことであった。
本来あるべき箍が外され、立香は指先が壊死する寸前の状態になろうとも魔力を注ぎ続けることができるようになっていた。女神からその指摘を受けて、立香は自らの体に起きている変化を知り、自身の目標が成っていることを理解したのだ。
「共有の魔術を使って、サーヴァントを構成できるほど膨大な魔力を一度に供給できるようになっても、大元となる魔力がなければ意味がない。本来は聖杯が補うその動力を他で賄うとなれば、途方もない数の犠牲を強い続けなくてはならないけれど、それは本望ではないだろう?」
魔術師は軽快に語る。手段のために他者の命を吸い上げる行為は許容できることではなく、彼もそれを望まないであろうことは分かっているので、立香は強く頷いた。そこで魔術師が差したのは、頭上に広がる星空だ。
「小源ではなく大源で魔力を賄うという手段だ。人間一人の持つ魔力量では到底足りないが、自然界に満ちる魔力は膨大だ。君と彼はどうやら星と相性がいいようだから、星の持つ魔力を使ってしまおうという訳だね」
自然の持つ魔力を用いるならば枯渇の心配は薄いが、それを一体いかにして供給するのか。頭を捻って考えてみるが、その方法がよく分からない。
「でも、それをどう使うの? あなたが言う通り、私の魔術師としての素養はポンコツだし、大源を扱おうにもサーヴァントを賄えるだけの魔力は使えないでしょう?」
尤もな立香の問いに、冠位魔術師は笑う。それは決して朗らかなものではなく、どこか冷酷ささえ感じさせるようなものであった。本能的な恐怖から、立香の背筋に冷たいものが走っていくが、決して目は逸らさなかった。紫水晶のような、熱を一切感じさせない双眸が立香の目を捉えた。その瞳の奥は深く底知れず、見通すことができない。
「人体で最も魔力を収集しやすい部位は目だ。そこに術式を施して大源を集める装置にする。あとは取り込んだ大源を君自身の小源にして、君の器がパンクしてしまう前に供給してしまえばいい。言ってしまえば君を魔力交換器にしてしまうという寸法さ」
一歩間違えば膨れ上がる魔力に耐え切れず、即座に消し飛んでしまうような方法を、魔術師は事もなげに提案する。立香がそれを望み、必ず遂行するであろうことを分かっているからだ。あれこれと御託を語ることは、既に決意を固めた人間の前では無意味なことであると知っていたし、そうする理由も彼にはない。予想通り、一も二もなく頷いた立香に魔術師は告げる。
「ああ、神代は魔力が濃過ぎるから、その『目』は絶対使わないように。『視た』瞬間、網膜どころか脳まで焼かれて、あっという間に器が壊れてしまうからね」
そうして藤丸立香は人の目すらも捨て去った。何を捨てようとも、大事なものを守りたいと彼女は願った。かの騎士に課せられた代償と制約、その果てに辿る末路を知った時から。失いたくないと、奇しくもかつて彼が背負った罪と同じ願いを抱いたのだった。
* * *
それは、夢ではない。立香の記憶であった。
重い瞼を持ち上げると、こちらをじっと窺うベディヴィエールと目が合った。どうやら意識を失ってしまっていたらしい。立香の体は自室のベッドの上に寝かされていた。未だに頭は熱で朦朧としていたが、状況が読み取れる程度には働いてくれているようだった。
「……マスター。この銀の腕は、実は魔法の腕なのです。凄いのです」
立香が目を覚ましたのを確認すると、ベディヴィエールはにっこりと微笑んで、突然そんなことを言い始めた。まるで子供のようなことを言う彼が妙におかしくて、立香はくすくすと笑ってその茶番に付き合うことにした。熱で思考が曖昧になっていることもあるのだろうが、今はその児戯が楽しく思えたからだ。
「貴女が見たいと思うものを、この腕は何でも見せることができます」
「へえ……凄いね。じゃあ私、ベディが見た花を見てみたい。前に言ってた、春に咲く花」
それは、立香が決して知ることのない景色。ベディヴィエールの記憶の中で息衝く、美しい花。それを分かっているからこそ、立香はその景色をねだった。
「分かりました、では」
立香の両目を覆うように、ベディヴィエールの右手が瞼の上に置かれる。ひんやりとした冷たさが、火照った肌に心地よい。閉ざされた視界の中、立香は考える。確かに、想像の中であればどんなものであろうと見ることができる。子供騙しの理屈だと感じながらも、立香は少しずつ高揚していく気持ちのまま口元に弧を描いて、瞼の裏にその光景を夢想した。
キャメロット城から一人馬を走らせ、その場所へと向かう。雪解けを迎えた丘では、冬を超えて再び枝葉を付けた新緑の中で幾つもの花が静かに揺れている。訪れた春を祝福するかのように、百花繚乱、様々な種類の花が咲き匂っており、その景色をベディヴィエールが慈しむように見つめているのだ。
木の葉のさざめきを伴いながら吹き抜ける風が、ベディヴィエールの髪を優しく撫で、その毛先を遊ばせている。花を愛でていたベディヴィエールが、おもむろにこちらを向いた。まるで、そこにいるはずがない立香のことを認識しているかのように。そのことに驚きながら、立香は不思議とそれを受け入れていた。想像の中なのだから、多少こんなことがあったっていいだろうと納得する。
「マスター、私は貴女に出会えて幸せでした」
立香に向けて、ベディヴィエールは穏やかに目を細めて笑った。それは立香が好み、一番彼に似合うと感じていたやわらかな微笑みであった。
「王への不忠を贖う機会をくださったこと。そして、主を守れなかった私に三度目の機会をくださったこと」
空想の世界の外で、立香の唇に柔らく、あたたかな何かが触れる。そこから感じたのは、微かな鉄の味であった。これは一体何なのだろうかと考える立香に、生命の芽吹きを齎す温かな春の日差しが降り注ぐ。ぬくぬくとした心地よい光を受けながら、与えられるぬくもりに立香は顔を綻ばせた。これが、ベディヴィエールの見てきた景色なのだろうか。春の丘は、あたたかな生命の息吹に満ちていた。
「だからこそ、今度こそ騎士の務めを果たさせてください」
そう告げてベディヴィエールが笑みを深くすると、立香の胸は見えない手に掴まれたかのように締め付けられ痛みを訴える。だめだ、と本能的に感じる。その笑みには見覚えがあった。それはかつて、今際の際で彼が浮かべたものだ。立香が最後に見たそれと、今の彼は全く同じ顔をしていた。
そこで立香はようやく気付く。自らを包み込む温かなものは、春の日差しなどではない。それは血液を媒介として流れ込む、膨大な量の魔力だ。生命の力たるそれが体内を巡り、壊れかけた体を満たしていく。そのぬくもりは命の温かさだ。そんなことをできる存在はこの場に一人しかおらず、その魔力の源が何であるかなど考えるまでもない。
「ベディヴィエール!」
立香がその名を呼ぶと同時に強い風が吹き付け、天高く花弁を舞い上げた。求めた姿は、極彩色の花吹雪の向こうへと隠されてしまう。視界を覆う花弁で、全く前が見えない。
「ベディ!」
叫ぶ。叫ぶ。絶対に、見失ってはいけない気がした。見失ってしまえば、もう二度と会うことはできないと確信に似た直感があった。恐怖と焦燥が一瞬にして燃え上がり、激しく立香の胸を焦がしていく。舞い散る花弁を掻き分ける。手を伸ばす。届かない。掴めない。
「いやだ、いやだ……!」
知らぬうちに涙が溢れていた。ひとたび溢れたそれはもう止めることはできず、幾条もの軌跡を立香の頬に残していく。叫ぶ声は、次第に懇願し、縋るような響きへと変わっていた。
「ベディ!」
必死に花弁の向こうへ伸ばした手は、何にも触れることなく空を掻いた。空想の中の春の丘は消え失せ、目の前にあるのは自室のベッドと、ベディヴィエールがいた場所で微かな煌きを残して消え行く魔力の残滓。上体を起こし、そこにあるものを求めるように片手を伸ばしたまま、立香は呆然とその光景を見つめていた。
ずっと続いていた発熱はすっかりと引いていた。壊れてしまった記憶も取り戻され、自分が誰であるのかはっきりと思い出すことができる。ベッドの上に、力をなくした立香の手が落ちた。何も掴むことができずに開かれた掌が、わなわなと震える。
少女が必死に抗い、逃げ続けたその結末は、呆気なく訪れた。無慈悲に、そしてどこまでも公正に。与えられたモラトリアム、行き先のない二人きりの逃避行。それはその手が離れた瞬間に終わりを告げた。
「ぅ、ぁ……ああ、あああ……!」
言葉はなかった。そこにあるのは、少女の慟哭のみ。
消えてしまった。何一つ残さず消えてしまった。あの日笑って自らの終焉を受け入れたベディヴィエールは、やはり笑って最期を受け入れた。彼はもう、どこにもいない。二度と会えない。歴史からも抜け落ち、世界は彼を忘却する。今はまだ立香の記憶に残っているが、彼がいたことを憶える者がいなくなれば、聖剣を手に千五百年もの時を歩き続け、立香へやわらかな微笑みをくれたベディヴィエールの存在は、一体どうなってしまうのだ。そして、還るべき座も持たず、贖いの中で魂を使い果たして輪廻の枠からも外れた彼は、一体どこへ行くのだろう。分からない。それを知るものなどいないのだから。
空から落ちた星が一体どこへ行くのかを立香は知らない。その行方を、見失ってしまったから。見付けることはもう敵わないのだろう。落ちた星は、二度と空へは還れない。