空を掴む

FE風花雪月ディミレス

「そこのお方、少し手伝っては頂けませんか」
 呼びかける声にベレスは振り向く。立っていたのはどこか見慣れぬ風貌の男であった。東方で商人を営んでいるというその男は、ガルグ=マクまで行商にやって来たのだという。そうして大修道院近郊までやって来たはいいが、荷馬車が石に乗り上げて倒れてしまい立ち往生しているのだそうだ。
 男に連れられて向かった先には無惨に横転した荷馬車と、それを取り囲む商人達。人々が力を合わせて必死に持ち上げようとするが、唸り声が続くばかりで車体は依然として倒れたままである。これは随分と難航しそうだと、大修道院に応援を呼びに向かったベレスの背を聞き慣れた声が叩いた。
「どうしたんだ、先生」
 振り返ると、不思議そうにやや瞠られた青い目があった。私用で外出していたのだというディミトリに、ベレスは経緯を説明する。そうして頷きながら話を聞いていた彼は、実に落ち着き払った様子で告げた。
「力になれるかもしれない、案内してくれないか?」
 ディミトリが日々鍛錬に精を出しているのは知っている。だが、大勢が集ってどうにもできなかったものを彼一人が加わったところでどうにかできるとも思えない。懐疑的な思いはあれどひとまず現場に案内すると、商人達は相変わらずあれやこれやと頭を悩ませている。
 少し離れていて下さい、という声に人の輪が引く。ディミトリは荷馬車の前に立つと、その縁に指をかけた。まさか一人で持ち上げる気かとどよめきが上がる。
「君、士官学校の学生さんだろう? 流石に一人では無理だよ」
 狼狽した様子で商人が声をかけるが、ディミトリはそれに薄く笑って応える。
「任せて下さい、力仕事は得意なんです」
 告げて、彼は深く静かに息を吸い込む。ぴんと張った緊張と、水を打ったような静寂。木陰に留められていた馬が、ぶるりとその身を震わせた。
 しっかりと地に着けられた二つの足が、重みによって沈み込む。常人には耐えられないその負荷を、彼は並外れた膂力によって支え、持ち上げていく。
 その場に居た誰しもが圧倒されていた。数人がかりで持ち上げてもびくともしなかった荷馬車が、ゆっくりと持ち上がり体勢を変えていく。そうして彼はたった一人で荷馬車を立ち上がらせてしまったのだった。
「いやぁ学生さん、凄いねぇ。たった一人で持ち上げちまうとは」
 緊張が解けると共に、商人達は次々とディミトリを褒めそやす。突然人の輪に囲まれたことに困惑しつつも、ディミトリは務めて慇懃に、そしてどこか寂しげに応えるのであった。ああ、まただ。輪の外からその光景を眺めていたベレスは、既視感に気付いてしまう。
 王家の風格なのか、それとも生来の気質か、彼はとても人を惹き付ける。しかし、その中心に居る彼からはどこか一歩引いたような距離を感じるのだ。
 それは幼子の一歩にも満たないほどにごく僅かな、そして決して埋まることのない隔たりである。立場柄一番近い場所にいるが、触れられたという実感は一度としてない。そんな時、彼はいつもどこか寂しげな目をしている。
 人が嫌いな訳ではないことは知っている。むしろ彼は人を好きなのだろうとは短い付き合いながらも感じていた。ただ、絶望的な空白が横たわっているだけだ。
「そうだ、お礼をしなくてはいけませんね」
 言いながら、商人の男は荷台の中から木箱を運び出してくる。ずっしりと重たげなそれは、彼らがガルグ=マクへ持ち込もうとしていた商品なのだろう。
 慌てて謝礼を辞退するディミトリを商人達が制し、その間に男が木箱の中から目当ての物を探し当てる。その手に握られていたのは小さな房飾りであった。
「私達に伝わる幸運のお守りです」
 馬の毛を少しずつ集め、祈りを込めて編んだそれは、持ち主に幸せを運ぶのだという。丁寧に育てられたのだろう、房飾りの毛は実に美しく艶めいている。礼を言いながら受け取るディミトリは、やはりどこか寂しげな目をしていた。商人達と別れ、共に修道院へと戻る。そこでディミトリから差し出されたのは、先程の房飾りであった。
「先生、ずっと見ていただろう」
 確かにその美しさは目を惹き、貰えば嬉しいものであるだろう。しかしそれは彼の幸せを願い贈られたものである。不穏な胸騒ぎと共に『これは彼の手にあるべきものだ』という使命感にも似た思いが落雷のように突き抜ける。
「これは君が持つべきだ。いつか、抱えたもので潰れてしまわないように」
 辞するベレスに、荷馬車程度なら持ち上げられるから心配ないとディミトリは笑ってみせる。触れ得ぬ空に手を伸ばすようにただ、寂しげな瞳を想った。