たとえ今際の際であろうとも

FE風花雪月ディミレス

 誕生日だからと催された茶会。並べられた茶器と焼き菓子。以前に良い香りだと零してから、以来茶会にはカミツレの茶が用意されることが通例になった。先生はそういったことに目聡い。茶の味も茶菓子の味も分からぬが、先生のその気遣いの心が嬉しいと思う。
 誰かの喜ぶ顔が好きなのだと言っていた姿を思い出す。それは他人のための苦労を厭わない彼女らしい言だと思った。事実、彼女はなし崩しに始まった教員生活を実に勤勉にこなし、あまつさえ周囲の困りごとの手伝いすら引き受けている。損得勘定を抜きにして動くことのできるその精神は美徳であると思うその反面、自分に対して心を砕いてくれているのも『誰か』のためだからなのだろうかという思いもある。
 いけない、と頭を振った。独占欲など醜いだけであるし、そもそも自分にそれを抱く資格などないのだ。和やかな茶会の卓と澱んだ欲望。それらを挟んだ向こう側で、先生が穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見つめていた。
 出会った頃はどこか得体が知れない恐ろしさがあり、冷淡で血の通わない印象であった。だが、いつの間にか彼女は様々な表情を浮かべるようになっていた。その表情が崩れ、新たな表情を浮かべる瞬間、とても高揚する。美しいと思い、目が離せなくなる。彼女の顔が笑みの形を作る時、堪らなく嬉しくなるのだ。もっと見たいと望んでしまう。
 それは物珍しさが齎す興味であるのか、それとも彼女自身への関心による執着であるのか。胸を甘く掻く感情に翻弄される。自分自身の感情が、時々よく分からなくなる。もっとその内側へ触れてみたい、知りたいと手を伸ばしそうになり、そんな自分を律したことは一度や二度ではない。
「あまり誕生日を祝われるのは好きじゃない?」
 二つの瞳が真っ直ぐに見つめていた。先生の目は全てを見透かすかのようで、美しいとも思うし怖いとも思う。この身の内に溜め込んだものは、暴かれるべきでないものだ。己が内面を暴かれる羞恥というよりも、一度表出してしまえば抑えられないことを知っていたからだ。
 だからこそ怖いと思う。先生にこの御しきれない思いを持て余す自分を知られることが。余裕など一寸もない自分を知られたくないと思ってしまう。
「ああ、いや……嬉しくない訳ではないんだ。ありがとう、先生」
 曖昧な返事に、先生はどこか寂しげに眉を下げた。ああ、そんな顔をさせるつもりではなかったというのに。
 生誕の日を祝って貰えることは素直に嬉しいと思う。ただ、一つ歳を重ねる度に『また何も成すことなく生き延びてしまった』という罪悪感に似た思いがこの胸を刺すだけなのだ。
 ──ああ、また今年も。

* * *

 ──目を開ける。
 夢を見ていた気がする。幾分か前の、士官学校時代の記憶だ。頭の中は靄がかかったようにぼんやりとしており、仔細はよく思い出せない。ただ、先生との記憶であったことだけは分かるのは、胸を満たすあたたかなものがあるからだ。
 どうしたことか、今日は随分と夢見が良いようだ。どこか不思議な気持ちで、まだ寝ていたいと訴える瞼を下ろし眠りの淵を漂う。この気怠くも心地の良い微睡みの中に浸っていたい思いと、腕の中にある温もりを手放してしまうのは名残惜しいという気持ちがあった。
 すぐ傍にある温もりを抱き締める。よく知った柔らかな肌の感触が、皮膚を通じて伝わってくる。全身の血が沸き立つような喜びが、触れ合う部分から奔流のように流れ込んでいくのが分かった。ああ、懐かしい、恋しい、愛おしい。熱く胸を焦がす激情は、今も昔もただ一人だけに向けられ続けている。この狂おしいまでの熱情をどう扱えばいいのかは、未だに分かりかねていた。
 温かな肌に顔を埋める。それだけで、理由なく安堵する。好きで、好きで、堪らなく好きで。どうすればそれを伝えられるのだろうかと、ずっと考え続けている。その体を抱き締めていると、ここに彼女がいるのだという実感に震える。片時も手放したくないと叫ぶみっともない自分を、どうにか律して取り繕っているだけなのだ。
「ん……っ」
 耳朶を擽る微かな声。ああ、起こしてしまう──と考えたところで、ようやく『それがある』ことの違和に気付く。彼女は今、ガルグ=マクで大司教としての務めを果たしているはずであった。遠く離れたこの王都フェルディアになどいるはずがない。
 意識は一気に覚醒した。この腕がしっかりと抱きすくめている柔らかく温かな感触がある。その感覚には覚えがあった。覚えがあるからこそ戸惑うのだ。目を開ける。朝の光に透ける硝子のような薄緑の髪がある。恐る恐る顔を持ち上げれば、すやすやと寝息を立てるベレスの容貌があった。
 夢から現へと帰還せど、依然として状況は分からぬままである。どうして彼女がここにいる? 困惑しきったままひとまず身を起こそうとすれば、入り込む冷たい空気を厭ってかするりと身を寄せられる。まるで行くなと縋られているかのようで、自惚れてしまいそうになる。
 愛らしいこの手を、どうして引き剥がせようか。考えて、ぐっと堪える。職務に私情は挟めない。今日は一日みっちりと公務が詰まっているのだ。それらを投げ出すことは王としてあってはならない。隣で眠っているのが数節振りに会う愛しの妻であったとしても、だ。
 ひとまずは起こしてしまわぬようそっと寝台を抜け出そうとして、失敗した。しっかりと抱き込んだ体を気取られることなく離そうなど、土台無理な話であったのだ。己の身の周りで起こった変化にベレスは気付き、短く呻くと瞼を持ち上げる。現れた瞳はまるで宝石のような貴さを感じさせるのに、まだ眠たげな面持ちが血の通った温もりと親しみを抱かせる。
「すまない、起こしてしまったな」
 不思議な人だ、とよく思う。触れることすら躊躇われる神秘的な空気を纏っていながらも、彼女はいつも隣にいて手を差し伸べてくれる。触れても良いのだと伝えるかのように。
 とろりと蕩けた眼差しで、そこにある温もりを求めるようにベレスはぎゅうと抱き着き頬を擦り寄せてくる。その様子は堪らなく愛らしく、愛おしい。このまま掻き抱いてしまいたいと思うほどに。しかし、だ。
 耳元で優しく名を呼び、覚醒を促す。驚くほどに甘い響きになってしまい、苦笑する。どうやら自分はすっかりと彼女に骨抜きにされてしまっているらしい。髪を一撫でして、緩く甘美な拘束を少しずつ解いていく。
「悪いな、今日は朝から仕事があるんだ」
 本日は西方諸侯との会談が控えている。随分と前から予定されていたその公務は、決して外すことのできないものだ。ファーガス西部の諸侯達とは臣従を機に話は纏まっていたものと思っていたが、かねてより機を待っての会談ともなれば、それは重要な意図を孕んでいるのではないかと考えている。だからこそ真剣に望まねばと考えていたディミトリの意気は、予想外の形で打ち砕かれることとなる。
「今日の予定はないよ」
 ようやく意識がはっきりとしてきたのか、顔を上げたベレスは真っ直ぐにディミトリを見つめて確たる声音で告げた。
「それは一体どういうことだ」
 何故彼女が自分も知り得ぬ事情を知っているのか。そもそも、ベレスが今ここにいる理由すらまだ知らないというのに。ディミトリの頭の中は次第に混乱していく。齎された結果に対して、与えられる情報があまりにも少なすぎた。
「今日は西方諸侯との会談が予定されていたと思うけれど、それは私がドゥドゥーとギルベルトに頼んで組んで貰った架空の予定だよ。全くの嘘という訳ではなくて、来節に西方教会復権についての協議は予定しているけれども」
 ベレスの口から語られたのは、本日の予定は存在しないのだという事実であった。何故、という疑問が頭の中を埋め尽くす。それは彼女が今、王の寝所にいることと何か関わりがあったりするのだろうか。
「どうしてそんなことを……」
 ベレスの意図が分からない。すると、ベレスがじっとこちらを見上げてくる。円らな瞳が言葉なく問いかけていた。分からない? と告げる声音。答えに窮していると、ベレスがふっと相好を崩した。その時、やはり彼女の笑顔は心が躍るものであると実感させられる。たったそれだけで、胸が高鳴り熱い血潮が全身を巡っていくのだ。
「──今日は、君の誕生日だよ」
 言われて、思い至る。身内の誕生日は記録しているのだが、自身については完全に無頓着であった。生誕祭を催してはどうかと提案されたこともあったが、そんなことに予算を割く余裕があるのならば国政に回せと指示した覚えがある。この身は聖人などでなく、人殺しの為政者なのだから。
 予定については予め空白になるように随分と前から手配されていたらしい。つまるところ、ここにベレスがいるのもそういうことなのだろう。ここ数節、特に忙しくしていた様子であったので、倒れたりはしないだろうかと案じていたのだが、どうもそれは今日という日に向けての準備だったようだ。
「公務の予定はない。この休日を、君はどう過ごしたい?」
 ベレスが問いかける。答えは決まり切っていた。公務の予定がなくとも片付けておきたい庶務は多くあるが、折角ベレスがドゥドゥー、ギルベルトをも巻き込んで作ってくれた空白である。今日は仕事を忘れて一日を過ごそうと決める。
「なら、お前と共に過ごしたい」
 喜んでと頷き、微笑むその姿だけで、すっかりと満たされてしまう。それが自分に向けられているということが、どれほど得難い幸福であるだろうか。本当に、恵まれすぎている。
 そうして、当初の疑問に思い至る。ベレスは一体どうしてここにいるのか。誕生日を祝うために遠路はるばるフェルディアまで来てくれたのだろうが、一体いつの間に王都に到着していたのか。ディミトリが問えば、ベレスはごくあっさりとその答えを寄越した。
「あらかじめ幾つかの街に天馬を手配しておいて、それを乗り継いで来たからそれほど時間はかからなかったよ。夜半に到着して、君の寝室に邪魔させて貰った具合かな」
「……頼むから、あまり無茶はしないでくれ」
 思わず溜息が出た。随分と無理をしたものだ。それに、夜半と言っていたが、自分が眠っている間に寝室を訪れたのならば、随分と遅い時間であったはずだ。ならば、碌に眠れていない状態であることは明白であった。
「まずは、もう一眠りするのに付き合ってくれ」
 小さく柔らかな体を抱きながら、寝台へと再び横たわる。眠っている間にベレスが潜り込んできても全く気付かなかったことに驚いたが、然もありなんと思わされる。こうして彼女を抱き締めていると心がとても安らぐのだ。
 触れ合う肌の感触と確かな温もり。そして、鼻腔を擽る彼女の匂い。それらは強く確かに、この身を満たしていくのだ。二度寝など怠惰の極みであるが、たまにはそんな日があっても許されるだろう。
 頭を撫で、幾度も髪を梳いていると、ゆっくりと双眸が細められていく。甘えるように寄せられた体がぴったりと触れ、やはり眠気が残っているのだろう、ベレスは次第にうとうとと微睡み始める。その様子は実にあどけなく、ずっと見ていたいと思ってしまう。やがて穏やかに寝息を立て始めたその穏やかな貌を、ディミトリはずっと眺め続けていた。
 昼に差し掛からんといった頃にようやく起床し、昼食を兼ねた遅い朝食を摂る。念のために本日の予定を確認してみたが、やはり一日すっぽりと空いている状態なのだという。万全に練られていた状況に、今日という日にかけるベレスの意気込みと、臣下達の鮮やかな手腕を感じる。
 王城には各地から届けられた祝いの品が続々と到着しており、手分けして運び込む人々が忙しなく行き交っていた。また後で届いた物を確認し、礼状を書いておかねばなるまい。
 食事を終えると、ディミトリはベレスを伴って市へと向かう。運び込まれる贈り物を見ているうちに、自分も彼女に何かを贈りたくなったのだ。外套を羽織り、手を繋ぐ。吐く息は白く、外の街は日中でも随分と冷え込んでいたが、触れ合う手の温もりをより一層引き立てていた。
「おや陛下、視察でしょうか?」
 突如として現れた国王に、商人が問いかける。ディミトリは緩く首を振り、隣に立つベレスを指した。
「いや、今日は暇を貰っていてな。王としてではなく一人の男として、妻に贈るものを探しに来た」
「それは良い、本日は国王生誕記念でお安くしておりますよ」
 商人は軽快に笑いながら、ディミトリの前に次々と自慢の品を並べていく。隣に立つベレスはすっかりと困惑した様子で目を瞬かせていた。今日は君の誕生日なのだけれど、と戸惑いを孕んだ声音が告げる。それはそうなのだが、今日は一日したいように過ごすと決めていた。
「俺がそうしたいんだが、嫌か?」
 真っ直ぐに目を覗き込んで問えば、ベレスは首を振り、それ以上は言及しなかった。ここ暫く互いに多忙であったこともあり、碌に贈り物も渡せていなかったように思う。何か良いものが見付かればいいのだが、生憎とそういったことには疎いという自覚があるので、ベレスを連れてきたのだ。
 女性が喜ぶ物は分からないが、彼女が欲しいと感じたものは反応を見ていればよく分かる。きっと何を渡してもベレスは拒まないだろうし、嬉しいと言ってくれるに違いない。その気持ちに嘘はないことは知っている。だが、やはり喜んで貰える物を贈りたいというのが当然の性というものだろう。
 精巧な細工が施された髪留め、眩い宝石があしらわれた首飾り。予想はしていたが、装飾品の類はそこまで反応が良い訳ではない。元々、彼女はあまり自らを飾り立てない女性ひとであるし、華美な装飾がなくとも美しく、目を惹く存在なのだ。
 さてどうしたものかと考え倦ねていると、ベレスの視線がある一点に注がれていることに気が付く。一体何に興味を持ったのだろうかとその先を追えば、そこにあったのは控えめに咲く花であった。大修道院ではよく温室に顔を出していたようであったし、もしかすると花が好きなのかもしれない。新たな発見に、気持ちは一気に昂っていく。
 花蜜に吸い寄せられる虫のように足取り軽く店に向かい、花を購入する。早速それをベレスに手渡せば、どんな宝石よりも美しく透き通った瞳がぱっと輝いた。その変化に、自身の推察は間違っていなかったことを知る。そうして、これからは毎節花を贈ろうとディミトリは心に決めた。彼女の喜ぶことは何だってしたいし、好きなものは知りたいと思う。
 頬を薄く染め、嬉しそうにはにかみながら礼を告げる姿に、愛おしさが募っていく。実に単純な男だと自分でも思う反面、こうも強く激しく人を想うことができるものなのかとも感じる。もうどうしようもないほどに、彼女に首ったけなのだ。
 外気に冷えた体と、ぬくぬくとした高揚を抱えながら王城へと帰る。私室の暖炉に火を灯し、ふと窓の外を見遣ればちらちらと雪が降っている。そこまで吹雪くことはなさそうだが、寒気は一層凛冽たるものになるのだろう。その間にベレスは淹れたての茶を運んでくる。二人座って、湯気を立てるそれに口を付ければ、体の中から温まるのが分かる。
「すっかり遅くなってしまったけれど、私からのお祝いだよ」
 そう告げて、ベレスが差し出してきたのは掌よりもやや大きい小箱であった。受け取ったそれは、ややずっしりとした重みを伝えてくる。その中身は想像が付かない。
「ありがとう。開けてみても良いだろうか」
 誕生日に特段こだわりはないが、祝って貰える気持ちは嬉しい。それが愛する人からであるのならば喜びも一入だ。頷いてみせたベレスに、ディミトリは箱を開いてみる。
 姿を現したのは、一振りの短剣であった。
 その形には、どこか見覚えがあった。どこで見たのか考えてみるが、うまく思い出すことができない。考え込むディミトリに、ベレスはやや焦りを孕んだ口調で語りかける。祝いの品の選定を間違えたと感じているのかもしれない。そんなことは杞憂だというのに。
「色々と考えてみたんだけれど、浮かばなくて……。質の良い武具を贈ろうかとも考えたけれど、そういった物は沢山貰えるだろうし、それに──君の父君が遺した武具以上の物なんてどこにもない。だから、私の物を贈ろうと思って」
 その言葉に、得心がいく。この短剣を見た時に覚えた既視感。確かに、自分はかつてこれを目にしたことが幾度もある。それは、ベレスが出会った頃から、そして恐らく出会うよりもずっと前から佩き続けていた短剣であった。
「……いいのか?」
 彼女の一部を受け取るかのようで、ひどく畏れ多い気持ちがあった。問いかけるディミトリに、ベレスは鷹揚に頷く。
「ずっと欠かさず手入れし続けてきたから、使い込んではいるけれど質はしっかりしていると思う。それに、この国では剣は未来を切り拓くものと考えるのだと、君から聞いた」
 それは、かつて幼き日の思い出と共に、彼女に語って聞かせたファーガスに伝わる風習だ。そして同時に、ディミトリの胸に深い傷を残した少女を象徴するものでもあった。そうあれと願い、短剣を贈った少女への思いは、割り切れないものはあれど既に飲み込み、昇華している。しかし、自分が剣を贈られる立場になるとは、少し不思議な気分ではあった。
「君が望む未来を切り拓くための助けになればいいと思うし、君を苦難から守ってくれればという願掛けでもある。君が未来を切り拓いてそうして、いつか──」
 ベレスは静かに瞑目する。そうして、再びその双眸を開くと、彼女は言葉を続けた。真摯な光を宿した瞳が、真っ直ぐにディミトリを捉えていた。
「どれだけ先でも、死に際でもいい。いつか君が生まれてきて──生きていて良かったと思える時が来れば、私は嬉しい」
 私の諦めの悪さは知っているよね、とベレスは笑う。その穏やかな微笑は、天から降り注ぐ救いの光のように見えた。
 今も昔も、彼女はどうしようもない自分の隣に立ってくれていた。どれだけ拒絶されようと、時に心無い言葉を投げかけられようと、決して諦めることも見放すこともせず、その手を差し伸べ続けてくれたのだ。
「……ああ」
 この美しい人から与えられたかけがえのないものを、受けた恩の数々を、一体どうすれば返せるのだろう。日毎増していく止め処ない想いを、どうすれば伝えられるのだろう。きっと、この先ずっと同じことを考えながら生き続けていくのだろう。ディミトリは感慨と共に熱い息を吐く。
 その願いはもう、成っているのかもしれないと。