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少女は眠りの淵から目を覚ます。
ゆるりと開けた瞼に映るのは、見慣れた板張りの天井。そこにある染みを数えながら眠りに落ちるのが、彼女の常であった。身を起こし、まだ夢の余韻覚めやらぬ頭のままぼんやりと布団を折り畳む。障子戸を開けて外へ踏み出すと、床板がひんやりとしていて心地よい。遠くに聞こえる蝉の声に、今日は暑くなるのだろうかとぼんやり考えた。
「おはよう、リツカ」
穏やかな男の声がした。飄々としてどこか掴みどころのないその男は、この屋敷の主であった。
「おはよう、マーリン」
挨拶を返すと、長い白髪を揺らしながらその男は破顔した。よくもまあそこまで長く伸ばしたものだと思うが、その長い髪が簾のように背を覆っていても、汗一つかかず涼しい顔をしているのが立香には不思議でならなかった。すっかりと長く伸びてしまった自身の髪を見ながら、切ってしまいたいと思う。汗をかくと纏わり付いてくる感触が、立香はあまり好きではなかった。櫛を入れるのにも手間がかかる。切ってしまいたい、ばっさりと。
「いけないよ、リツカ。君の髪は綺麗なんだ」
毎日のようにそう思うのだが、どうもマーリンはこの髪をいたく気に入っている様子で、それを認めてはくれないのだ。自身の思考を見透かした発言に驚きながら、髪を優しく梳く男の指先を立香は黙って受け入れる。まるでペットのようだ、と思ったが、それは事実でもある。立香はこの男に飼われていた。
山の上にある古式然とした武家屋敷。辺鄙な立地かそれとも家主に人脈がないのか、そこそこ長くここで過ごしてきた立香であるが、この屋敷に人が訪れてきたのを彼女は一度も見たことがない。バイクもなければ車もなく、下山手段は己の足のみ。つまるところこの家から出ることができない状態でたった二人、立香はマーリンに養われて生きてきた。
そんな状況では生活など成り立たないであろうと思われたが、マーリンは突然ふらりと消えるように出かけては、どこかで何かをしているらしい。衣食住は満ち足りていて、立香は密かにこの男は何かよろしくないことに手を染めているのではないかと訝しんでいる。せめて働きたいと訴えても、一体何の仕事をしているのかと聞いてみても、「隠居生活には慣れているんだ。私に任せてくれないかな」と煙に巻かれるのが常であった。言われたわけでもなく自分ができることとして家事を一手に担いながら、立香は男の寵愛を受け続けてきた。そうして日がな一日屋敷で過ごす立香の最近の楽しみは庭に作った家庭菜園の世話であった。
この家にはテレビもラジオもなかったが、不思議と退屈はなかった。立香がせがめば、いつもマーリンはいろんな話をしてくれた。その優しげな声音を聞きながら眠りに落ちるのが立香はとても好きだった。ただ、ずっとこうして安穏と養われ続けていくことは果たしてよいことであるのだろうか? という漠然とした疑問を抱き続けてもいた。
このままこの生活を続けていけば、この髪も男と同じほどに伸びてしまうのだろうか。それは嫌だなあと思ったが、マーリンはそれを喜ぶのかもしれない。それに関しては満更ではないと、立香は相反する感情を抱く。自分は一体どうしたいのだろう、漠然と思惟しながら今日も箱庭の生活は安らかに続いていた。
ばたばたと広い屋敷を掃除している間も、マーリンはずっと外の風景をぼんやりと見つめている。その瞳には一体何が映っているのか立香には分かりかねるが、彼がこうしてどこかを見つめ続けているのは常のことであった。老人のようだと思うが、外見こそ年若いもののその中身は随分と長い年月を生きてきたようなので、老成していてもおかしくはない。
そんなマーリンの見つめる風景に変化を付けたくて、彼の目の届く範囲に種を植え始めたのが家庭菜園の始まりである。そのうちに自分の方が変化を楽しみにするようになってしまったのは本末転倒な感じではあるが、楽しいことはよいことであると結論付けることにする。
今日は大きく実った西瓜が収穫できた。冷たい井戸水にさらしておいたそれを思い出しながら、後で切って二人で食べようと立香は床を拭く手を軽やかに滑らせた。屋敷は広く、掃除には時間がかかるが、立香には余るほどの時間がある。布団と洗濯物を干して、としているうちにあっという間に時間は過ぎていく。そうして余暇を潰すことが立香の日常であるため、まるで主婦のようだと思うが、男と立香の間に婚姻関係はない。恋人関係でもない。
奇妙な関係だと思う。何の繋がりも持たぬ二人がこうして身を寄せ合って暮らしているということが。かといって、自分はマーリンとどうこうなりたいと願っている訳でもないのだ。生活こそ平和だが、その下には得体のしれない何かが燻っている。もしも彼とそういう関係になったとしたら、この不可思議なものも消えるのだろうかと考えて、馬鹿馬鹿しいことだと一蹴した。男は一度としてそんな言葉を立香に囁いたことなどはなかったからだ。
自分はそうなることを望んでいるのだろうか。よく、分からなかった。
西瓜を水の中から取り出して、その重さに顔が緩むのを感じた。汲み上げた井戸水にさらしておいたそれは、キンと冷えていて心地よい。夏の終わりに収穫が間に合ったことを喜びながら、持ち帰ったその実に早速刃を入れた。緑色の果皮の下から現れた真っ赤な果肉。そこから滴る果汁に躍る心のままに、果実をどんどん切り分けていく。残った分はまた明日食べることにしよう。
「マーリン、西瓜切ったから食べよう」
「うん、ありがたくいただくことにしよう」
二人並んで縁側に腰かける。真っ青な空が頭上に広がっていて、心も爽やかだ。盥に張った井戸水に足を浸すと、心地よい冷たさが広がっていく。ここで食べる西瓜はさぞかし美味しいに違いないと、期待に胸を膨らませながらその赤い果肉に齧りついた。舌の上に広がる瑞々しく優しい甘み。至福のひと時に破顔しながら、発した言葉に他意はなかった。
「美味しい! みんなにも食べさせたいなぁ」
疑問は後から浮かび上がった。みんな、とは一体誰のことだろう。ここには私とマーリンしかいないのに。首を傾げる。何故、私とマーリンしかここにはいないのだろう。
思い出したように、一斉に蝉時雨が降り注いだ。
(山の上にあったのは、そこにいたのは、私の髪の長さは)
頭の中で蓋をしていたそれが開き、息を吹き返す。その奇妙な部分のそれぞれが、生々しくその異質さを露わにしていく。私はどうしてここにいるのだろう。ここはどこだろう。思考の濁流の中で、ぐるぐると考える。飲み込まれる。蝉の鳴き声がうるさい。まるで警鐘のように、けたたましく頭の中で反響し続けるそれは、思考をやめることを促しているかのようだった。頭が割れそうだ。うるさい、うるさい。
「ここには私とリツカしかいないよ」
おかしなことを言うんだねという穏やかな声に、あれだけうるさかった蝉の声はぴたりと止んでいた。そうだ、私は何を考えていたのだろう。ここには自分とマーリンしかいないと、その生活をずっと続けてきたというのに。
「そうだよね、マーリンが言うならそうなんだよね」
何をおかしなことを考えていたのか、と首を傾げながら、襲い来る眠気に瞼が落ちる。何やら難しいことを考えてしまったからか、頭が疲れてしまったようだ。食べかけの西瓜を脇の皿において、隣にある男の体に身を預ける。どうにも眠くてたまらない。優しく頭を撫でられると、もう駄目だった。
「ごめん、何か眠くて……少し寝るね」
抗いきれない眠気に従って瞼を閉ざすと、立香の意識は手が届かない場所へと溶け消えていった。
それを見届けながら、男はふうと一つ息を漏らす。途端に周囲の景色はみるみるうちに歪み、盥の水の中へと溶けていく。そこから現れたのは、閉ざされし理想郷。彼は、立香に決して嘘は告げていなかった。
ただ、真実を告げていないだけで。
この世界の人理は既にすべて燃え尽きてしまっていることを、彼女は知らない。知らせていないからだ。世界から隔絶されたこの場所だけが、今も変わらずに残り続けている。そうして彼女は幸せな夢を見る。
「信じるべき人間は選ばなくてはならないと、私は君に言ったのにね」
誰に告げるでもなく、魔術師は呟いた。焼却に抗う立香の手を取って、ここに連れ込んだのは自分のエゴだ。ただ彼女に死んで欲しくなかった。それだけだ。そうして人理は燃え尽き、世界は滅び、人は死に絶えた。マーリンは最後の人類となってしまった少女の頬を優しく撫でる。あたたかな体温がそこに宿っていた。
少女の心は、少しずつ摩耗している。ゆっくりと深い部分まで蝕まれ、そしてある日突然壊れてしまうのだろう。その時、自分は一体何を思うのだろうか。悲しいと思うのだろうか。その瞬間に、世界は本当の終わりを迎えるのだろう。
「おやすみ、リツカ……いい夢を」
今度はどんな夢を見ようか、と花の魔術師は優しい幻想を紡ぎ出す。
──それは、穏やかな心中であった。