夢路の迷い子

FGOその他

マイルームに聖杯マーリンお兄さんを監禁しているぐだ子さんのやや不健全なおはなし


 檻の中は噎せ返るような花の香りに満ちていた。
 真っ白いその部屋の奥では、ベッドの縁に腰かけた男が悠然と本のページを捲っている。その足元からは薄紅色の花が絶えず咲き匂い、一瞬にしてその生を終えたかのように零れていく。紙が擦れる音のみが存在を許されていたその静謐な空間に、立香は躊躇うことなく足を踏み入れた。
「おかえり、今回は随分と苦戦したようだね」
 活字に向けていた視線を立香の方へ移し、男──マーリンは口元に弧を描かせた。長く伸びた白髪が肩から流れ落ち、さざ波のような音を立てる。向けられる柔和な微笑みに対し、立香はどこか険しく昏い表情でマーリンを睥睨していた。そんな立香の様子にマーリンは小さく肩を竦めると、おいで、と両手を伸ばして彼女を自らの胸へと誘う。その腕の中へ、立香は一も二もなく飛び込んだ。
 ぎゅうと背に回された腕の力の強さは、少女が抱えていた思いの激しさを表すかのようであった。赤子をあやすかの如く、魔術師は小さな背を撫でさする。胸に顔を埋めたまま、立香はほうと熱い息を吐き出した。マーリンは夕陽色の髪を弄びつつ、その大きな掌を立香の肩から腕へと滑らせる。その服の下にある傷を、マーリンは知っていた。
「矢傷は肉を抉るぶん、切り傷と違って跡が残る。私を連れて行っていれば、こんな傷は負わずに済んだだろうに」
 そこに居合わせていなかったはずの男は、布越しに傷へ寸分違わず触れながらそう口にする。彼はそこに存在はしていなかったが、立香の身に起きた出来事は全て知っていた。その眼で、彼女を見つめ続けているからである。冠位魔術師であるその英霊は、今まで一度として少女の出立に同行したことはなかった。
「嫌だ」
 マスターである少女が、それを許さなかったからである。男の胸元から、少女ははっきりとした答えを寄越した。分かり切っていた答えに、マーリンはくすくすと肩を揺らす。魔術師は自身の資質が立香の旅にどれほど寄与するのかを知っていた。だからこそ、少女が頑なに同行を認めない理由が分からない。分からないが、認めようとしないことだけは分かっていた。
「分からないな、私を連れて行けば状況は格段に良くなるだろうに。聖杯に霊基の転臨を願ってまでおいて、私をここから出そうとしない理由は一体何なのかな?」
 背に回していた腕を首に絡め、立香はマーリンの膝の上へと座した。吐息すら感じられるごく近い距離で、互いの視線が絡み合う。屹と上がった眦に、少女の覚悟が滲んでいる。その凄まじい熱でさえも、水底には届かないのだと魔術師は自らの胸の内を冷静に見つめていた。男の精神は、深い湖の底にある。その湖面は常に凪いでいて、落とされた鮮やかな感情の色水は底に届く前に溶け消えてしまう。故に、そこは常に静かで、変わり映えのない世界なのである。
「あなたが死ぬのを、見たくないから」
 重く発されたその言葉には、少女の激しい情が込められている。それを執着という形容で表せるものなのかは、よく分からない。それはマーリンの中に存在しないものであるからだ。
「私は召喚されたサーヴァントに過ぎないよ。この私が死んでも、最果ての塔にいる私が死ぬわけでもない」
「それでも」
 事実を述べようとしていた言葉は、立香の強い声音に遮られる。ああ、これは彼女の中で譲れないものなのだ、と魔術師は理解した。
「あなたが死ぬのを私は見た。もう二度と、それを見たくないの」
 僅かな距離が、詰められる。触れた唇は熱く、そして柔らかかった。瑞々しい果実を味わうように、その間を割って舌を差し入れると待ち望んでいたとばかりに絡められる。白くほっそりとした指が、くしゃりと頭を掻き抱く。離れてはもう一度、もう一度と唇を触れ合わせながら、マーリンは次第に立香の目に切なげな色が差していくのを感じていた。火が灯る、と言うべきか。花が咲き匂うように、或いは爛熟した果実が崩れるように、その薄い皮膚の下から妖しく色香が立ち上るのだ。
「あまいにおいがしてきた」
 マーリンが耳元で告げると、ふるりと身を震わせながら立香は首筋に顔を埋める。寄せられた唇が肌を食み、きつくその皮膚を吸い上げる。胸にぴったりと触れている円い膨らみの奥から、早くなった心臓の鼓動が伝わっていた。少女の腰を抱き、その平らな腹を撫でながら魔術師は告げる。
「君の望みに、おおよそ私は応えることができないよ」
 それは、純然たる事実であった。
「何度種を注ごうが芽吹くことはない。サーヴァントは魔力の塊でしかないし、ここに居るのが生身の私であったとしても、現代に突然古代の遺伝子が混ざれば系譜を狂わすことになるからね。それに、出ようと思えば私はいつだってこの部屋を出ることができるんだ」
 歌うように。或いはそよ風が吹き抜けるように。男は少女に語りかける。その淡い望みを完膚なきまでに打ちのめす。少女は知っていた。それらは全て叶わないことだと。だが認めたくはなかったのだ。儘ならないことを儘ならないまま諦めたくはなかった。
「そうやって、私を傷付けて、楽しい?」
 事実を突き付けられた立香の瞳に、涙の幕が下ろされる。強く噛み締められた奥歯が、ぎり、と小さく軋む音がした。縊り殺さんばかりのその剣幕に、マーリンは場違いなまでに明るく、爽やかに笑った。
「うん、とても楽しい。君は私の言葉一つでこんなにも揺れ動く」
 慰めのように優しいキスをひとつ、ふたつ、みっつ。飴と鞭のように注ぎ込まれるのは蜜と毒。それは立香の全身を侵して熱く痺れさせるのだ。なんて、ひどい男。そう毒づく彼女の声音は既に蕩けきっていて、魔術師はその貌に蠱惑的な笑みを浮かべながら立香を柔らかなベッドの上へと誘った。絡み合う唾液の粘る音と、艶めいた吐息を間近で聞きながら内腿を撫でると、甘い予感になよやかな腰がふるりと震えた。
 波打つシーツの海は、噎せ返るような花の香りに満ちている。