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あたしには、大義や理想なんてものは分からない。そんなものを掲げても重たいだけだし、それに、実現できなければ苦しいだけではないか。
「逃げるかエーデルガルト! お前は、お前だけは……!」
ぎらぎらと血走った目を、恐ろしいと思った。開き切った瞳孔は常軌を逸した興奮状態にあることを雄弁に物語っている。どこか楽しげに、いや、当然のことであるというように群がる兵を切り捨て、すっかりと血みどろになった姿は血に飢えた獣というよりも戦場を彷徨う亡霊に見えた。
突如として戦争を始めた皇帝、俄に現れた亡国の王子。あたしには、彼らの気持ちがこれっぽっちも分からない。クロードくんも何か理想を抱いていることは知っているけれど、それが何であるかをあたしは知らない。
「ここで殺す、絶対に!!」
そんな満身創痍の体で何ができるというのか。全身をじっとりと濡らす真っ赤鮮血は敵兵のものだけではあるまい。このままではきっと、彼は死んでしまう。しかし彼は決して歩みを止めようとはせず、怨嗟の咆哮を上げ続けている。
何がそこまで彼を駆り立てるのか、あたしは知らない。ちょっとお堅そうで苦手な部類の人かもと思っていたことと、士官学校時代の終わりに突然人が変わってしまったことだけが、あたしの知る彼の全てだ。
戦場で大事なのは、引き際を見誤らないことだ。いつかにクロードくんが言っていた。そうして死ぬ前に退けと、いつもあたし達に説いていた。
余力を残して退却を選んだ皇帝と、全てを失った王子。どちらが勝つかなど比べるべくもない。しかし、逃げる軍勢に喰らい付いた王子は、尋常ならざる勢いで兵を次々に殺していく。押し寄せる兵を棒切れのように切り捨て、薙ぎ払い。
──怖い、と思った。
圧倒的な武力よりも、悪魔のような恐ろしい形相よりも、彼の異常なまでの執念が。そして彼が何を思い、死すら厭わず殺戮を続けているのかが全く分からないことが怖かった。だって、このままでは何も残らないまま死んでしまう。
王国軍を目にした時、亡霊が現れたのかと思ってしまった。王国軍旗を掲げた軍勢の話を聞いた時、マリアンヌちゃんが零していたのを冗談半分で聞いていたが、皆が死人のように温度のない表情をしているのを見た途端に肝が冷えたのだ。
皆きっと、譲れないものや守りたいもののために戦っている。あたしだってそうだ。あたしにはもっとやりたいことがある。可愛い装飾品を作ったり、皆で何でもないことを笑っていたい。それに、素敵な恋だってしてみたい。
そのためには自分の暮らしを守らなくてはならない。帝国に呑まれてしまえば全てなくなってしまうのだから。皆きっと、自分の未来を守るために戦っている。目の前のものを守るだけで精一杯で、世界を変えたいだなんていうのは天上人の考えることだ。あたしなんかにそんな人の見ている景色が分かるはずもない。
しかし、グロンダーズに現れた王国軍の彼らには未来がない。戦いの後に続くものが、どこにもないのだ。そんなもの、行軍などではなく葬列ではないか。あたしは、彼らが何を思ってこの戦場に立っていたのかを知らない。知る術もない。
「この化け物を止めろ! 陛下をお守りするのだ!!」
命を捨てる覚悟で、帝国兵達が死力を振り絞り立ちはだかる。幾人もの兵が群がっては薙ぎ倒される様子はまるで寄せ返す波のよう。彼らは国のために戦っている。自らの命を散らそうと、そこに住まう者達の明日を築けるように。
「邪魔だどけ!!」
怒りが喊声を掻き消す。一歩ごとに憎悪が地を揺るがす。妄執に盲いた彼の目には仇しか映っていない。だから、切り刻まれた手足は目に入らない。そこから流れる夥しい血を知らない。己が歩みが、少しずつ鈍っていることに気付かない。
「逃がすものか……! その首、切り落としてやる……!」
どすり、と。鈍く穂先が埋まる音がした。ごく短い呻きと共に、僅かに傾ぐ腹に、背に、胸に。突き立つ槍がひとつ、ふたつ、みっつ。
身体中から槍を生やしながら、それでも彼は体を引きずり進み続ける。とっくに死んでいるはずの傷だ。そんな状態で体が動いているのは執念でしかない。或いは、既に幽鬼と化してしまっているのか。しかし急速に足は鈍り、生々しい血の跡を残しながら進んでいた大きな体躯が、力を失いがくりと崩れ落ちた。
「エーデル……ガルト……! 必ず、殺して……」
息も絶え絶えに、それでも彼は怨嗟の言葉を吐き続けている。先を行く皇帝は顎を動かし一瞥すると、前を見据えて歩みを止めることなく引き上げていった。
どうしてこんなことになったのか、分かるはずもない。明日を夢見る生き方だってあったはずだ。彼には向かう先が破滅でも続いてくれる人がいたのだから。
呆気なく迎えた一つの結末に背を向けて、あたしはまだ見ぬ明日へ歩き出した。