蛇の道、蛇の眼

FE風花雪月ディミレス

 その目は怒りに燃えている。
「良いんですか、俺を逃がしても」
 少年は低く告げた。歳のわりには随分と皮が硬く、胼胝たこがいくつもできた手には幾ばくかの荷を詰めた袋が提げられている。まだ成長途中の頼りない体躯はずっしりとした重みを伴う長剣を佩いており、その姿はやや異様なものに思えた。
 少年はこれからガルグ=マクを発つ。彼が起こしたファーガス神聖王国次期国王襲撃事件は、彼自身がまだ子供であることと事件に至った背景を鑑みて公にされなかったものの、目撃者は多くいる。一度騒ぎになってしまえば沈静化は難しく、要人を襲った危険人物として警戒の対象となることは免れない。自然、彼の居場所は少なくなっていき、彼はこの地を去ることを決めたのであった。
 罰や監視を課すでもなく放免してしまうことに対しては様々な意見が飛び交った。しかし、再襲撃を懸念し制止する声に対し、被害者たるディミトリは決して頷くことをしなかった。そうしてディミトリの意向通り、少年は何の枷もなく野に放たれようとしている。あまつさえ見送りにまでやって来るのだから、周囲の心配は相当なものである。馬鹿なのかあいつはと呟いたフェリクスの深く重い嘆息は実に印象深い。万が一の場合に備えてベレスも護衛として同伴しているが、見守る周囲の空気は肌を刺すほどにひどく張り詰めたものであった。
「俺はあなたを許さない」
 明確に発された、重く執念の滲む声音は、いつかまた殺しに来るかもしれないと言外に告げていた。それを裏付けるかのように、双つの目は激しく憎悪の炎を燃やしながら自分の背丈よりも遥かに大きな男を睨む。
 心の臓を貫かんとばかりに鋭い殺意を向けられながらも、ディミトリはごく平然とそれを受け止めていた。決して逸らされることのない瞳が、少年を映す。
「俺を恨め。そして、生きろ」
 殺したくば、いつでも来るが良い。やがて王となる男の目は、揺れることなく凪いでいた。ぶつかり合う二つの視線は互いに強い決意を滲ませている。永遠のような一瞬を経て、交じり合うことのない意志は交錯し、やがて離れていく。
 離れていく背を見ながら、考える。今、自分が剣の柄に手を伸ばせば、実に容易くあの細い首を落とせるのだろう。そうできるという確信がある。向けられた青い目が、その思考を制する。臆することなくはっきりとベレスは告げた。
「もしもあの子が君を殺しに来たら、私は躊躇わずに殺すよ」
 一瞬の迷いもなく、一閃の下に切り捨てる。最も大切なものを守り抜くために。
「ああ、分かっている」
 非情とも取れるベレスの宣言に対し、ディミトリは戸惑った様子もなく鷹揚に頷いてみせる。去りゆく少年の姿を見守る目は、小さな背を通してどこか遠くを見つめているようにも見えた。
「俺とてむざむざと殺されてやるつもりはないさ。ただ──怒りや憎しみに縋ることでしか歩き出せない時があることも、俺は知っている。俺を憎むことがあの子供の生きる理由になるのなら、それでいいと俺は思う」
 遠ざかる背は、その歩みは、かつてのディミトリそのものなのだろう。抱えた悔恨が胸を刺す痛みや、瞋恚の炎に心を焼き尽くされる苦しみが理解できるからこそ、ディミトリは少年を捨て置くことができない。その考えは実に。
「……甘いと思うか?」
 ベレスの思惟を見透かしたかのように、ディミトリが問いかける。恐らく、彼は自分がどう答えるのかを何となく分かっているのだろうと確証なく感じる。
「私は君のそういう所が好きだよ。その甘さが命取りになるのなら、奪われないよう守れば良い」
 善良で、甘くて、それでいて繊細で。非情になり切れない、甘えることすら不器用なこの男を、あらゆるものから守りたいと思う。全ての苦しみから遠ざけて、安寧の揺り籠に閉じ込めたいとすら思う。そのためならば、きっと自分は何にだってなれるのだろう。彼を守るためならば、何だって。
「そうか、それは頼もしいな」
 言いながら、ディミトリは微かに目を細める。彼はまるで眩しいものを見るかのようにこちらを見るが、自分はそんな美しいものなどではないとベレスは思う。泥臭くぬかるんだ、ひどく生温かい執着に満ちた生き物に過ぎないのだ。
「そうだね、もっと頼ってくれていんだ」
 踵を返し、二人並んで歩き出す。それぞれが目指す未来へ向けて、進んでいく。
 それから幾年かが過ぎた春、王都フェルディアの騎士団に一人の青年が入団した。尋常ならざる量の鍛錬を積み重ねて来たその青年は、類稀なる剣技を以て異例の早さで騎士団長へと上り詰め、国王による叙任の儀を受けたという。