薄氷を履む

FE風花雪月ディミレス

 薄桃色の冷たい氷菓は、匙を差し入れるとほろほろと崩れていく。溶けないうちに口に運ぼうとして、匙を持ち上げる手が不意に止まった。
「もしかして、嫌いだったかな」
 かけられた声で我に返る。顔を上げれば、向かいに座っていたベレスがじっとこちらを観察していた。この人の目は、まるで全てを見透かすかのようでどうにも落ち着かない。暴くでもなく、値踏みするでもなく、ただ全てを見通す目だ。
 ベレスの問いに答えようとして、告げるべき言葉が見当たらずに窮してしまった。食べ物に関する好き嫌いといった感覚は、とうの昔に忘れてしまっていたからだ。何を食べたところで舌は味を拾い上げることはなく、ただ砂を噛むような──いや、砂の方が余程味がするのだろうという虚無をただ味わっている。
 味覚を失って以来、食事をするという行為があまり好きでなくなってしまった。ただ、誰かと囲む食卓は温かくて、楽しいと思う。相変わらず食事という行為そのものに楽しみは見出せないが、誰かと過ごすそのひと時がとても好きだった。
「甘いものが好きだと思っていたんだけど……」
 そういえば、ベレスには子供の頃に好きだった食べ物の話をしたことがある。彼女はそれを覚え、反応をつぶさに観察していたのだろう。
 実際に、子供の頃の時分は菓子の類といった甘いものを好んでいたように思う。しかし、目の前の氷菓に対してあまり気は進まないと感じている自分がいる。そのことは自分としてもとても不思議で、何故だろうかと考えて思い至ったのはやはりと言うべきか幼少の頃の記憶であった。
「すまない、気を遣わせてしまったな。嫌いな味ではないのだろうが……恐らく、幼い頃に受けた服毒訓練を思い出すのだろうな」
 王家の嫡子となれば、命を狙われる立場となるのは必然であった。戦争を幾度も繰り返し、ようやく状況が安定しているとはいえそれは均衡を保っているだけだ。国王の唯一子ともなれば、その重要性は比類なきものである。亡くなれば国が傾く。だからこそ、身を守るためにあらゆる手段を講じられた。
 己が身を守り民を守るため武芸の研鑽を積み、他者に謀られぬよう知識を付けた。それと併せて行われたのは、内なる害意に対抗するための服毒訓練であった。
 王族貴族と暗殺は切っても切れない関係である。今まで数え切れない人間達が謀略によって命を落とし、隆盛と衰退を繰り返してきた。その中でも毒殺は主流な手法であると言える。だからこそ、王族は幼い頃より服毒訓練を繰り返し、少量の毒を体に取り入れることで慣らしておくのだ。毒を手に入れられる財力と伝があり、使用する立場であるのは貴族階級である。彼らが手に入れるものを王家が入手できない訳がない。文字通り、毒を以て毒を制するのだ。
 それが服毒訓練であるとは明言されたことはなかったが、何とはなしに理解していた。シャーベットが選ばれたのは、子供好みの甘い味であるのに加えて、冷たさで舌の感覚が鈍麻するからなのだろう。それが毒だと気付いてしまえば、食べるのを拒む可能性があるからだ。舌の上でごく僅かに感じる違和と、時折訪れる体調不良。何より周囲の緊張を感じ取ってしまえば、何が行われているのかは想像に難くない。冷たい匙を口に運ぶ瞬間は、毎回緊迫したものだった。
「体調を崩して寝込むと、継母が付き添ってくれた。だが、悲しげな顔を見ているのは苦しくて……服毒訓練は、苦手だった」
「……辛いことを話させてしまったね」
 沈んだ様子のベレスに、気にするなと笑ってみせる。良い思い出とは言えないが、根底にあるのは子を守ろうとする親の愛だ。そのおかげで自分は生きている。
「じゃあ、今の君の好物を教えて欲しい。一緒に食べるなら好きな物がいい」
 その問いには、答えが出なかった。子供の頃の思い出はあるが、今の自分が一体何を好むのか、全く分からなかったし考えたこともなかった。
「……先生の好きな物は何なんだ? 俺も知っておきたい」
 質問に対して質問で返す行為は良いものとは言えないが、こうする他なかった。どうしてか、ベレスには虚ろな自分の本質を知られたくないという思いがあったのだ。それに、ベレスのことを知っておきたいという気持ちは嘘ではない。
 気分を害した様子はなく、やや間を置くとベレスは考えたことがなかったと呟いた。まるでその概念に初めて気付いたというように。健啖家な人であるが、これまで食事を娯楽として捉えたことがなかったのか、それとも味を気にしていられるような状況ではなかったのか。未だ謎が多い人であると感じる。
「これから見付けていこうと思う。そうして教え合おう、私と君の好きな物」
 抱える思いを知ってか知らずか、ベレスは柔らかに告げる。これから彼女は様々な発見をするのだろうが、自分は彼女の期待に応えることができないのだろう。
 そうだな、と呟いた口に運ばれないまま、匙の上で氷菓は静かに溶けていった。