野獣死すべし

FE風花雪月ディミレス

 ──王たるもの、個の感情に囚われてはならない。理性の声に耳を傾け、正しき選択を取る。それこそが、王に課せられた責務なのだから。
 それは、幼い頃に聞いた教えである。その時の自分は果たして何と思ったのか、もう思い出せない。しかし、年を重ねた今となっては言葉の意味が理解できる。
 いつからか、自分の腹の中には獣が巣くっていた。獣は低く唸りながら常に機を窺っており、時に激しく暴れ吠え立てる。殺せ、殺せと叫ぶ声に従い思うがまま槍を振るったその日、昔からの幼馴染は信じられないものを見るような目を向けてきた。どこか恐れすらも感じさせるその視線に、潔く『自分は普通ではないのだ』ということに気が付いた。それからは、理性の声に耳を傾けて生きている。
 人間とはかくあるべきだという規範に則り、正しいと思う選択を取ってきた。個の感情を表に出さず、ただ理性の声だけを聞いて暴れる獣をねじ伏せた。処世術というには実に歪で、獣が臭いを消し人に紛れるための擬態にほど近い。
 悲願を成し遂げるためには生きねばならなかった。獣は人の中では生きられないのは道理であるので、自分を律しただ人間の姿を演じ続けた。
 だが、このところ理性の声が聞こえなくなることがある。
 それはかつての地獄を想起させる出来事に触れたからなのかもしれない。罪なき人々が虫を潰すように殺され、住む場所を焼き払われた。ルミール村での出来事以来、腹の中の獣が実に激しく暴れるようになってしまった。
 殺せと叫ぶ獣の声がする。民の安寧のために賊を討伐することは大事だが、生活基盤を立て直し彼らの暮らしを守ることこそ肝要であると諭す理性の声がする。理性の声だけを聞け。そう己を律し、耳を傾ける。そうしていると次第に獣の声が聞こえなくなるはずなのだが、どうにも御し切れないままに獣が腹の中を這いずり回っている気配がするのだ。人間の証左たる理性の声と、殺し尽くせと叫ぶ獣の声が頭の中で幾つも反響し、割れんばかりに頭が痛み吐き気すら催す。
 息を深く吸い込み、吐き出す。理性の声だけに耳を傾ける。人とはかくあるべきだと己の形を再定義して歩き出す。そうして訪れた部屋の扉を開き、その先にあるものを認めたその瞬間、あれほど煩かった獣の声がぴたりと止んだ。
 その背はこんなにも小さく消え入りそうなものであっただろうかとふと思う。感じた違和の正体を確かめる間もなく、振り返った無防備な表情に目を奪われた。
 赤く潤んだ目は、彼女がつい今しがたまで泣き濡れていたことを存分に物語っていた。たった一人の肉親を、不条理に奪われたその無念と悲しみは実に深いものであることは想像に難くない。自分もそれを知っているからだ。
 ベレスと自分は、同じ傷を抱えている。
 そう実感した時、ふと──ぞわりとした得体の知れない何かが腹の底に広がっていくのを感じた。その不気味さに怖気が走りそうになるが、今はベレスを立ち返らせることが先だ。気丈に振る舞おうとする彼女を制し、なすべきことは何かと問いかける。己のなすべきことは何だと自問する。
 彼女は強い人だ。悲しみに暮れ、涙を零す瞳の奥には確かな強い光がある。そこから立ち上がることができるかは本人次第ではあるが、彼女は再び歩き出せる人だという確信があった。自分達にできるのは、ベレスを信じて待つことだけだ。
 彼女にはまだ、心の整理をする時間が必要だ。ベレスを残し、騎士団長の部屋を出る。レアに状況を伝えるべく謁見の間へと向かっていると、先程感じたぞわぞわとした奇妙な感覚が蘇る。臓腑を掻き回されるかのような、実に落ち着かない感覚である。自らの内の獣が妙に静かなことに不穏なものを感じながら、なすべきことのために歩き出す。蠢く影を捉えたのは、暫くしてのことであった。



 炎帝達の会合を息を殺して窺う。獣が咆哮しているが、機を待つべきという理性の声を聞き必死に耐える。こめかみの辺りが痛み始めた頃、近付いてくる気配。現れたのはベレスであった。気取られぬよう注意を促せば、彼女は何事かと覗き込み、瞬く間にその目が険を孕む。ベレスは唸るように、ただ一言を呟いた。
「復讐の時だ」
 ぞわり、と全身が総毛立った。腹の奥を得体の知れぬものが這い、吐き気に似た何かが込み上げる。目眩に襲われながらも理性の声はなすべきこととしてベレスを静止する。しかし──獣の咆哮と共に、理性の声は完全に聞こえなくなった。
 殺し損なったと、手にした短剣を握り締める。信じ難い事実が己が内で結び付こうとしていた。考えるべきことは多くあったが、まるで頭が回らない。交わす言葉なく帰途に就きながら、横目でベレスを見遣る。獣の声が止み、腹の中が不穏に蠢く。そうしてようやく自分を苛む不可思議な感覚を理解した。
 ──嬉しいのだ、俺は。彼女が自分と同じ場所まで堕ちてきてくれて。
 獣は静かに笑っている。最低だ、と零しながら、その口元は弧を描いていた。
 理性の声は、もう聞こえない。