あなた色に染まっていく

FE風花雪月ディミレス

「先生はどこか、良い匂いがするな」
 思わぬ一言に、ベレスは己の腕を嗅いだ。香油や香水の類を塗ったことはないし、特別何かをした覚えもない。
 嗅いではみたものの、自身の肌からは特に何も臭いは感じ取れないような気がする。芳しい香りも、饐えた汗の臭いもなく、鼻に馴染みすぎて嗅ぐことのできない体臭だけがただそこにある。
「特に何もしてないけれど……どんなにおいだろう?」
 一度言われてしまうと気になってしまうもの。自らが何かしらの臭気を振り撒いているのであれば、それは正さねばならないことであるだろう。
 ベレスの言に、ディミトリは答えに窮した様子で考え込んだ。
「ああ、においがきついとか、そういう訳ではないんだ。どう言えばいいんだろうな……。決して不快なものではないんだが」
 ひとまず誰彼構わず体臭を振り撒いていなかったことにほっとする。ならば、彼が自分から感じるにおいとは一体何なのだろうか。特別なことなど何もしていない、皆と同じ生活をしているだけであるので、どうして自分からそのにおいが発されているのかという部分については分かりかねるのだが。
 じっとねだるベレスに、ディミトリは考え、言葉の続きを重ねていく。彼としてもそれは意識して嗅いでいたものではなく、自然と感じていたものなのだろう。
「どう言えばいいんだろうな……。先生の隣に立ったり、すれ違ったりした時にふと感じるんだが……。気持ちが落ち着くというか、何故だか安心するような匂いなんだ。──って、何を言っているんだ俺は……」
 抱いていた思いを辿り、明確な言葉にしていくうちに感じるものがあったのだろう。我に返ったのか表情を渋く歪めると、不躾だったなとディミトリは眉を下げて自らの発言を詫びる。
 ベレスとしては特段気にするようなことではなかったのだが、ディミトリがその顔に浮かべるものを次々と変えていく様子が面白くて、ベレスはくすりと笑みを零した。結局どんなにおいであるのかは分からなかったのだが、彼の貴重な姿を見ることができたので良しとしよう。
 しかし、自分がねだったことで気に病ませてしまったのなら申し訳ない気持ちがある。少し興味が湧いたこともあり、ベレスは目の前の男の胸板にそっと顔を寄せてみた。すん、と小さく嗅いでみる。頭上でやや慌てた気配がした。
「せ、先生……?」
 揺らぐ声音が問いかける。嗅ぎ取ったものから感じたのは、微かな汗のにおい。饐えた不快なものではなく、それは自分もよく知っているものであった。
 訓練を終えて着替える時、ほんのりと感じるそのにおい。彼は今日も鍛錬に精を出していたのだということがよく分かる。その様子がありありと眼裏に浮かび、ベレスの胸に温かなものが満ちていく。自身の体臭を嗅ぐベレスを、ディミトリは身を固くして見守っており、緊張している様子が窺えた。
「──頑張っている人のにおいがするね」
 顔を上げ、告げるベレスをディミトリがじっと見下ろしている。いまいち意味が分かりかねているのだろう、その目が微かに瞠られ、不思議そうにしている無防備な表情が無垢な幼子のようで可愛らしい。
「私は好きだよ、君のにおい」
 そうかと呟く頬が薄らと色付いていく。珍しいと感じると共に、彼は今もその『いい匂い』とやらを感じているのだろうかと、ついと逸らされる視線に思った。
 ディミトリと別れたベレスは、市場へと向かい物資の買い込みを行なっていた。
 使い込んだ武器を修理に出し、使った道具の買い足しをしておく。高らかに歌うような声に出迎えられつつ、嗜好品を見繕っていると少し心が躍る。生きるうえで必要のない物ではあるが、日々の生活を彩り英気を養うことも重要だ。茶葉を幾つか購入し、ベレスはとても満ち足りた思いで市場を後にした。
 買ってきた物を自室へと持ち帰り、棚や籠に仕舞う。大修道院を訪れた時はひどく殺風景だった自室にも、随分と物が溢れてきた。棚の中に幾つも並べられた茶葉の容器を眺め、ベレスは穏やかに目を細めた。その時、こつこつと扉が叩く音が来訪を告げる。扉を開けると、立っていたのはイングリットである。
 肉が少ないため狩りに行きたいのだと言う彼女に頷き、同行を決める。出発の準備をしようとして、ふと思い立ったベレスは自らのにおいについて聞いてみた。
「体臭は感じませんが……先生の部屋はいつもカミツレの良い香りがしますね」
 香を焚く優雅さを見習いたいとイングリットは笑う。しかし、ベレスにそのような習慣などない。心当たりがあるならば、良い香りだと表情を和ませた男の姿。
 ──染められている。齎された発見は、自覚と共にベレスの頬を赤くした。