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赤い蝶の続きのような話
不可思議な感情に苛まれている。
その女を目にするたびに、胸の内に溢れる思いは形を変えていく。誰も知らぬその扉を開くたびに、自分は一体何をしているのだろうと思わざるを得ない。
殺してしまえばいい。そうすればこんな気持ちに翻弄されずに済むのだ。しかし、彼女を地下牢へ連れ込み、白く細い首に手をかけたその時、自分は躊躇ってしまったのだ。憎くて憎くて堪らないその人を殺すことに。
それからは、二人出口のない回廊を彷徨い続けている。
「先生、今日は新しい服を仕立てたんだ」
告げながら、ディミトリは鮮やかな青い色をした豪奢な生地を広げた。聞こえているのかいないのか、女は瞬き一つせずにじっとしている。それを意に介した様子なく、ディミトリは女が纏っている衣服に手をかけた。
ベレスがこの部屋に囚われて、果たしてどれ程経っただろうか。タルティーン平原で帝国が敗れてから、一体どれだけ。日の光が差し込まぬ部屋では、時間の流れなど分かるはずもない。かつてディミトリが憎しみのままに剥いだ爪は、既に生え揃って美しく磨かれ艶めいている。
着衣を剥ぐ男の手を、ベレスは黙って受け入れていた。露わになった素肌は、日光を浴びていないからか青白く透けるかのようである。その上に幾つもの生地と装飾が連ねられた服をディミトリは着せ付ける。女物の服の着せ方など分からないので仕上がりは不格好であったが、その不完全さが妙な色香を漂わせていた。
「ああ、やはり先生は青が似合うな」
何をしているのだろうと思う。
ディミトリは閉ざされたこの部屋の中で、甲斐甲斐しくベレスの世話を焼いていた。手ずから食事を与え、服を着せ、入浴すらも行った。ベレスはその一切を拒むことなくされるがままにしている。
彼女の命を自分が握っている。そのことに、得も言われぬ快感を抱いていた。
ベレスを捕らえているのは王家の者のみ知る隠し部屋である。隠し部屋や隠し通路は王城に幾つもあるが、この部屋は最も秘匿されているものである。それに、存在を知ったとして入れる術を持つ者は存在しない。──ディミトリ以外は。
自らの血に宿る紋章と、父より教わったこの部屋を一度たりとも口外しなかった自分に、これ程までに感謝したことはなかった。部屋は、紋章を鍵として開く。
彼女がいなければ、自分の感情は全て憎悪に向けられていたのだろう。あの女を討ったところで潰えることのないその思いは勢い良く燃え上がり、激情のままに全てを殺し尽くしていたのだと思う。
しかし、まだ息のあったベレスが秘密裏に届けられてから。彼女を脅し、辱めようと吐いた言葉の裏にあるものを看破されたその瞬間。向けられるはずだった執着は形を変え、彼女へと向けられることになったのだ。
名状し難い感情を抱いている。
ガルグ=マクにいた頃よりもすっかりと伸びた薄い緑色の髪を櫛で丁寧に梳く。切ってしまっても良いのかもしれないが、こうして髪を梳る時間は嫌いではないのでそのままでも良いのかもしれないとも思う。
「ディミトリ」
不意に、ベレスが口を開いた。彼女がこの名を呼ぶのは実に久しいことだった。
「どうした、先生」
この部屋に閉じ込められてからいつしか彼女はあまり言葉を発しなくなってしまった。玲瓏たるその声音に、それが自分の名という響きであったことに、胸が熱く昂っていくのを感じる。
何か要求があるのだろうか。それなら何でも叶えてやろうと思う。この部屋から出すこと以外は。ディミトリの問いかけに、ベレスは答える。
「君はいつ、私を殺すの」
心臓が一気に縮み上がり、さっと血の気が引いていくのが分かる。彼女は今、何と言った? 思考が白く染め上げられて、何も考えられなくなる。
収縮していた心臓が大きく鼓動し、熱く煮え滾った血潮が一気に全身を巡る。手にしていた櫛が砕け、気付けば目の前の体を掻き抱いていた。
「殺すものか……!!」
腹の底から叫ぶ。目頭がかっと熱くなった。
「殺してなどやるものか、お前にはもっと、ずっと、死ぬよりも苦しい目に遭わせてやる」
箱庭が軋む音がする。縋り付く男の震える腕を受け入れながら、ベレスはゆっくりと瞑目した。翅をもがれた蝶は、静かに呟く。
「──そうか。私はもう、青い空を見ることはできないんだね」