花と棘

FGOR18その他

 桜の木の下には死体が埋まっているのだという。
 薄紅色の花弁は、その血の赤さを映したものなのだと。ならば、舞い散るそれは血の雨か。鮮やかな朱色の髪を風に遊ばせながら、立香は遊歩道に植樹されたいくつもの桜の木を眺め歩く。桜色の大きなリボンが、歩みに合わせて揺れていた。
 遊歩道を抜けて暫く進んだ先には、西洋造りの店がひっそりと佇んでいる。表に出された小さな看板には『Avalon』の文字が躍っていた。躊躇うことなくドアを開けると、リィンと軽やかな鈴の音が響く。振り向いたのは、長く白い髪をした異人の男。紫水晶の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「いらっしゃい、リツカ」
 穏やかな声が名前を呼ぶ。ふっと漂った女物の香に、彼が妓楼に行っていたのだろうということを感じ取る。もしかすると、妓楼ではなく貴人の所なのかもしれない。彼の周りには女の影が絶えないことを立香は知っていた。そして、自らがその一人であることも。
「女の臭いがする」
「ああ、今日は呉服屋の奥方に呼ばれてね」
 そう、と言いながら立香は男の首に腕を回す。このまま縊り殺してしまいたいという思いに駆られながら、立香はそっと唇を重ねる。ぬるりと入り込んできた熱い舌が歯列を割り、上顎を擽っていくと、甘く頭が痺れて何も考えられなくなる。熱い肌をまさぐる大きな手に溺れながら、この男の手はいつも冷たいのだなと立香はぼんやりと思惟した。



「一体何をしてるんだい君は」
 初めての出会いはそんな一言から始まった。今まさに欄干を超えようとしていた立香は、その声に振り返る。まさか人がいるとは思ってもみなかったからだ。しかし構うものか。今日は自分の意志を完遂するために家を抜け出してきたのだから。
「飛び降りようと思って」
 月が綺麗な夜だった。
 立香はその日、自らの命を絶つつもりであった。深夜に一人屋敷を抜け出して、川に身を投げるつもりだったのだ。絶対に今日、死なねばならない理由があった。だからこそ止まるわけにはいかなかった。この男がどこかの受け売りの陳腐な言葉を吐いたところで、その意志は絶対に変わらないと、そう思っていた。
「君が死のうがそれは君の勝手だけど、私の目の前で死ぬのはやめてくれないかな。後味が悪いじゃないか」
 しかし、この男はそんな慈悲深い人間などではなかった。立香は一瞬面食らったものの、屹と男を睨み付ける。
「ならあなたがここから去ればいいでしょう」
「どうして君の都合で私が動かなくてはならないんだい? 君が死ぬのをやめればいいだけだろう」
 なんなのだこの男は、という苛立ちが募る。知ったことではないと欄干にかけた足に力を込めた時、思い付いたように男は言った。
「そうか、じゃあ君から死のうという気をなくせばいいのか」
 一体何なのだと身構えると、男はふっと音もなく距離を詰めてくる。驚いている間に顎をすくい上げられ、あっと思った時には既に唇が塞がれていた。何が起きているのか分からないまま、立香の口内は男の舌に蹂躙されていく。恐ろしい、と思った。唐突に接吻をしてきた男に対してではなく、男の舌に翻弄されていくにつれ、ぞくぞくとした疼きを訴え始める自身の体が怖かった。こんな感覚は、知らない。
 がくりと萎えそうになる腰を片手で支えられながら、立香は靄がかかったかのような頭で男の声を聞いた。
「おいで。この世にはまだ君が知らないものがあるということを教えてあげよう」
 それはまるで呪縛のように立香の体を絡め取る。一時の感情で待合に駆け込み、肌を重ねる人間など阿呆であると思っていたが、まさか自分がその唾棄していた存在になるとは思ってもみなかった。
 死ぬと決めた身であれば何があっても問題ないという気持ちもあったが、男の言うまだ知らないものというものを知りたいという好奇心も大いにあった。故に、立香はその手を取ってしまった。その選択が自身の根幹を大いに揺るがすということを知る由もないままに。
 連れ込まれた店の中、立香は男の手に身を任せる。帯の解き方など男性には分かるまいと思っていたが、あっさりと胴の締め付けがなくなってしまい、驚きと心許なさに立香は慌てた。それを宥めるかのように男の口付けが降る。甘く口を吸われながら、麝香の香りがふっと漂った気がした。香が焚きしめてあるのか、それともそれが男の体臭なのか、立香はそれにくらりと酩酊してしまう。
 耳を甘く噛むようにねぶられると、ぞわりとした感覚が全身に巡り、立香は思わず身じろいでしまう。その拍子に前の合わせが開き、白い胸元が晒される。首筋を伝い降りてきた唇が、鎖骨の間をゆるりと這った。
「あっ」
 触れた男の鼻先に、申し訳程度に胸を覆っていた肌襦袢は滑り落ち、立香の素肌が露わになる。他人に、それも見知らぬ男に肌を晒しているということが、今更ながらに猛烈な羞恥を呼び起こさせた。しかし、男は立香の羞恥を更に掻き立てる行動に出る。丸い膨らみの色付いた先端、それを男はぱくりと口に含んだのだ。
「ひ……!」
 思わず悲鳴のような声が出た。痺れるような快感が、そこから広がっていく。もう片方の乳房は大きな手で包み込まれ、指の股でその尖りを転がされていた。舐め、吸われ、食まれる。赤子が乳を求めるかのような動作は、恐ろしいまでの官能を齎してくる。立香は胸を喘がせ、息を乱す。あっという間に追い立てられ、何も考えられなくなる。
 腰を撫でられ、胸を嬲られているはずなのに、何故か下腹がじくじくとした疼きを訴える。それが立香には不思議でならなかった。どうにも焦れったく、内腿が擦れるように動いてしまうと、男がふっと笑う気配がした。
「熱いものが零れてきたかな」
 唾液で濡れた唇が艶めいて、静かな色香を放っていた。その言葉を理解する前に、男の指先が誰も触れたことのないその場所に触れる。立香ですら体を洗う時にしか触れないそこは、くちゅり、と今まで発したことのない音を立てた。男女の交わりなどろくに知らずに生きてきた立香だったが、これが先程までの行為によって引き起こされたものであることだけは理解できた。
 ぬめりを帯びた指が滑る。得も言われぬ快楽の波濤が電流のように駆け上がり、立香は狼狽した。あまりにも強すぎるその愉悦に、自分が自分でなくなっていく恐ろしさを抱かずにはいられなかった。アイスクリイムのように頭がどろどろに溶けてしまう。こんな感覚は初めてのことだった。
「や……いやぁ……!」
 唐突に花芽を懇ろにする手が止まる。それだけで切なさが込み上げてきて、ひくりと花弁が動いてしまうのを感じた。
「嫌なら私を押し退けるといい。私は一切抗うつもりはないからね」
 穏やかに微笑みながら、男はそう言った。こちらに選択肢のない選択権を与えて、立香が自らねだるのを待っているのだ。なんとひどい仕打ちだろうか。この体はもうこんなにも熱を持ってしまっているというのに。
「怖いの……おかしくなってしまいそうで……」
「うん、存分におかしくなるといい。私はそんな君が見たいんだ」
 立香の吐露に対し、男はあっさりとそう言い放ち、立香の中に指を埋めた。蜜を零し続けるそこは、男の指をあっさりと受け入れる。自分の中に他人を受け入れているというおかしな感覚が、内部を動く指に呼び起こされる。探るように内壁を解し、掻き回していた指がある点に触れた時、全身が粟立つほどの快感が全身を駆け抜けた。抑えようのない声が出てしまい、その甘さに驚いた。はっとしたのも束の間、執拗にそこを攻め立てられて、立香は前後不覚に陥ってしまう。
「あっ、あ、ああぁっ!」
 男の手は恐ろしく巧みであった。男とまぐわったことなどなかったが、男の手管が凄まじいものであるということは立香にも分かった。既にすっかりと潤っている蜜口が、ごぽりと音を立てそうなほどに蜜を零し続けている。体が溶けてしまう。中と外の弱い部分を蹂躙されながら、立香は本能的にそう思った。気をやってしまいそうな快楽が何度も押し寄せては、絶頂の高みへと立香を押し流す。ぎゅっと自身の中が締まるたびに、男の指の形を感じてしまう。それが与えてくる気持ちよさを思い出しては再び熱が灯る。蜜のような快感が全身に纏わり付いているかのように、際限なくやってくる逸楽に体が甘く疼いて震えていた。
 体の奥が切なくてたまらない。目の前が真っ白になるほどの快楽を何度となく与えられているのに、熱は冷めないばかりか高まり続けているのだ。火照る体を持て余し、どうしようもない苦しさを、目の前の男ならどうにかしてくれるのではないかとなりふり構わず縋り付いた。
「体が熱いの、切ないの……お願い、どうにかして……!」
 涙で顔はぐしゃぐしゃだった。このままでは気がふれてしまいそうで、どうしていいのか分からなかった。そんな立香を男はじっと見つめて、そして笑った。どこまでも凄絶な、妖しく艶やかな笑みだった。
「今のはちょっときたかな。うん」
 ぞくり、と背筋を震えが走る。恐れではなく、未知のものへの期待と興奮からだった。この先にあるものを、立香はよく知らない。だが、この体の渇きを満たす何かがあるのだという確信があった。
「一応確認しておくけど、この先に進むと君はもう元には戻れないよ」
 言葉の続きを、立香は強引に奪い取った。塞いだ唇の合間から舌を差し入れて、男の真似事をしてみたが、あっという間に男の舌に絡め取られてこちらの方が侵されてしまう。熱い吐息を漏らしながら、立香は恨みがましく告げる。
「ここまでしておいて私を放り出すの? それこそひどい話だわ」
 このまま解放されたとて、この体の熱をどうすればいいのかなど立香には分からない。胎の中は熱く蕩けていて、歩けば体の中身が零れてしまいそうだ。それに、子細すら知らぬこの行為の続きを、その先にあるものを立香は知りたかった。
「それもそうだ」
 ふっと男が笑った。そこでふと立香は考える。そういえば自分は、この男の名前すら知らないのだと。
「そうだ。名前……あなたの名前を知りたい」
 嫁入り前の娘が知らぬ男と姦通する。こちらとしては大事なものを差し出すのだ。相手の名前くらい知っておいてもよいだろう。そう思ってのことだったが、何がおかしいのか男は愉快だという様子を隠し切れずに笑った。
「それを今聞くんだねぇ、君は。ふふ、いいだろう」
 青い目がこちらを見ていた。そうして立香は、己を縛る男の名を聞いた。
「私はマーリンという」
「……マアリン」
 口にすると、男は笑って口付ける。舌が唇を割り、歯列の上を滑った。掌が妖しく体の上を蠢いて、力が抜けてしまう。
「それは少し違うかな。口を開けて……そう、そのまま」
「マーリン……」
「うん、そうだね。じゃあ折角だから、君の名も聞いておこうか」
 マーリンが嬉しそうに笑うものだから、立香はこの音を忘れずにいようと思った。理由なく、この男に何かを与えたいと、そう思ったのだ。
「私は、立香……藤丸立香」
「リツカか。うん、いい名前だ」
 マーリンの手が優しく髪を撫でる。少しひんやりとしたその手に、立香は頬をすり寄せた。自分でもおかしなことだと思う。成り行きで肌を合わせている男に、これほどまでに気を許すなど。これが恋というものなのだろうか。恋すら知らずに生きてきた立香にとって、それは未知の感情であった。それと同時に、これが恋というものであるならば大切にしたいという思いもあった。だからこそ、秘裂に触れるその熱い塊を受け入れたいと思ったのだ。
 それは鈍い衝撃であった。入るべき場所ではないところに、異物を押し入れているという焦りに似た感情があった。他者に体を拓かれる危うさと、男に征服されるという仄暗くも甘いマゾヒズム。ぬめる蜜筒を進み、隘路を割り開いていくその屹立に、立香は酔い痴れた。痛みがない訳ではなかったが、それすらも快楽へと繋がる刺激になる。
「なるべく痛くないようにするつもりだけど、辛いなら言って欲しい」
「別に痛くたっていい」
 立香はきっぱりと言い放つ。むしろ繋がる痛みが欲しいとさえ思えた。マーリンは笑みを浮かべると、君は本当に面白い子だね、と甘やかな声で囁く。漂う麝香の香りに、くらくらとした。
 立香の希望に応え、剛直が抵抗を超えて埋め込まれて立香の胎内を蹂躙していく。ひりつくような痛みはあったが、痛みを超えて余りある快感があった。ゆっくりとした律動と共に、めりめりと襞が押し上げられる。それがたまらなく気持ちよかった。自分が変わる、塗り替えられる感覚に、眩暈にも似た陶酔を覚える。
「あ……ん、ああ、あっ……!」
 死んでしまいそうだ。肌を重ねる行為がこんなにも気持ちがいいと思わなかった。快楽に中のものを締め付けてしまうたびに、自分を犯すものの形をはっきりと感じてしまい、興奮に喘いだ。動きが大胆に、激しくなっていくにつれ、奥をがつがつと穿たれる快感が立香の胸を埋め尽くす。ぐちゃぐちゃという粘着質な音が絶え間なく結合部から漏れ、それが聴覚から立香を侵していく。五感が織り成す快楽の色曼荼羅の世界に立香は溺れた。
 目の前が白む。抗いようのない波が、自分を浚っていく予感がする。立香は四肢を絡めながら何度も目の前の男の名を夢中で呼んだ。甘く口を吸われ、全身が戦慄くと共にきつく中の高ぶりを食い締めると、ぐっと奥を突き上げられて立香は己の意識が弾け飛ぶのを感じた。肉体が溶け消えてしまったかのようにふわふわとしていて、忘我の淵を揺蕩う。腹の上にぶちまけられた熱いものが、ゆっくりと肌を伝い落ちていく。これが男の精なのかという実感と共に、自分はこの男と本当にまぐわったのだという感慨が遅れて湧き上がってきた。
 マーリンは懐から懐紙を取り出し、立香の腹をさっと拭っていた。いつの間にか腰の下に敷かれていた紅い染みが付いた手巾に、この男がこういうことに慣れているのだということを嫌でも実感できた。
 マーリンは何故自分を抱いたのだろう。その疑問を抱きながら、立香は気怠さに目を閉じ、そのまま意識は闇に飲まれていく。無垢であった少女はこの夜、死んだ。



 目を覚ました立香は、窓から差し込む陽の光に自分が死に損なったことを感じていた。いつの間にか体は寝台に横たえられており、これからどうしたものかと思惟しながら立香は体を起こす。部屋を出ると、マーリンはやわらかく微笑んだ。
「ねえマーリン、私をここに置いてはくれないかしら」
 働き口を見付けて自分で生活できるようになるまで、どうにかここに身を置けないだろうか。立香の必死の懇願は、マーリンによってあっさりと一蹴される。
「それは困るなぁ。私は養われることには慣れているけれど、養うことには慣れていないんだ。それに、働くといったって、箸より重いものを持たない華族の君に一体何ができるのかな」
 熱の籠らない瞳が、じっとこちらを見つめていた。立香の背筋をさっと冷たいものが走っていく。
「どうしてそれを……」
「おかしなことを聞くんだね。君が着ているその上等な着物に、藤丸の名。分からない訳がないじゃないか」
 マーリンの言う通り、立香の家は華族であった。今まで立香は働くことはおろか、家事すら一度もしたことはなかった。そんな自分が一人で生きていくということは無理があると知っていたが、立香はどうしても家に帰りたくはなかったのだ。
「帰りなさい。君があるべき場所に」
 それでもマーリンは冷静に立香を突き放す。足元から地面が崩れ落ち、暗い暗渠へと落ちていくような気がした。このまま食い下がっても、彼の結論は変わるまい。立香は失意のままに店の戸を潜った。リィンと高らかに鳴り響く鈴の音。
「君の人生は、君が思うほど悪いものではないよ」
 鈴の音と共に、優しい声音が背に語りかけてくる。振り返るも、目の前で扉はばたりと閉まってしまう。
 重い心と体を引きずって、立香は歩き出す。死のうとしていた身だったので、持ち物も身銭もない。どこにも行くことができないのならば、行先は一つしかなかった。帰れば、やはり怒られるのだろうか。そして憂鬱でしかない生活が待っているのだろうかと思うと、胸が詰まって苦しくなった。
 立香は祝言を控えた身であった。相手の男は親ほどの年齢で、恋愛結婚ではないことは明らかだった。この時勢、恋愛結婚などできないことは分かっていたし、年が離れていようと人間として愛することができればと思っていた時期もあったが、男は自身の地位を鼻にかけては立香に延々とそれを押し付けた。
 舶来の趣味の悪い装飾を身に纏っては、自分は偉いだのなんだのと聞いてもいない自慢を延々と続け、そんな男の妻になれるのは幸せだろうと驕り、早く子を生してもらいたいものだと立香の腰を抱き、猥雑な言葉で辱める。
 そんな何一つ愛すべき部分の見つからない男と共に、味のしないビフテキを噛み続ける時間が、立香にとってはたまらなく苦痛であった。それでも親が見繕った結婚相手であれば否応なく話は進み、本日の顔合わせで結婚が決まる運びとなっていた。だからこそ、立香は身を投げることを決意したのだ。
 しかし、今自分はこうして生きている。マーリンは悪いものではないと言っていたが、この人生のどこが悪くないと言えるのだろうか。ふうと息を吐く。こうして死に損なってしまったからには、覚悟を決めねばなるまい。決意と共に門を潜ると、両親は幽霊を見たような顔をして、そして涙を流しながら立香を掻き抱いた。思いの外心配をされていたらしいとぼんやり考えながら会合の支度をしようとすると、会合はなくなったのだと告げられて思わず虚を衝かれる。
 男と会わなくてよいのであれば願ったり叶ったりではあるが、一体何があったのかと不思議に思っていると、なんと婚礼の話すらなくなってしまったのだという。こちらに不手際でもあったのだろうかと考えたものの、それは違った。男は水面下で方々に借財を重ねていたらしく、此度の婚儀でそれを藤丸の家になすり付けようとしていたらしい。それが発覚したがために両親は怒り狂ったのだと家令は言った。
 あっさりと、死のうとしていたこの身は自由になってしまった。まるでマーリンはこのことを予見していたかのようだと、立香は夢のような心地で思うのだった。


「ああぁっ!」
 懐古の海に浚われていた意識は、鮮烈な快楽によって引き戻された。目の前ではマーリンが妖しく笑っている。ぐり、と捩じ込まれた熱い滾りが、立香の弱い部分を的確に抉っていく。襲い来る法悦の波濤に、抗うことなく溺れた。
 立香はあれから幾度となくマーリンを訪い、肌を合わせてきた。マーリンとの交合は夥しい快楽が得られる行為であり、無垢であった立香の体は耽溺していくうちにすっかりと彼の形に適応していった。今や彼なしでは生きていけないと立香は本気で思っている。自分がこんなにも貪婪になってしまうなど思ってもみなかった。
「随分と上の空だったみたいだね」
「あなたと出会った時のことを思い出してたの、っ! あとは、今日の夜会に出たくないなって……」
 息を乱しながら立香は答える。絶え間なく激しい水音が下肢から発されていた。
 あれから立香は降るような求婚を袖にし続けてきた。立香が望まぬ結婚に耐えかねて家を飛び出したこともあり、両親がそれを咎めることはなかった。それは後から広まった噂によるものが多分に含まれているのだろうと立香は思う。
『藤丸の娘は匂い立つように美しく、自らに相応しい相手でなければ決して頷かぬ』
 男というものは自らの自尊心を掻き立てるものに弱いのか、立香のもとには方々から結婚の申し込みが絶え間なくやってくる。結婚を強いられることがなくなったのは喜ばしいが、これはこれで疲れるものである。それに自分は称賛されるような美貌の持ち主ではないのだと溜息が出そうになる。
「夜会は嫌い。レエスの手袋も好きじゃないし、洋装は疲れるの」
 何よりも、腰を抱いてやれ十二階に行こうだの、活動を観に行こうだの、精養軒で仏蘭西料理を食べようだのとあれこれと囁いてくる男がたまらなく鬱陶しいのだ。誰に何を言われようと、全く心が躍らない。
「私は見てみたいけれどね。君の夜会服姿はさぞかし綺麗なんだろう」
 この男に抱かれている時が、血が通ったように高揚する。生きているという実感をする。これが愛なのか、恋なのかはよく分からない。ただ貪欲にマーリンを求めた。マーリンはいつでも立香を受け入れてくれたが、決して立香のものにはならなかった。彼の腕は誰にでも開かれているのだろうと、先程臭った香を思い出して苦い気持ちになる。
「……私が中に出してと言ったら、あなたは中に出してくれるのかしら」
 今まで行った行為の数々で、マーリンが立香の胎に精を放ったことは一度としてなかった。それが彼なりの線引きなのかもしれなかったが、それを超えてしまえば彼を捕らえることができるのだろうかと漠然と考えたのだ。予想外の言葉だったのか、マーリンは目を瞠る。そして、当然のようにこう言った。
「私は別に中に出しても構わないけれど、身重の体で嫁入りをして、生まれた子供の目が青いとくれば君の立場が苦しいんじゃないか」
 ああ、この男は捕らえられないのではない。囚われる気がないのだ。その直感は、絶望にも似た仄暗さでこの身を絡め取る。恨めしかった。悔しかった──恋しかった。
 立香は蜘蛛のように肢体を絡めて、ねだった。マーリンは時折見せる底の知れない笑みを浮かべてそれに応える。胎の中に注がれる熱い迸りを感じながら、彼の一部をこの体に受け入れることができたのだというどこか倒錯した悦びに立香は全身を震わせた。
「私はね、君のゆらぎに満ちた心が好きなんだ」
 気怠い体を寝台に沈め、立香の髪を梳きながらマーリンは言った。
 それはこの心が乱されることを望んでいるという意味だろうか。ならば、この心はとっくに乱れている。普通じゃない。こうして何度も夫でもない男と体を繋げているなど。
「とっくに私は狂っていると思うけれど」
 自嘲と共に立香は吐き出した。それでも自分はこの男のもとを訪れ続けるのだろう。そうして渇き飢えた体を繋げ続けるのだろうと分かっているからだ。渇いているのは果たして体なのだろうかと思うが、よく分からない。ただひたすらにマーリンを求めていた。きっとこの心も体も既におかしくなっているのだ。
「狂われては困るな、私はそのままの君がいいのだから」
「よく、分からないわ……」
 彼の言うことは難しい。どうにも抽象的というか、要領を得ないというか。それが柳に風といった彼の本質なのかもしれない。飄々としていて、底が知れない。だからこそその深淵を覗きたくなり、手を伸ばしたくなるのかもしれない。
 困惑した様子の立香に、マーリンは口付けを落とす。ゆっくりと熱い口内を掻き回してから、立香の耳に妖しい色香を伴った囁きを捩じ込んだ。
「美味しい果実は、甘く熟れてから頂くのが流儀というものだろう?」
 甘い声音がじんと頭を痺れさせる。うっすらと、しかし存在感を伴った麝香の香りがする。
 立香の視線を絡め取って、男はうっそりと笑った。