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最後のシミュレーションから時を待たずして、藤丸立香のカルデア最後の日はやってきた。真白い魔術礼装を纏わずに立っていると、自分がまるで違う場所にいるかのような不思議な気持ちになってしまう。カルデアを支え続けてくれた英霊達が座に還っていくのを一人ずつ見送り、職員それぞれに感謝を告げた。すっかりと静けさを取り戻したカルデアで、立香は長く旅を続けてきた少女との別れを迎えようとしていた。
「令呪を以て命ずる」
今まで行使されることのなかった三画の令呪が、手の甲で焼けるように熱を持つ。今までもサーヴァント達に対して令呪を使うことはあったが、それはカルデアの魔力リソースを令呪を通じて瞬間的に供給しているに過ぎない。本来の絶対命令権としての令呪は、本契約を果たしているマシュのものしか立香は持っていなかった。
「──幸せに、なりなさい」
それは、かつて死を定められていた少女への切なる願いであった。令呪は単純かつ瞬間的なものほど強い力を発揮する。あまりにも漠然としたその命令は強制力などないようなものであったが、それでよかった。命令をすることが目的ではなく、令呪を使い切ることにこそ意味があるからだ。そこに付随する指示などおまけであり、立香の願望でしかない。
命令権を使い果たした立香の甲から、マスターの証である令呪が燃え尽きるように消えていく。マスターとサーヴァントを繋いでいるそれが消えた今、英霊マシュ・キリエライトを繋ぐ契約も消失してしまった。彼女を縛るものはもう何もなく、完全なる自由となったのだ。
「きっと、手紙を書きます。沢山書きます」
「うん、待ってる」
無菌室しか知らなかった少女は今、外の世界へと飛び出そうとしている。幾度もの試験を経て、マシュの生体機能は他者と変わりないことが証明された。この度の決定により、彼女もまたカルデアより解放されることとなったのだ。そのために彼女の経歴データ等に多々改竄を施したことは、カルデア内におけるトップシークレットの一つである。
マシュはもっと、沢山のことを知るべきだと思う。人理を巡る旅で随分と視野は広がったように思うが、外の世界を何一つ知らずに生きてきたマシュの世界はひどく狭い。彼女はもっと、沢山のものを見るべきなのだ。だからこそ、今回マシュがカルデアの外へと出られることは、立香にとっても喜ばしいことであった。
最後に握手を一つ。大きな旅行鞄を提げた少女は、離れた手を大きく振りながら雪山の外へと歩き出していった。マシュはこの近隣で世話になるようだが、立香は元々住んでいた場所へと帰るため、送迎の時間は異なっている。残された立香は、ゆっくりと後ろを振り返りながらその英霊に問うた。
「あなたは、これからどうするの?」
その問いかけに、ベディヴィエールは小さく微笑む。今回の取り決めにおいて、英霊は実質の責任者であるダ・ヴィンチを除いて全員が退去し、座へと還ることが決まっている。だからこそ、ベディヴィエールがここに立っているのはおかしなことであった。彼は人間ではなく、紛れもないサーヴァントである。だが、彼はこうして現界を続けることが許されている。その理由は至極単純である。彼には還るべき座がない。帰るべき場所がない者は、どこにも退去することなどできはしない。残された時間が尽きるまで、彼はその瞬間を待ち続ける。それが『今回限り』の特例たる英霊・ベディヴィエールに与えられたただ一つの結末であった。
「ここで何か手伝えることをしながら、時を待とうかと」
騎士は未練など微塵も感じさせない、はっきりとした声音でそう告げた。彼は、既に己の運命を受け入れている。自身の辿る末路を理解していながら、逃げることも恐れることもせず、これを是としているのだ。それは実に彼らしい選択であった。だからこそ立香はベディヴィエールに願う。彼がそれを断らないことを知っている故に。
「なら……あなたの時間を、私にくれないかな?」
まっすぐに騎士を見上げながら、立香は問う。それは、マスターとして最後の命令であり、一人の少女の我儘であった。英霊であるベディヴィエールに残された時間は長くない。要する膨大な魔力量から、聖杯のバックアップなしにサーヴァントが長く現界することは本来叶わないことであるが、それを可能にしていたのがカルデアから供給される魔力である。それが絶たれてしまった今、ベディヴィエールが身に宿す魔力が尽きた時が、ここにいる彼の終わりの時である。残された最後の時間を、他者である自分のために使うことを立香はねだった。
ベディヴィエールはやや目を瞠ってから、穏やかに目を細めた。立香は彼が浮かべるそのふわりとほどけるような笑みが好きだった。やわらかな陽だまりの中に佇むように、じわりと胸が温かくなるのだ。そうして、ベディヴィエールは恭しく跪きながら、立香の想像と寸分違わぬ答えを口にする。
「貴女が、それを望むなら」
英霊となって尚、この騎士は自分のために生きようとはしない。分かっていたことではあったが、改めて実感したその思いは立香の胸を締め付ける。そして、そこに宿る意思を強く、確たるものにしていく。立香は騎士の手を取り、顔を上げたその人に微笑んだ。
「ありがとう、ベディヴィエール」
かくして、いつ終わるとも知れぬモラトリアムが幕を開ける。騎士の手を取り、少女は逃げる。何から逃げているのかすらも分からない、二人きりの逃避行。それはこの手が繋がれた瞬間から確かに始まったのだ。
荷物を用意してくるように告げると、ベディヴィエールはカルデア館内の奥へと消えていく。それを見届けて、立香は深く息をひとつ吐いた。ベディヴィエールの時間を貰い受けるということの重みが、ずしりと全身にのしかかっていた。いざ事を起こしてみると一気に神経が張り詰めていき、焦燥がじっと隣で息を潜めている気配を感じ取る。何とも脆弱な神経だと自らを嗤う。きっとこれからこの焦燥が影のように付き纏い続けるのだろうと思うと、恐ろしくて叫びだしたくなる。怖かった。これから待ち受ける何もかもが怖かった。一際大きく鼓動する心臓を感じながら、立香は自身を宥めるためにゆっくりと呼吸を繰り返す。遠くから足音が聞こえてくる頃には、立香は平静の落ち着きを取り戻していた。
「お待たせしました」
身辺整理を済ませてきたのか、それとも彼自身の気質か、戻ってきたベディヴィエールの手に荷物は一つもない。ならば一体彼は何をしに行っていたのだろうか、そんな疑問が頭をもたげていく。
「荷物はないの?」
「はい。私自身に荷物はなかったのですが、カルデアの方々に挨拶をしておこうと思いまして」
立香の問いかけにベディヴィエールは頷く。礼儀正しい彼らしいことだと思った。挨拶もなしに出てきてしまっては、それが彼の中で置き忘れた荷物になってしまうのだろう。彼は確かに自身の荷物を整理してきたのだ。
手元の時計に視線を落とすと、そろそろ迎えが来る時刻であった。ベディヴィエールを霊体化させると、程なくして送迎の人員が立香を求めて訪ねてくる。カルデアのエントランスのドアを久々に潜り、視界の悪い雪山へと踏み出す。相変わらず山頂は季節感がなくいつでも寒い。最後に一度振り返ると、長い時を過ごした場所へ別れを告げて、立香は力強く雪の上へと足跡を刻んだ。
導かれるままに車へ乗り込むと、すぐにドアが閉められ冷たい外気が遮断される。車の中は暖房が効いていて暖かい。そのような指示がされているのか、それともその必要がないと思われているのか、誰もが最低限必要の言葉しか発することはなく、車内はしんと静まり返っていた。走行する車の振動が、小さく立香の体を揺り動かす。絶え間なく続くその震えは、ぬくぬくとした車内環境と相俟ってひどく眠気を誘う。抗うことなく、立香はゆっくりと瞼を下ろした。
閉ざされた視界の中、車の走行音だけがただひたすらに続いている。眠気はあるはずなのだが、どうにも頭の芯が冴えていて一向に眠りに落ちる気配がない。結局、車が山を下り、空港へ辿り着くまでまんじりともせず過ごしてしまった。
礼を告げて車を降り、ターミナルへと向かう。スーツケースを軽やかに引きながら、立香は久し振りとなる外界の喧騒に戸惑っていた。カルデアから久しく出ていないものであったから、見渡す限りの人波がひどく新鮮に映る。スーツケースを預けてゲートを潜り、売店に並んでカフェラテを買ってきた。ガラスの向こうで働き続ける機体を眺めながら、ゆっくりとカップを傾ける。次にこの地を訪れるのはいつになるだろうか、そもそもその機会があるのだろうか。異国の地で英霊達と共に送った現実感のない生活に思いを馳せながら、立香は本来の生活へと回帰する。
搭乗口から機内へと乗り込み、指定の座席に着くと、故郷へと向かう安堵からか、ずしりと疲れがのしかかってくる。送迎の車内のような妙な緊張感も今はない。そこでようやく、自分はあの人物達を警戒していたのだということに思い至った。霊体化させていた激動の日々の残滓に気付かれるのではないかと、そこから自分が行おうとしていることを気取られるのではないかと。故郷の地を踏めば、この恐れも消えるのだろうか。思惟しながら、立香は目を閉じる。眠りの淵に誘われるがままに身を委ね、そのまま泥のように眠った。