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「カルデアの全人員に通達がある」
管制室に響くのは朗々とした女性の声。人理の象徴であるカルデアスを背に、ダ・ヴィンチは視線を端から端へと走らせた。職員全員に加え、現界しているサーヴァントの全員も呼び集められれば、それが只事でない内容ということは聞かずとも分かる。薄暗い管制室の中、カルデアスだけがその存在を主張するようにぼんやりと発光していた。全員が固唾を飲んで見守る中、緊張に張り詰めた空気に万能の天才は咳払いを一つすると、その続きを口にした。
「人理において当面の危機は去ったという見解がなされた。つまり、だ。カルデアにおけるマスター・藤丸立香の役割が終了したということだね。人理継続保障機関フィニス・カルデアは現状運営を続けていくが、レイシフト機能および守護英霊召喚システム・フェイトの無期限凍結、藤丸立香のマスター権限返還、それに伴い英霊の退去が決定された」
淡々と告げられたその宣告に対して、誰一人として言葉を発する者はいなかった。沈黙だけが粛々と空間を満たしていく様子に、ダ・ヴィンチは小さく息を吐きながら肩を竦める。こういった時、漂う静寂を破ってきたのはいつだってこの美女であったので、誰もが言葉を探しあぐねては口を開き損ねていた。そうして澱のように沈殿していく重い空気を裂くのは、やはり万能の人なのである。
「さて! じゃあリツカちゃん、早速だけどどこか行きたいところはあるかな? 凍結前にレイシフトなりシミュレーターなり使っておこうじゃないか」
これくらい許されるだろう、とダ・ヴィンチはころころと笑う。その笑みにつられてか、張り詰めていた空気は和やかに解れていった。立香も表情を綻ばせながら、ダ・ヴィンチの問いかけに思案する。
カルデアで得たものは多い。自分の一生では決して知ることのなかったであろう物事は山のようにあった。時間旅行で沢山の出会いと別れを経て、美醜様々、悲喜こもごも、あらゆるものを見てきた。その一つ一つが、今も鮮明にこの胸の中へと刻まれている。この地での最後の思い出に選ぶなら、どの景色を焼き付けたいだろうか。
「星空が見たい、かな」
記憶に残るのは、見上げた夜空の美しさだった。真昼の空には人理焼却の証たる光輪が燦然と輝いていたが、いつどの時代どの場所においても、星々の輝きは決して失われることがなかった。そのことが、ずっと強く胸に焼き付いている。それをもう一度、この目に映したいと思ったのだ。
「よし、じゃあシミュレーターでとっておきの環境を用意しようじゃないか」
立香の願いに、ダ・ヴィンチは鷹揚に頷いてみせる。その宣言に従って、職員達が各々の機材へと向かっていった。何の気なしに口にした希望であったが、これは随分と大掛かりなことになってしまったのではないだろうか。立香としては多忙な彼らに負担をかけることは本望ではない。遅れて湧いてきた焦りに狼狽える立香であったが、右往左往していた視線は職員から向けられた和やかな笑みに縫い留められた。
彼らは、ここを去る立香へ思い出を贈ろうとしてくれている。表立って認められる功績とはならないのかもしれないが、立香と共に、むしろそれ以上に尽力し続けてきた存在は、長きに渡って苦楽を共にした戦友を温かく送り出そうとしてくれているのだ。ならば、それを思い切り享受することが、自分にできる一番の返礼なのではないだろうか。あらん限りの感謝を込めて、立香は笑った。終わりの時が、すぐそこまで近付いていた。
準備には時間がかかるとのことだったので、自室の整理を始めてみたものの、驚くほどに物がない。持ち込んだ私物はないに等しく、増えた物といえば随分とささやかなものだ。サーヴァントから貰った物などもいくつかあるが、持ち出せるものとなると種類はおのずと限られてくる。ルーンストーンや手紙など、外界に触れても差し障りのない物を選別して纏めていく。折角贈ってもらった物を置いていくことは忍びないが、彼らの核たる物を持ち出してしまえば聖遺物になりかねない。それが本来何の権限も持たない一般市民が持っていて良いものではないと、魔術師としての知識や常識に明るくない立香でも理解できていた。共に過ごしてきたカルデアの面々であれば悪いようにしないことは分かっているので、これらの扱いは彼らに一任することにした。
ごく小さな段ボール。それがカルデアで得た立香の全てだった。だが、その中には千言万語を費やしても語り尽くせないほどの思い出が詰まっている。残る物は多くなくとも、様々な心の糧を得ることができたと思う。それこそ、自分には分不相応なものばかりだ。
床を磨き、棚を拭き上げた。一年以上もの間慣れ親しんだ自室に、別れを告げるための準備をする。初めてここを訪れた時は、こんなにも長くこの部屋で過ごすことになるとは思ってもみなかったうえ、人理を取り戻す旅に出るなど信じられなかっただろう。入館当日、案内された自室で出会った先客を思い出して、懐かしさとこみ上げる寂寥に胸が掻き毟られる。彼は、もう手の届かない、取り戻せない欠損になってしまった。軽く頭を振って沈みそうになる気持ちを切り替えると、立香はテーブルを拭く手に力を込める。
「先輩、準備ができたそうです」
開いたドアからマシュがひょっこりと姿を現す。ミルク色の柔らかな髪が揺れ、ちらりとその双眸が露わになって、再び隠れた。先輩というどこか擽ったい呼び名を聞くのももうすぐ最後なのだと思うと、胸の内に寂しさがじわりと滲む。彼女からは全幅の信頼を寄せられ、何度も命を救われてきた。それに応えられるだけのものを、自分は彼女に返すことができただろうか。
机を拭き終えた雑巾を冷えた水で洗い、ぴんと張って干す。汚れ一つないそれは、まるで白亜の壁のように見えた。その壁の向こう、最果ての前でかつて迎えた別れ。今際の際に、ひどく穏やかな表情で微笑んだ騎士の姿が頭の中で鮮明に蘇る。
「先輩?」
「ごめん、すぐ行くね!」
訝るマシュの声音に、思考は無意識の海から急浮上する。慌ててドアへと駆け寄りながら、立香はその震えごと掌をぎゅっと握り込んだ。隣を歩くマシュに特段変わった様子はない。動揺を気取られずに済んだことにほっとしながら、立香は最後になるであろう冒険への期待を口にする。今はただ、与えられるものを目一杯楽しもうと決めて、不安も恐れも全て胸の奥へと仕舞い込んだ。それらを抱えたまま、職員達が作り上げてくれた仮想空間へと飛び込むのは不義理であると思われたからだ。
部屋に踏み入ると、ダ・ヴィンチと職員達に手厚く迎え入れられ、シミュレーターの装置を装着される。初めてシミュレーターを起動した時の情景をなぞっているかのようで、面映ゆさに笑みが零れる。今はもう毎日の日課を通じてシミュレーターを自分で起動できるまでになったが、最初の頃は経験したことのない仮想体験に困惑しきりだったものだ。
プログラムが起動し、宙を浮遊しているかのような不安定な感覚が全身を包み込む。それが解ける一瞬のうちに立香の意識はカルデアを離れ、電子の海へと漂着していた。まるで自分が今立っている場所がどこであるかを思い出したかのように、少し冷えた空気が頬を掠め、木々が青々とした匂いを放ち始める。風に揺れる草が、足元をゆるりと撫でていった。作り上げられた仮想世界は、現実と寸分変わらない姿で息衝いている。さわさわと葉が擦れる音が、心地よく耳朶を擽っていった。
遮るものの何もない草原が、遠く地平線の彼方まで広がっている。草の上にごろりと寝転ぶと、一面に広がる星空。それは子供の頃に見たプラネタリウムを思い出させた。空気が澄んでいるのか、手を伸ばせば触れられるのではないかと思うほどごく近くに星が見えている。
「そろそろかな」
ダ・ヴィンチが呟く。そちらに視線を移そうとして、立香の視界は夜空に縫い留められた。夜の帳をひとつ、またひとつと、一条の光が走り抜けていく。童女であった時分に返ったかのように、立香の心は高揚していく。星々を多く見上げてきたが、流星群を見たのは初めてのことだった。
「うん。記録にないものだったから演算処理での再現になったけれど、うまくいったようだね」
成功を噛み締めるように、ダ・ヴィンチはうんうんと深く頷いている。シミュレーターの準備に時間がかかっていたのは、この光景を作り出そうとしてのことらしい。カルデアはレイシフト先の情報を常に収集し続け、そこで得たものは魔神柱であろうが寸分の狂いなく再現できる。だが、立香が今まで流星群を見たことがなかったように、この情報はカルデアの収集ストックにはなかったはずだ。それを再現するには随分と手間がかかるであろうに、立香のささやかな願いのためだけに動いてくれた彼らには感謝してもしきれない。
「ありがとう。すごく綺麗……」
空を光の軌跡が駆け抜ける。儚くも美しいその光芒を見つめながら、空から落ちた星は一体どこへ行くのだろうとぼんやり考えた。鮮やかな光を残す軌跡を追いかけても、立香の目はやがてそれを見失ってしまう。見落としてしまったのか、それとも消えてしまったのか。立香は何度も流星の行方を追ってみたが、一つとして追い切ることはできなかった。
脳裏には今までカルデアで過ごしてきた思い出が走馬灯のように巡っている。楽しいことばかりではなかったし、辛いことも数多くあったが、この地で得た経験は自分にとってかけがえのない財産となるのだろう。終わりの時を数えるかのようにまた一つ、流星が落ちた。