星の在処とベルスーズ

FGOベディぐだ

 時刻は早朝。時差に体がまだ慣れていないのか、目覚めたもののひどく眠い。寝足りないと訴える目を擦りながら、立香は朝食の準備を進めていた。ふっくらと炊けたつややかな白米に、香ばしく焼いた魚、出汁をきかせた具だくさんの味噌汁に、じっくりと煮含めた野菜。そこに箸休めの香の物を添えれば立派な朝食になった。かつて同じものを作っていた台所の番人に比べれば味は劣るかもしれないが、現代女子としてはなかなか褒められてもよいのではないだろうかと自画自賛する。なかなかの出来に満足しながら盛り付けに取り掛かろうとした時、リビングのドアが開かれ、ベディヴィエールが姿を現した。
「おはようございます、マスター。寝過ごしてしまい申し訳ありません。何かお手伝いできることはありますか?」
 恐縮した様子でベディヴィエールはそう言うが、彼がここに来た時点で決して起きるのに遅い時刻などではない。むしろ彼の起床時刻を予見した立香が早起きをしていたのだから、これを寝過ごしだなどと言われるのは困る。本来はベディヴィエールを起こし、彼が支度をする時間で食卓を整えようとしていたのだから。何とも生真面目な彼らしいと笑みが零れる
「おはようベディ。寝過ごすどころかむしろ早起きだよ。じゃあ、盛り付けを手伝ってくれる?」
「主よりも寝入ってしまうとは恥ずかしい限りです……。では、私はこちらを」
 主より遅く起きることに気が引けるようであったので、明日からは共に支度をしてもよいのかもしれない。ベディヴィエールに窮屈な思いをさせてしまうのは立香の本望ではないのだ。もっと肩の力を抜いてくれればいいのにと考えるが、それを今、彼に求めるのは酷だと思ったので口には出さないことにする。少しずつ時間をかければ彼の従者気質も抜けるのだろうか。緑茶を蒸らしながら思惟するが、そんなベディヴィエールの姿が浮かばないあたり答えは出ているのかもしれない。料理が美しく盛り付けられた器を立香がテーブルに運び、その間にベディヴィエールが調理器具を洗っている。共同作業も悪いものではない。結局のところ、彼がいればそれでいいのだという結論に行き着く自身の単純さがおかしかった。
 各々作業を終えて食卓に着き、手を合わせて食事を始める。しっかりと味見をしながら作ってはいたが、味は悪くないと思う。しかし、こと和食に関してはカルデアで食べた味を超えられる気はしなかった。敵は強い。むしろ師事しておけばよかったと心底思う。
「味付けは大丈夫? 好みがあったら遠慮なく言ってね」
 あの味を再現しろと言われれば答えに窮するが、できる限り近付ける努力はする。恐る恐る問いかけると、ベディヴィエールは顔を綻ばせて美味しいです、という返事をくれた。その表情に無理がないことが感じ取られてほっとする。
「美味しいです、とても」
 そう言いながら、異国の食器である箸を器用に使ってベディヴィエールは食事を進めていた。サーヴァントとして現界する際に、その時代に合わせた基礎的な情報が知識として刷り込まれるらしい。西洋食器で和食を食べることは難しいと思うので、食事内容に気を遣わなくてよいことは素直に助かる。ナイフとフォークを用いた食事風景は今まで見てきたが、こうして彼が箸を用いて食事をする姿を見るのは初めてのことだった。その所作はやはり洗練されていて、その美しさは出身によって慣れ親しんできたことによるものではなく、彼自身が身に着けたものであるのだと気付く。こうして目の前でそれを見ることができる自分はなかなか幸せ者なのではないだろうか。少し浮かれた気分で食べる朝食は、味見の時よりも不思議と美味しく感じられた。
 食事を終えて食後の茶を啜り、分担しながら掃除と洗濯をしていく。二人分の洗濯物を干していると、生活を共にしているのだという実感が込み上げ、今更ながらに気恥ずかしくなる。洗剤の爽やかな香りを嗅ぎながら、自分の体躯よりも幾分か大きいシャツを広げた。まだ顔を出したばかりの朝日が、夜を塗り替えて眩く輝いている。陽が高くなった頃、一番その光を受けられるようにシャツを吊るし、その隣に自身のトップスを吊るした。風に煽られ、男女の服が軽やかに揺れている。その光景に見入ったのも束の間、身を刺すような冬の風の冷たさに立香は体を震わすと、残る洗濯物をいそいそと干し始めるのだった。
 家事を終え、昨日の荷解きの残りを済ませて昼食を摂った。やるべきことはあらかた済ませ、いよいよ手持無沙汰となってしまうので、立香は付近の施設を知ることも兼ねて散歩へ出かけることにした。今日は昨日に比べて随分と冷え込んでいる気がする。透き通った空の下で、吐き出した息が白い柱となって立ち上っていく。念入りに着込んできたものの、あまり長く出歩けそうにないようだ。
 大きな通りに沿って知らぬ景色を進んでいく。暫くして公園が見えてきたが、この寒さのためか閑散としている。それを脇目に通り過ぎ、住宅街を抜けると、商店街らしきものが見えてきた。いくつかの店が軒を並べており、それなりに賑わいは見せているようである。食料品店も見受けられたので、こちらへ買い出しに来てもよいかもしれない。あれこれと店を巡っていき、本屋に寄っていくつか本を買った。こう寒い中毎日散策に出るというのも堪えるものがあるので、暇を潰す手段はあった方がいい。本屋を出て少し歩くと、小さな喫茶店が目に入る。入ってみようかと声をかけようとしてベディヴィエールを見上げるが、彼の視線は立香とは反対側を向いていた。気になってその先を追ってみると、そこにあったのは花屋だった。
「気になる物でもあった?」
 立香の問いかけにベディヴィエールが振り向く。小さく笑みを零して、彼は冬でもあのように様々な花が咲くのですねと呟いた。
 最近は品種改良や生育環境の調整などで、開花の時期が違う品種でも流通するようになっている。自然の中では見られる光景ではないので、ベディヴィエールにとっては珍しく映ったのだろう。彼の興味を惹く物を見付けられたことが嬉しくて、立香は足取りも軽やかに花屋へ向かうと、切り花をいくつか店員に見繕ってもらうことにした。花言葉や詳しい品種などはよく分からない。ひっそりと彼に似合うものを、とベディヴィエールを指して伝えると、店員はにこやかに笑って応えてくれた。
 花瓶も一緒に購入し、花を受け取り礼を告げて店を出た。生け方を聞いてきたので、そうそう枯らしてしまうことはないと思いたい。
「はい、これ」
 丁寧にラッピングを施された花をベディヴィエールに手渡すと、一体どうしたのだろうという顔で彼が見つめてくる。
「今まで色々と助けてくれた、そのお礼。感謝の気持ちを伝えるのには花がいいっていうでしょう?」
 ずいと差し出したそれを半ば押し付けられるように受け取りながら、ベディヴィエールは困ったように眉を下げた。
「助けるだなど……むしろ私が貴女に救われたのです」
「私はそう思ったの。だから、あなたに受け取って欲しい」
 尚も言い募ろうとするベディヴィエールを制して、立香は飾らぬ本心を告げる。立香の言葉にベディヴィエールは瞠目し、そして目を細めてやわらかに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
 花を手にしたその表情はとても美しく映える。ああ、これが見たかったのだと立香は自身の内にあたたかな充足が芽生えていくのを感じた。彼が笑うと、嬉しくなる。花が綻ぶように、喜びが広がっていくのだ。もっと、それを見てみたいと思う。願わくはずっとそれが続いて欲しいと希求する。この気持ちは、一体どこから湧き上がってくるものなのだろう。自身の心を浚ってみるが、はっきりとは分からない。だが、形容し難いその気持ちを大切にしたいと強く思った。
「うん、じゃあ花が痛まないうちに帰って生けよう」
 喫茶店に少しばかりの未練はあるが、また来ればいい。今はただ、この和やかな時間が少しでも長く続いて欲しかった。寒さに冷えた手を揉み、立香は歩いてきた道を引き返す。その隣を歩きながら、ベディヴィエールはじっと立香の手元に視線を落としている。どうしたのかと問おうとした声は、それよりも早く発されたベディヴィエールのそれに掻き消された。
「マスター、少し失礼します」
 そう告げてベディヴィエールは立香の右手を取ると、自身のコートのポケットの中へと招き入れる。彼の体温で温まったそこはとても心地良くて、指先がじんと痺れた。
「片手だけではありますが、少しは温かいかと思いまして」
 こちらを見つめる瞳は優しい気遣いに満ちている。それはとても嬉しいことではあるのだが、ポケットの中で繋がれた手の感触を立香の手は鋭敏に拾い上げていた。コートの中で、自身の体温が少し上がっていくのを感じる。全身を巡る血液が少し温かくなって、体がぽかぽかと熱くなる。
 やや緊張した様子の立香に、ベディヴィエールは出過ぎた真似をしたと感じたのか、ぎくりと動きを止めて手を放そうとする。離れかけた指先を握り直し、立香は幾分か上の方にあるベディヴィエールの顔を見上げた。
「ありがとう、温かいよ」
 自然と笑みが浮かんでいた。きっと自分の表情はポケットの中の体温に蕩かされてしまったのだ。繋いでいない方の手も、ついでに頬も、すっかりと熱くなっている。微笑み合いながら二人、白い吐息と共に言葉を交わして歩いた。ポケットの中のぬくもりに、冬の寒さも悪いものではないと思えてくる。ベディヴィエールと居ると、いろんな物事がそう思えてしまうから不思議だ。それが何故であるのかはよく分からないが、幸せなことであるのは確かだった。
 二人が歩いた道のりはそう長くはない。ゆっくりと歩いても、自宅へと辿り着くのは驚くほどに早かった。離れていく手を名残惜しく思いながら、ロックを解除して帰宅する。買ってきた花は玄関に飾ることにした。居住部に比べると空調の影響を受けにくい分、長持ちしやすいのだという。花瓶を置いて花を生けると、ぱっと空気が華やいだように感じる。これからこの花を見るたびに、和やかな気持ちになるのだろう。
 思ったよりも時間は経っていなかったらしく、陽はまだ高い位置にある。寒い外からぬくぬくと暖房のきいた部屋へと帰り、甘いミルクティーを飲みながら人心地つくと、柔らかなソファの感触も相まって朝の眠気が戻ってくる。明日にはこちらの時刻に体内時計も調整されるだろうか。このまま生活リズムが狂ってしまうのは困る。思案する立香の思考はゆっくりと微睡みの中へと溶けていき、やがてぷっつりと途絶えた。
 そうして眠り込んでしまった立香が目を覚ましたのは、冷えた風の感触を拾い上げたからであった。うっすらと目を開けると、ベディヴィエールがかけてくれたであろう毛布の重みを感じる。まだ覚醒しきらぬぼんやりとした頭のまま顔を上げれば、夕焼け色に染まった空があった。思いの外眠ってしまっていたらしい。うまく力が入らないまま緩慢に身を起こそうとすると、一面に広がる橙の中に佇むベディヴィエールの姿が見える。毛布の礼を言わねばと思っていた立香であったが、その姿が一瞬にして切り取られたような白に消えた時、彼女の胸に激しく急き立てるような焦燥が押し寄せた。
「っ、ベディヴィエール!」
 無意識のうちにその名を叫んだ。乾いた喉がひりついて痛んだがそんなことはどうでもよかった。心臓が暴れるように激しく鼓動している。まるで押し寄せる恐怖を拒むかのように、強く。
「は、はい!」
 焦りを孕んだ声が勢い良く返事を返した。ベディヴィエールの姿を隠していた白いバスタオルは、風が止むのと同時に彼の拳の下でくたりとしなだれていた。ベランダで洗濯物を取り込んでいたベディヴィエールは、一体何事かと張り詰めた表情でこちらを見ている。洗濯物を籠の中へと預け、慌てて駆け付ける姿に、立香は泣き出しそうになった。心の底から安堵した。彼がそこにいるということに。
「どうかされましたか!?」
 立香の肩を掴む、優しい両手。柔らかく温かな左手と、硬く少し冷たい右手。それらはいつも、立香の心を、身体を守り続けてきてくれた。失いたくないと、強く願う。だからこそ。
「ごめん、びっくりしちゃって」
 確かめるように、その手に触れる。しっかりとその感触はある。彼はちゃんと、ここにいる。
「ああ……窓を開けていたので、起こしてしまいましたか。申し訳ありませんでした」
 眉を下げながら漏らした息は、安堵と自責の両方なのだろう。彼の考えは立香の動揺とは関係ない部分ではあるのだが、無暗にそこをつつく必要もないため肯定することにした。
「ううん、こっちこそびっくりさせてごめん。あと寝ちゃって……」
「環境の変化もありますし、疲れが取れていないのでしょう。無理もありません。もう少し配慮すべきでした」
 離れていく手が、たまらなく名残惜しかった。昼間に繋いだ温かな感触が、無性に恋しい。
 閉じた窓の向こうで、ベディヴィエールがシャツを取り込んでいる。彼は確かに、そこにいる。失いたくない、だからこそ──その手を掴んで逃げるのだ。立香は今一度強く決意する。
 落陽が燃えている。少女の心を焦がすように、激しく。

* * *

 ぶし、という微かな鈍い音を聞いた。腰が屈し、倒れそうになるのをすんでのところで堪える。眼前では紅い飛沫がまるで散らされた花弁の如く舞い落ち、石造りの城砦の床にぽつりぽつりと赤い染みを作っていった。乱雑に顔を拭った手の甲が、べっとりとこびり付いた鮮血で真っ赤に濡れている。視界はぼやけ、うまく像を結べていないが、膝を突くことだけは決してしなかった。
「うん、鼻血で済むとはよく耐えた。てっきり私は失神するものだと思っていたのだけれどね」
 声に導かれるように、視界は地から声の主へと移り変わっていく。顔を上げた先では、冠位魔術師がじっとこちらを見下ろしていた。男はただ観察し、見定めている。対象に起きている変化を、その器の限界を、それが内包している覚悟の程を。点々と灯された篝火の明かりが、うっすらと夜の闇を晴らしている。
「さて、君が行おうとしていることはこれ以上の痛みが伴うけれども、まだ続けるかい……というのは愚問だったようだね」
「続けて」
 ともすれば怒りを孕んでいるかのような、腹に響く声だった。低く、それでいてしっかりとした強さをもったその声は、自分の限界はこんなものではないと訴えかけるかのようであった。少女の答えに、やれやれといった様子で男は肩を竦めて大仰に息を吐く。
「これは事前準備に過ぎない。使われていなかった部分を強引にこじ開けて道を通しただけだ。それでも全く足りない。この地を巡る灌漑の水路も、引き込んでいるのは河の水のごく一部だろう?」
 話の内容が断片的でよく分からないが、何か大規模なことを企てているようだ。一体何をしようとしているのだろう。ただ、自らの内に不穏な予感が広がっていくのをベディヴィエールは感じていた。
 魔術師がどこか妖しい笑みを浮かべながら近付いてくる。歩みに合わせて、長い白髪が微かに揺れていた。不気味なまでに足音はせず、ひたひたと男の姿が大きくなっていく。背後で燃える灯りの火が、ぱちぱちと小さく音を立てた。それはまるで逃げろと促す警鐘のようであった。
 儀礼用の短剣を取り出し、男は自らの親指に刃を立てる。いとも容易く表層が裂け、そこから溢れ出た血液がぷっくりと玉を作った。目の前に手が伸ばされる。五指のうちの四つがするりと頬に伸びる。口元に血の浮かんだ指が触れる。尚も男は距離を詰めてきて、涼やかな紫の瞳が視界を埋めていく。それでもその視線は微動だにしなかった。
「そう、そのまま。私の目をしっかりと見て」
 ごく近くで、囁く声がする。恋人に睦言を贈るように、甘く蕩かす穏やかな声音が、それに似合わぬ物騒な台詞を吐いた。
「これから、君の全身が裂けるだろう」
 瞬間、世界は白い閃光に飲み込まれた。
 目を開けると、そこには自室の天井が広がっている。どうやら夢を見ていたようだが、夢現を彷徨う頭の中でその残滓は溶け消えてしまった。同じことがあったような気がする、と頭の奥で引っかかるものを感じる。思い出さなくてはいけない、そんな焦燥が甘痒く胸を掻く。何か、大事なことだったような気がするのだ。もがけども、泥濘に沈みゆくように自身の頭は何一つとして思い出すことができない。何故、たかが夢如きにこんなにも必死になっているのだろうか。サーヴァントとして眠り、そこで夢を見るという体験の希少性故であろうか。それは違う、と自身の本能が叫ぶ。しかし、大事なことは全て朝焼けの中へと消えてしまった。
 沈鬱な気分を引きずりながら、ベディヴィエールは身を起こす。体はまだ動く。果たしていつまでこうしていられるのだろう。それまでに、この焦燥の答えを見付けることができるのだろうか。何一つとして分からないまま、穏やかな同居生活の朝が静かに始まろうとしていた。

* * *