煤闇クリア記念に書いたもの
この世に愛というものがあるのならば、私の想いは愛などではない。
私の世界は彼女でできていた。幼い頃から共に在り、これからもずっと共に生きていくのだと、根拠なく確信していた。それが傲慢な思い上がりであると気付いたのは、彼女と私が大人と子供の狭間に立った時のことであった。
彼女は外の世界に飢えていた。体の弱さ故に教会の外には出られず、どこにも行けないごく狭い世界が彼女の全てだった。狭い教会の中で一生を終えようと、彼女が居るなら私はどんな世界であっても良かったが、彼女はそうではなかった。
その男は、干上がった大地に慈雨が降るかの如く彼女の飢えを満たしていった。乾き切った喉を潤すように、彼女は男に外の話をねだった。男の話術は巧みとは言えなかったが、鋭い眼で捉えた情景は実に詳細なものだった。物語のように想像を掻き立てるものではなく、ただありのままを伝える記録のようなものであったが、美しい空想ではなく血の通った現実こそが彼女の求めていたものであった。
彼女と共に在りたいと、狭い世界から出ることなく生きてきた私には、決して与えられないものである。悔しい思いがなかった訳ではない。彼女の最も近しい存在でありたいと願い続けてきた私にとって、男は春の嵐であった。
日を追うごとに彼女の口から男の名が発せられる機会が増えていく。彼女の視界が、世界が広がっていく。狭い世界を飛び出して、男と共に世界を巡る風になるのだ。どこにも行けない私は狭い世界に一人取り残されたまま、ただ春の野を見つめている。
静謐で気高く、主が作りたもうた彫像なのではと思わせるような人だった。そんな彼女は、蛹がやがて羽化するかのように、華やかな笑顔を浮かべるようになっていた。それを初めて見た時の衝撃を、私は決して忘れることはないだろう。
愛していた。確かに愛していた。この上なく彼女を愛していた。
だが、それが何だというのだ。私の愛は、彼女を救わない。彫像であった彼女人に変えたのは間違いなくあの男で、それはあの男にしか成し得ないことで、私が隣で見てきた彼女は彼女ではなかったのだと、はっきりと突き付けられた。
願わくは、その役目を務めるのは私でありたかった。しかし、彼女の笑顔すら知らなかった私に何ができただろう。籠の鳥をただ眺めることしかしなかった私に。思い上がりも甚だしい。割り切れない思いは確かにあった。ただ、ただ。彼女がようやく幸せを見付けることができたのだという、咽び泣きたいほどの感動の前には何もかもが些事であった。彼女の幸福は、何にも代え難い喜びだった。
男から聞いた話を私に語る彼女は実に生き生きとしていた。騎士団の帰還を彼女と共に指折り待った。彼女の世界が百花繚乱咲き匂い、色付いていく。その様が実に尊く、嬉しくて。男と婚約をしたのだと告げる彼女の、少し面映い表情。子を身籠った彼女の、慈愛に満ちた微笑み。その一つ一つが褪せることなく鮮やかに、この胸に焼き付いている。その全てが我が事のように──我が事以上に喜ばしかった。この男なら、きっと彼女を幸せにしてくれる。私はそれを見守るだけで良かった。一番になれなくていい。ただ、彼女が幸せであればそれだけで。
それだけで、良かったのだ。
彼女が死んだ。
私の世界は、暗い土の中へと閉ざされた。
彼女の儚く脆い体は、出産に耐えることはできなかった。母か、子か。どちらかしか生きられぬ状況で、彼女は子の命を乞うたのだという。そうして彼女が遺した命は大火に消え、男も姿を消した。狭い世界に、私だけが取り残された。
生きとし生けるものはいつか死ぬ。それが彼女は人よりも早かった。私は彼女が愛した世界を愛そう。彼女の目となり、命の限りこの世界を見つめよう。
そう思っていた。土の下にあるはずの、その遺体を見付けるまでは。
地下で見付けた遺体は実に美しく、まるで眠っているかのようだった。私の名を呼ぶ、鈴のような声。彼女の姿のその一切を思い出すことができる。瑞々しい熱情は、何一つ色褪せないまま息衝いていた。ああ何故、彼女が死なねばならなかった。本当に、彼女は出産で命を落としたのか。ならば──この遺体は何だ?
美しかった世界が、赤黒く歪んでいく。彼女の最期は大司教から伝え聞いただけだ。あの男が姿を消す前、大司教をいやに警戒してはいなかったか。彼女の死は、大司教によって捻じ曲げられたものなのか。そうであるならば、認めることはできない。許すことなどできない。彼女の死など、あってはならない。決して。
世界の在り方を正そう。彼女を取り戻そう。これはきっと、私にしか成し得ないことだ。もう一度彼女に呼んで貰えるなら、その瞳に映ることができるなら、何だってしよう。この想いを何と呼ぶのか、君が目覚めれば分かるだろうか。
「──シトリー」