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夜も深まり皆がすっかりと寝静まった頃、その部屋には煌々と明かりが灯されており、羊皮紙に文字を書き連ねる音だけが静かに続いていた。部屋の主は方々から届く書簡に目を通し、報告書の束を繰る。そして再び文字を書き連ねるのだ。
連日遅くまで続くその作業に体は疲労を訴える。眼底に走った鈍痛に、ディミトリは目を眇めた。一度自覚してしまうと、澱のように堆積した疲れがどっと降りかかってくるのを感じてしまう。緊張の糸が切れ、散漫になっていく意識。
あともう少しだけ、仕事を進めておきたい。目を閉じ、解けていく糸を撚るように集中を高める。深く息を吐いて疲労を紛らせ、机の隅に置いていた目薬に手を伸ばした。しかし、その指先は何にも触れることなく空を切る。伸びてきた手がひょいと薬瓶を奪っていったからである。虚を衝かれて驚くディミトリの視線の先で、薬瓶を手にしたベレスが物言いたげな目で見つめていた。
一瞬の間を置いて、ベレスはくるりと背を向け歩き出す。黙ったまま長椅子に腰を下ろし、持っていた薬瓶を脇机に置くと、胸の前で控えめに両手を広げながら真っ直ぐにディミトリを見上げた。落ち着いた声音が、呼びかける。
「おいで」
それは有無を言わせぬ響きを伴って届く。元より拒むつもりなどなかったが、仕事を切り上げてディミトリは己を呼ぶ声の元へと向かった。
隣に腰掛け、開かれた胸の中へと体を預ける。逃がさないとばかりに伸びてきた両の腕が頭を優しくも強く抱き込め、柔らかな肢体の感触と胸元から立ち上る知った匂いに陶酔する。どこかうっとりとした心地で目を閉じながら、かつての自分達を思えば予想だにしない状況だと思惟する。
まさか自分がこのように他者へ気を許し身を預けるなど、考えてもみなかった。頼れるものは槍を握る己が手のみ、この身など目的のためだけに朽ちる消耗品でしかなかった。ディミトリを抱くベレスもまた、灰色の悪魔と呼ばれていた人形のような時分を思えば、何かに執着を見せることなど信じられない変化であるのだろう。
互いの存在が、それぞれの根幹のたる部分に影響を与えていく。それはまるで体を分け合うかのような感覚であった。実に不思議なものではあるが、決して嫌いではない。むしろあるべき場所に回帰したとすら感じる。互いを知らなかった頃になど、もう戻ることはできないのだと強く思い知らされるのだ。
ベレスの手がゆっくりとディミトリの髪を梳いていく。まるで子供をあやすかのように、ごく穏やかな手つきで慈しむのだ。自身を包み込む温かな体温も相俟って、ディミトリの体から力が抜けていき、思考がぐずぐずと溶けていく。
ベレスがディミトリを抱き締める時、世界にはただ二人だけが存在している。地位も立場もなく、何者でもない二人の温度と息遣いを感じている。それはあらゆるものから隔絶された安寧の揺り籠であり、疲れた体を眠りへと誘うのだ。
「この頃君は無理をしすぎだ。もっと休んで欲しい」
降ってくるのは子守唄ではなく強い意思の滲む諫言である。連日遅くまで起きていることを慮っての言であることは分かるが、ディミトリとしては少しでも早く、多くの政務を行っておきたいと考えている。太平の世を築きたいという願いもあるが、彼を動かすのはもっと身近でごくありふれた恣意である。
「フォドラはまだ不安定だ。早くこの国の体制を整えて、民を安心させたい」
「なら、尚のこと体を気遣うべきだよ。王である君が倒れる訳にはいかない」
真摯な瞳が覗き込む。ベレスの言い分は尤もであった。睡魔に蝕まれた思考では返す言葉も見当たらず、ディミトリは己が内に秘めたる思いを吐露する。
「……もう少し状況が落ち着いたら、お前と遠出がしたい。あまり長くは空けられないだろうが、二人でゆっくり過ごしたい。できれば、次の春頃には」
思えば酷いものである。蜜月らしいこともせず、互いに職務に邁進し続けてきた。ずっと考えていたことではあるが、言葉にするのは初めてだ。予想外の内容であったのだろう、ベレスは驚きに目を瞠ったかと思えば、次にはとても嬉しそうに表情を綻ばせた。彼女がここまで強い感情を露わにすることはあまりなく、その喜びの大きさが窺い知れる。まさかここまでの反応があるとは思わなかった。
「うん、行こう。二人で、いつかは家族で、一緒に色んなものを見よう」
眼裏に描く未来の展望。いつかの先にある、温かな光景。それは実に美しい。
「ああ……それは、楽しみだな」
呟きながら、ディミトリの意識は緩やかに眠りへと落ちていく。安らぎに抱かれ、溶けて形を無くしたそれを手放す最中、降ってきたのはどこか甘やかな声。
「でも、無理はしないで欲しいし、独りで寝るのは寂しい。それに──」
ディミトリは気付いていない。実現したいと願い零したその思いが、かつて望むべくもないと諦め手放したものであることを。温かく幸福な、未来の約束。
「急がなくたっていい。私はずっと君の傍にいる」