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絵の描き方を教えて欲しい、と先生は突然教えを乞うて来た。
自分が続けている無益な行為を先生にまで押し付けてしまうようで、怖くて。人に教えられるような技量ではない、もっとちゃんとした人に教わった方が良いと、幾度となく断ったものの先生は決して諦めなかった。君が良いんだと言いながら、画材一式を手に追いかけられれば流石に折れない訳にはいかなかった。
実のところ、嬉しかったのだ。親にも世間にも認められない自分の本質を、先生だけは認めてくれた気がした。隣を空けて手招きをして、どこにも行けない自分を迎え入れる居場所を作ってくれたような、そんな気がしたのだ。
絵を描く行為は、生きるためには必要ない。いくつパンを描いても腹が膨れることはなく、絵筆を揮っても剣の前には無力だ。それでも、この手で描いた世界は自分だけのもので、見えているもの、見えないもの、美しいもの、貴いもの。この手に描き出せないものは何もなかった。
絵の中の世界はどこまでも自由で、絵筆で色を乗せる度に世界が広がる。瑞々しい感動に震える。心落ち着く静けさと、胸に滾る熱い興奮。相反する二つが綯い交ぜになる中、その一枚を完成させた時、自分の中の何かが一つ埋まる。価値はなくとも、自分の中には意味がある。
石を砕き、すり潰す。何度も鉢や棒を変えて同じ工程を繰り返すのは単調ではあるが大事な作業だ。顔料を作り始めた頃、待ちきれずにそこそこのところで切り上げて後悔をしたものだが、顔料作りも今は楽しみの一つとなっている。
「褪色が早い色や、どうしても出したい色がある時に宝石を砕くこともあるみたいですが……それができるのは宮廷画家くらいですね」
商人から貴石のさざれを貰ったことがあるのだが、勿体なくて未だ砕くことができずにいる。貴重なものであるのだから、特別な絵に使いたい。しかし、考えれば考えるほどに『特別』とは一体何であるのかが分からなくなってしまうのだ。
「ボクが伝えられるのはボクなりの絵の描き方です。芸術に正解はありませんから、先生も描きたいように描いてみてください。楽しく描くことが一番なので」
特別とは何かが分かりかねているように、正解も分からない。売れる絵こそ正解なのかもしれないが、自分はただ、この目で見た美しいものへの感動を描き出さずにはいられないだけなのだ。届かぬ恋文を綴るような、青臭い熱情である。
「先生は何か描きたいものがあるんですか?」
先生は実に熱心で、教えたことをどんどんと覚えていく。基礎的な技法はすぐに習得し、教えられることはもうほとんど残っていない。目覚ましいまでの上達ぶりが楽しくて、嬉しくなって。その情熱の根源が気になってしまったのだ。
「イグナーツを描きたい」
まるで歌劇の一幕が如く。姫君に求婚をするかのように、先生は真摯に告げてきた。それはあまりにも予想外の答えで、ひどく情けない上擦った声が漏れる。
困惑しきりの状況であるが、駄目だろうかと聞かれれば断ることはできなかった。何と言うべきか、先生は強引ではないが、頷きたくなるような力強さを持っている。主体性なく彷徨うばかりの手を取って、真昼の庭に連れ出すかのようだ。
場所として指定されたのは懐かしき金鹿の学級の教室前。真剣な表情で筆を動かす先生をひどく落ち着かない気持ちで見つめる。髪や服装に乱れはないだろうか。描かれる対象になるということは、思いの外照れ臭いものなのだと知った。
先生が顔を動かす度、陽光を受けた淡い新緑の髪が煌めく。色素の薄い瞳子も相俟って、人の体の一部でありながら切り出した輝石のように見えてしまうことが不思議だった。いつしか抱えていた思惟を放り投げ、ただ輝きを追う。終わったよと声をかけられるまで、絵を描き進める姿を飽きもせず見つめて続けていた。
「君に描いて欲しい絵がある」
あの瑞々しく鮮烈な衝撃から暫くして、先生から齎されたのはそんな依頼である。宮廷画家でもない身分で王命を賜ることは憚られたが、君にしか描けない絵だと言われれば頷かない訳にはいかなかった。先生の声を受け、ガルグ=マク大修道院には先の戦争以来各々の道を歩んできた級友達が一人を除いて集っている。
生徒として過ごした教室に、成長した姿が並ぶ様子は圧巻であり感慨深くもある。この絵は自分にしか描けない。否、自分が描きたいのだと考えるより先に感じた。驕った思考かもしれないが、与えられた機会が喜ばしく、嬉しかったのだ。
先生がここに立つんじゃないんですか? と問う声に、先生は静かに首を振る。皆が並ぶ中、不自然に空いた隙間が存在を主張していた。その空間は、丁度人が二人分収まる程度のものである。あの日、きらきらと輝く美しいものに目を奪われた。その場所に、今度は自分が立っている。貴いものを、描こうとしている。
──遥か東方の地、王は西より届いた包みを開ける。中には絵画が二枚。重ね合わせたそれを見て、王はほうと感嘆の息を吐いた。いつか絵は三枚に、そして一つになるのだろう。絵画の中では、孔雀石の瞳がやがて来る新風を見つめている。