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国王の朝は早い。
空が白み始める頃、一人起きては方々から届く報告書や書状の束に目を通しては繰る。その一つ一つを確かめては新たな施策を練るのだ。
ベレスがディミトリよりも先に起きることは稀であった。朝寝を習慣にしている人種ではないのだが、緩やかに浮上する意識に伴って気怠い身体を起こすと、目に入るのは実直に職務に取り組む姿。目覚めたベレスに気が付くと、書状に落としていた視線を持ち上げ、ほんの少しだけ目元を緩めて挨拶をくれるのだ。
窓から降り注ぐ柔らかな朝日も相俟って、その光景は実に眩しく透き通り、目を開けるたびに心を奪われている。毎朝のように見ている光景であるというのに、慣れる気配は微塵もない。この先何度朝を迎えようと、見飽きることなどないのだろう。そして、未来を考えられるということを喜ばしく思うのだ。
多忙な彼の力になりたくて、少しでも自分にできることをと考え思い付いたのが目覚めの茶を淹れることであった。それはいつしか日課となり、習慣となった。二人で茶を嗜みながらたわいもない話をして、今後の方針について軽く話し合う。そうして今日も良き日になるよう祈りながら一日を始めるのだ。
国王の夜は遅い。
執務室に篭り各地へ書状をしたため、裁可を仰ぐ書面を確認して判断を下し指示を出す。時には視察へ赴き、市街や村邑の様子を自分の目で見て回る。ただ玉座に座すだけでは見えないものがあると、彼は身を以て知っているからだ。
騎士団の詰所へ足を運んで訓練に加わり、剣と言葉を交わして練度を確かめる。そこに生きる者と笑い、泣き、そして共に歩むような治世が彼の目指すものである。不条理に奪われることの痛みを知り、正道を外れた先にあるものを理解し、そして自らが奪ったものの重さを背負っている。だからこそ、彼はフォドラの未来のために身を粉にして働くのだろう。そこにあるのは抱いた理想に向けて燃える心と、雪ぐことのできない罪の意識なのかもしれない。
そうして夜が深まってからも蝋燭に火を灯して、恐らくフェルディアの誰よりも遅く眠る。密やかに安眠効果のある薬草などを取り入れてはいるが、依然とし状況に変化はない。急いても詮ないことであるのでゆっくりと取り組んでいくつもりだが、心配なものは心配なのでそろそろ寝台に縫い付けてでも休みを取らせるべきだろうかと考えている。たまには立場を忘れる日があっても良いだろう。
国王は日々営々と働いている。
本日の慰問を終えてベレスが帰ると、ディミトリはまだ執務室で机仕事をしているらしい。周囲の者の話を聞く限り、今日はずっと篭りきりな様子なのでそろそろ茶会にでも連れ出した方が良さそうだ。訪れた孤児院では焼き菓子を貰った。大司教様と国王様へと手渡されたそれは、訪れるベレスのために皆で作ったものなのだという。子供達の弾けるような笑顔を思い出し、ベレスは顔を綻ばせた。
扉を叩くと短く入室を促す声がする。現れたベレスの姿を認めて、ディミトリはほんのりと表情を和ませた。誰にでも分かる訳ではないその変化が愛おしい。
「焼き菓子を貰ったから、お茶をしようかと思って」
「ああ、もうそんな時間か」
慰問からベレスが帰ってきている状況に、自分がどれほど没頭していたのかに気付いたのだろう。文字を書き連ねていた手を止めると、ディミトリは緩慢に立ち上がった。樹木が萌し育つかのように己が前で伸びていく体躯に、ベレスは改めてその大きさを感じる。士官学校にいた頃よりも一回り大きくなった体は目の前に立つと影を落とし、より仰ぎ見なければ顔を見ることができない。
そういえば、以前彼の頭を撫でたことがある。父からそうして褒められた記憶の模倣であったが、その時の彼は実に様々なものが混ざった形容し難い表情をしていたように思う。あれから随分と背が伸びたようだが、今も手は届くだろうか。
この地を背負い立つ王へ、労いの思いをそっと伸ばす。理由らしい理由はなく、ただそうしたいと思ったのだ。頬をすり抜け、その上へ。見上げた瞳は戸惑いを孕みながらもベレスを映している。伸ばした手はほんの少し届かず、もどかしさにベレスがそっと爪先に力を込めた時、不意に落ちた濃い影と共に蒼穹が降る。
訪れたひどく甘やかな衝撃にベレスは瞠目し、やがて瞼を下ろして酔い痴れた。
ややあって離れていく感触と共に、夢見心地で目を開ける。ベレスとしては予想外の事態に、予兆すら気付かず翻弄されてしまった。体を巡る血が、少し熱い。
「……違っていたか?」
問いかける声に、ベレスは首を振った。遅れて、春の野が色付くが如く胸いっぱいに歓喜が広がっていく。不意に齎された熱よりも、ディミトリはベレスがそれを欲していると、そして自分にそれが与えられると考えたことが嬉しかったのだ。温かな思いを笑みに乗せ、ベレスは身を伸ばすともう一度をせがむのだった。