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その人は不気味な人だった。無色透明、何の感情も見えない、底の知れない瞳で俺を見る。人を殺した時と同じ目で、同じ表情で、同じ声音で、俺達に生きるための術を教え、談笑する。それは人として実に異質で、歪で。古井戸を覗き込んだ時のようなその瞳が、ずっと得体が知れず怖かった。
その人は、気付けばあらゆる場所に溶け込んでいた。自学級の生徒のみならず、他学級の生徒や教員、大修道院に住まう全ての人々、果てはガルグ=マクの外まで。気付けば彼女の姿を見付け、その名を聞く。様々な人物と繋がりを持ち、今や大修道院で彼女を知らない人はいないと言えるほどだ。騎士団長たる父の存在や、突如やって来た流浪の傭兵という特異な状況もその知名度を上げることに寄与しているのだろうが、一番は彼女の人柄なのだろう。
呼吸をする時、吸い込む空気が目に見えないように、ごく自然に彼女は傍にいて、何の違和もなく馴染んでいる。それは実に不可思議でありながらもとても心地の良い感覚で、彼女の周りに人が集い始めるのに時間はかからなかった。
彼女は透明な人だった。色を持たず、どんな場所にも馴染む。そして、彼女がいる場所はほんの少し明るくなる。そこにある光は彼女を通すことで収束し、明度を上げるのだ。だから、彼女を通して見る世界はほんの少し眩しくて、温かくて、美しい。ああ、だから彼女の傍は心地が良いのか、と得た気付きに得心する。
陽だまりというには少し違う、木漏れ日の降り注ぐ外界を窓越しに見るような、ほんのりとしたぬくみである。主張することなくただそこにある存在は、気付けば傍にいる。無意識の海の深い部分で、波に脚を浸しながら立っている。その思いを抱く頃には、彼女に対する思いもすっかりと形を変えていた。
冷たく血の通わない印象を抱かせた、底の知れない古井戸の瞳には、澄んだ水が湛えられて見る角度によってちらちらと光を返す。その光景は一つとして同じものはなく、ずっと見つめていたくなるような不思議な感慨を抱かせた。
相変わらず表情は彼女の感情に追い付いていないようであったが、その分彼女は言葉を重ねた。多くを語らない人ではあるが、過不足なく言葉を伝え、それ以上に俺達の話に耳を傾ける人であった。その根底にあるのは、人を知ろうという気持ちである。幼子のような好奇心というよりも、それは人というものを通じて自分という存在を知ろうとするような探究にも見えた。
そうして彼女が日々少しずつ交流を重ね、人を知るごとに、仄かな感情の片鱗のようなものが感じられるようになっていった。今、嬉しいのかもしれないといったように、憶測ではあるがその気持ちを感じられるようになったことが不思議と嬉しくて、目が離せなくなってしまうのだ。いつかにドゥドゥーが言っていた、植物を育てることの喜びを思い出す。手をかけて育て、違う姿を見せるようになっていくたびに嬉しくなるのだ。同じではないが、根底は似ている。
その瞬間は突然だった。ふと目を向けた時にあったのは、閉じていた花が開いていくように表情を綻ばせる彼女の姿。理由のない喜びが無性に胸を震わせ、気付けばもう一度をせがんでいた。どこか不思議そうにしながらも自ら微笑んでみせるその様子に、込み上げたのはある種の達成感であった。これまで育って来た彼女の情緒が、目に見える形で発露したことへの感動である。それ以来どんどんと変わっていくその表情を見ているのが楽しくて楽しくて堪らなかった。
俺しか知らなかったその表情を、いつしか彼女は他の人間の前でも見せるようになっていった。そのことをとても喜ばしく嬉しいことだと思いつつも、心の片隅で少し寂しいと感じている自分がいることを自覚した時、気付いてしまった。
──何をしているんだ。
この身は死者の無念を晴らすためだけにあり、復讐を遂げるべく生かしてきた。その人はいつの間にか心の深い部分に入り込んで、無意識の海に立っている。彼女を通して見る世界はほんの少し明るくて、温かくて、美しくて。思わず手を伸ばしそうになる。そんな資格など、未来など、俺にありはしないというのに。
彼女と初めて会った時、その底の知れない瞳が怖かったことを思い出す。今思えば、人を、俺を知ろうとするその目を恐れたのかもしれない。或いはその透明な瞳に映っていた虚ろで暗い古井戸は、俺自身なのかもしれないと。
先生。呼ぶと振り返る姿。女神より力を賜り、禁呪の闇から見事生還してみせたその外見は、より色を無くすかのように変化していた。俄には信じ難い話ではあるが、空を裂く一閃は常人とは思えないものであった。月末には聖者の再来とし啓示を受けることが決まっており、随分と不思議な状況なってしまったと思う。
空を焦がす夕陽の中、色素の薄い髪が翻り、境目を無くして溶けていく。瞬間、異常なまでの焦燥に駆られてその腕を掴んでいた。どうしたのと問う透き通った声音、向けられる瞳。はっとする。それはまるで女神に縋る罪人のようであった。
何でもない。告げて、持たざる者は手を離した。