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そして再び彼女が目覚めたのは、漂う食事の匂いを感じ取ったからであった。咄嗟にがばりと起き上がり、揺れる脳内に微熱が未だに続いていることを感じるが、そんなことはどうでもよかった。この状況で食事を用意できる人物など、一人しか心当たりがない。立香は身支度もそこそこに慌ててリビングへと飛び込んだ。
「おはようございます、マスター」
ベディヴィエールはにこやかに朝の挨拶を贈ってくれる。テーブルの上には既に朝食が並んでおり、茶の準備までされている。立香が手伝えることは何も残っていなかった。
「うわあああ……ごめん、ありがとうベディ」
とんだ失態に頭を抱えたくなる。やわらかな声に促されながら食卓に着き、手を合わせたところで、立香の記憶は途絶えた。
「……あれ?」
気付いた時には立香の体はリビングのソファの上にあり、ベランダに続く窓から見える景色はすっかりと真っ暗になっていた。何が起きたのかが分からず、頭の中が混乱で埋め尽くされる。寝過ごしてしまい、慌てて朝食の席に着き、それから──それからの自分は、一体何をしていたのだろう。それ以降のことが、全く思い出せない。朝起きてから、夜までの記憶の一切が、立香の頭の中からごっそりと抜け落ちていた。
「マスター、ポインセチアの鉢はどこに置いておきましょうか」
そこへかけられたベディヴィエールの声に、立香はびくりと体を震わせて振り向いた。何か用事を済ませてきたらしいベディヴィエールが、キッチンからこちらへと歩いてくる。問われた内容が、全く分からなかった。
「ポインセチア……?」
恐る恐る問い返す立香に、ベディヴィエールは今日買ってきた鉢のことであると付け加えた。恐らく今日は花屋へと買い物に行ったのだろう。今までのやり取りからそう結論付けて、立香は至って平静であるかのように装って話を続けた。
「んー、じゃあポインセチアはこっちに置こうか。ベランダの近くなら日当たりもいいだろうし」
できる限り明るい笑みを浮かべて告げた立香の答えに、隣へ腰かけたベディヴィエールは思いもよらぬ返事を寄越した。ひどく落ち着いた、感情の読めない声で。ただ一言を。
「今日買ったのは、薔薇の花ですよ」
表情が凍り付く。
ベディヴィエールは明らかに何かに感付いており、立香を試している。そんな確信があった。胸の鼓動が、早く、大きくなっていく。緊張に喉が渇いていく中、立香はどうにか言葉を絞り出した。
「そうだ、薔薇だっけ。ポインセチアだと思ってた……なら、玄関の花と交換しても──」
そこまで言った時、立香は己の失敗を悟った。こちらを見るベディヴィエールの表情が、ひどく強張ったものであったからだ。眉根を寄せ、逡巡するように俯くと、彼は少し苛立った様子で歯噛みした。そうしてベディヴィエールは顔を上げると、その双眸でまっすぐに立香を射抜く。
「マスターに、お詫びしなくてはならないことがあります。私は貴女に嘘を吐きました。本当は、ポインセチアも、薔薇も、買っていないのです。今日はどこにも出かけていません」
嘘を吐いてしまい申し訳ありませんでした、と続けて頭を下げた彼に、立香は力なく笑うことしかできなかった。先程までの道化を演じていた自分がひどく滑稽に思える。逃げ場など、最初から用意されていなかったのだ。
少しずつ、ベディヴィエールは核心へと近付いていく。それは、立香が恐れ、ひた隠しにしてきた秘密が知られるということである。そのことが、怖くてたまらなかった。彼にそれを知られることではなく、その先にある未来が恐ろしかった。
「マスターに、お伺いしたいことがあります」
「……なに?」
はっきりと一言一言を噛み締めるようなベディヴィエールの声に対し、立香が発したそれは少し震えていた。痛みを堪えるようにベディヴィエールは顔を歪め、その問いの続きを紡ぐ。
「私が誰だか、分かりますか?」
それは、予想だにしない内容だった。その質問の意図は分かりかねるが、答えははっきりと分かっていた。忘れたりするはずがない、その存在を。
「何を言ってるの? あなたはベディヴィエールでしょう?」
はっきりと告げた立香に、ベディヴィエールは少し表情を和らげると、再び神妙な面持ちで次の質問を口にした。それこそが、核心に迫る問いであった。
「では……貴女が誰だか、分かりますか?」
その質問こそ何を言っているのだろうと、立香は軽く笑い飛ばすつもりだった。自分が誰かなどと、そんなこと。そこではたと気が付く。
「私、は……」
私は一体、誰なのだろう。
分からなかった。自分が一体誰であるのか、全く思い出せない。気付きもしなかったその異常の大きさに困惑する。答えに窮した視線が泳ぎ、唇が戦慄く。立香に起きた変化に、ベディヴィエールはその答えを得たのだろう。彼の表情はみるみるうちに歪み、今にも泣きだしそうなものになる。そうして彼は立香の体を強く引き寄せると、その腕の中にきつく閉じ込めて叫んだ。
「貴女はもう、ボロボロではないですか!!」
悲痛な声を聞きながら、立香はそこにある肉体の温かさを感じていた。そのぬくもりが心地よい、と少しずれた感慨を抱きながら、己を抱きすくめる腕を黙って受け入れる。ベディヴィエールの体は小さく震えており、もしかすると彼は泣いているのかもしれないと思った。
ベディヴィエールが悲しい思いをするのは嫌だった。彼には笑っていて欲しいのだ。その穏やかな微笑みこそ、彼に一番よく似合うと立香は知っているから。
そろりと手を伸ばし、その背を撫でてやると、腕の力が一層強くなる。痛みがない訳ではなかったが、少しでもベディヴィエールを慰められるならそれでよかった。
自分が何であるのか分からない。きっと気付いていないだけで、他にも抜け落ちているものは沢山あるのだろう。それでも、一番大切なものだけは全く色褪せることなくその一切を鮮明に覚えていた。ならば、それだけでよかった。
暫くその状態が続いていたが、ふっとベディヴィエールは腕の力を緩め、立香を開放した。目を伏せると、苦しげな面持ちのまま彼はぽつりぽつりとその思いを吐き出していく。
「おかしいと、思ったんです……魔力が明らかに減っておらず、現界を続けられていたこと……。私には単独で顕現し続けられるような能力はありません。何がしかの力が働いていると感じていましたが、まさか、こんな……」
この選択は、立香の意志だ。だから、ベディヴィエールがこのように悔やむ必要など全くないというのに、彼は自身を責めている。そのことがひどくもどかしい。これは、立香がそうしたいと願い、行ったことの結果に過ぎない。だからこそ。
「もう、やめましょう。こんなこと」
彼の言葉であろうと、それを止めることは決してできはしないのだ。
「嫌だ!」
立香はベディヴィエールを強く突き飛ばすと、突然のことに体勢を崩した体の上にのしかかる。馬乗りになった状態で、立香は癇癪を起した幼子のように叫び続けた。
「いやだ! いやだいやだいやだいやだいやだ!!」
驚きに目を瞠りながら立香を見上げていたベディヴィエールであったが、その白皙の頬に熱い雫がいくつも降り注いでいることを知ると、新緑の瞳をゆらりと揺らした。
ベディヴィエールに跨ったまま、立香は喉笛を噛み千切らんばかりの剣幕で吐露を続けた。
「あなたいなくなったら、誰があなたを憶えるの! あなたが歩き続けた日々はどうなるの! あなたの思いも、歴史も、全部なかったことになるなんて私は嫌だ!」
声の震えは、やがて体へと伝わっていく。その両の瞳から大粒の涙を零しながら、立香は吠えた。どれ程の苦痛にも決して泣くことなく耐え続けた少女は今、一人の騎士のために泣いていた。熱に浮かされた頭がぐらぐらと茹だるようだったが、それでも叫びを止めることはできなかった。
「私は、私は……『あなた』を失くしたくない……っ!」
頭に回った熱が意識を奪い、立香はそのままくたりとベディヴィエールの上に倒れ込んだ。ベディヴィエールが慌ててその体を抱き止め、主を呼ぶ。その身に余る力の度重なる行使は立香の体を蝕み、遂には彼女を壊そうとしていた。