陽だまりに咲く花

FE風花雪月ディミレス

「今日はここまで」
 授業の終了を告げると共に、軽やかな鐘の音が響き渡る。くたりと弛緩する生徒達の姿を見届けて、ベレスは教室を後にする。今日も何事もなく一日が終えられた──そう思った時であった。
「先生」
 かけられた声に振り返る。どうしたと問おうとするが、喉が開かず声が出ない。全てはそこに立っている人物が原因であることには気付いていた。
「これ、落としていたぞ。……先生?」
 差し出された紙の先には、級長たる人物が立っている。受け取って礼を告げて立ち去ればいい。分かっているのに、体が動かない。すっかりと固まってしまったベレスを、ディミトリはどこか不思議そうに見つめている。
 限界だった。不調の原因はディミトリではない。おかしくなってしまった自分の情緒なのだ。認めながら、ベレスは目の前にある一つの結果を破却した。
 己が内に宿りし少女に貸し与えられた権能を以て、世界がひび割れ形を変え、そこにあるはずの時間の流れが停止する。そうしてベレスは脈々と流れる時の大河を瞬き一つのうちに遡ると、先程と同じく授業の終了を告げた。
 響き渡る鐘の音、緊張の和らいだ教室。先程と全く同じ景色。ベレスは自身の荷物を確認し、悠然と教室を後にする。先程と違うのは、決して物を落としたりしないように強くしっかりと抱え込んだことくらいだ。
 今度は何事もなく済んだようだ。安堵に息を深く吐いたその瞬間、ベレスは己が内で姦しく騒ぎ立てる声を聞いた。
≪おぬし! おぬしおぬしおぬしおぬしおぬし!!≫
 いつからか、すっかりとそこにいることが当たり前になってしまった少女の声音。唐突に話しかけられても驚くことはなくなったが、こう盛大に騒がれると戸惑うものがある。どうしたのだと問えば、溌剌とした声は更に勢い付いた。
≪どうもこうもないわ! わしの力をこうも粗末に使いおって!≫
 それは先程用いた権能のことを言っているのだろう。常人が持ち得ない、時を巻き戻す力。際限なく使えはしないため気をつけるよう言われていたそれを、べレスは何でもない一瞬に対して浪費したのである。ソティスが怒る気持ちは分かる。しかし、だ。自分にとっては非常事態で、とにかく必死だったのだ。
 だが、それは無闇に力を行使する理由にはならない。だからこそベレスは弁解することなく謝ることを選んだ。心底呆れたような、深い溜息が降る。
≪……それで、何があった。申してみよ≫
 この少女が、時々何者なのか分からなくなる。得体が知れないのは相変わらずだが、子猫のように爛々とした好奇心を覗かせることもあれば、子を見守る母のように円熟して落ち着いた空気を纏っていることもある。
 慈しむ柔らかな声音が、ベレスの心の内にあるものを吐き出すよう促す。士官学校では教師として教え導く立場であることもあり、誰かの悩みを聞くことはあれど話すことはない。そもそものところ、自分がこんな胸が閊えるような思いを抱くとは思ってもみなかったのだ。誰に話せばいいのか分からないその気持ちを、この少女になら話せるような気がした。ベレスは自身の胸の内を浚う。
 きっかけは、グロンダーズで開催された鷲獅子戦であったように思う。皆で健闘を称え合っていたその時、告げられたのだ。『先生のそういう顔が好きだ』と。瞬間、胸が熱くなり、全身を熱い血が巡る。それから自分はすっかりとおかしくなってしまった。ディミトリを前にすると、胸がひどくざわめくのだ。
 今までになかったその変化に困惑すると共に、『怖い』と思った。まるで自分が自分でなくなるようで足元からぐずぐずと溶けてしまうような不安があった。ベレスの告白に≪ほーう、ほほーう≫と、どこか愉しげな相槌が続く。ベレスには見えていないものが、どうやら彼女には見えているらしい。
≪おぬしは変わることが怖いと言うておったが、おぬしのそれは悪いことではなかろう。変化することは、生きている者だけが持ち得る可能性じゃろうて≫
 今まで凪いでいたベレスの情緒は、春の訪れと共に木々が芽吹くが如く急速に育ち始めている。自らに起きている変化が一体どのようなものであるかはよく分からないが、ソティスに肯定されたことで、その変化を受け入れようと思えた。
 いつまでもあやつから逃げ続ける訳にもいくまいと宥める声音に頷く。すると、狙い澄ましたかのように今まで思考を占めていたディミトリその人が姿を現した。
「先生、ここにいたのか。良ければこの後──」
 顔が火を噴くように熱くなり、早々に限界を迎えたベレスは咄嗟にその結果を破却する。ぐるぐると回り続ける頭の中に、少女の絶叫が響き渡った。
≪だからおぬし! わしの力を粗末に使うなと言っておろうー!!≫