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皇帝陛下の侍女を仰せつかったのは、春が終わり夏へと移り変わろうとする頃であった。宮城の実に長い回廊を歩きながら、教会へと刃を向けるような皇帝とは一体どんな人物なのかと身震いをする。粗相をしてしまえば首を刎ねられるのだろうか。浮かんだ想像に手足を冷たくしていると、従者によって重厚な扉が開け放たれる。その先に立っていたのは、まだ幼さを残した可憐な少女であった。
この少女が、かの皇帝であるというのか。信じ難い思いを抱きながらも淑女の礼をとると、値踏みするかのような視線が頭から爪先まで向けられる。視線に反応するかのように緊張が駆け抜け、身が強張るのを感じた。
少女は子供がおおよそ持ち得ない威圧感を放っている。間違いなく、この人こそが皇帝であるのだと本能が感じ取っていた。ならば、この少女が始めたというのか。世界を喰らい尽くす神殺しの戦争を。思考が追い付かなくなり眩暈がする。
「私はエーデルガルト=フォン=フレスベルグ。知っていると思うけれど、この国の皇帝よ。早速だけど貴女には──」
ああ、一体何を命ぜられるのか。生唾を飲み込みながら指示を待つ。今までになく早い鼓動が実に傾く、気分はさながら断頭台の囚人だ。
「髪を結って貰おうかしら」
髪、ですか。という間の抜けた問いをどうにか飲み込んだ。恐らくこの少女が好む行いではないと思ったからだ。代わりにかしこまりましたと告げて、道具を取りに部屋を辞す。皇帝の私室の扉が再び閉まったところで、ようやく新鮮な空気を肺一杯に取り込み、深く吐き出した。生きているという実感に震える。
「余計なことを口に出さない思慮深さは好ましいですが、もう少し落ち着きを持って貰いたいものですな」
低く、落ち着いた声が囁くように降り、再び呼吸が止まる。付き纏う影のように気配がなかったが、この男はもしやずっとそこに居たのだろうか。粗相をした時に首を刎ねるのは皇帝ではない、この男だとまたもや本能が理解する。
ご助言、痛み入ります。どうにか言葉を発して頭を下げると、男はくくくと不気味に笑った。不安を掻き立てる、実に不穏な笑みである。
「貴殿の働きには期待していますよ」
告げて、やはり男は影のように消え失せる。どんな期待であるのかは知らない方が良い気がした。この状況で落ち着ける術があるなら是非知りたいものである。
「そうね……威厳を示すような、そんな髪型がいいわ」
髪結い道具を一式取り揃えて、どんな髪型が良いかと問うたところ返ってきたのはそんな答えである。既に少女は皇帝たる威厳を備えており、人の上に立つ者であるという自覚と矜持も持っている。不思議に思っていると、少女は続けた。
「私は侮られる訳にはいかないの。だから、戦い抜くための強さをくれる?」
目が覚めるようだった。これまでの思考を思い返し、忸怩たる思いに駆られる。彼女を一目見て『可憐な少女』だと侮ってはいなかったか。歳若さだけでその資質を見ようともせず、軽んじていたのではないか。それこそが彼女の打破しようとしているものであり、そのための装いを彼女はこの手に委ねてくれているのだ。
お任せ下さいと膝を折っていた。この時こそが、真に陛下の侍女となれた瞬間であるのだろう。この方にお仕えしたいと誰に言われるでもなく強く願った。
透き通り、光を受けて輝く髪を手に取る。櫛を通せば清流のようにさらさらと滑った。丹念に手入れを施された、貴い体の一部である。それを任せて頂いているという喜びが緩やかに満ち、そして弾け、この胸を明るく照らしていくのだ。
二つに分けた髪の束を纏め、結い上げる。金細工の飾りをあしらい、纏めた髪を固く留めていく。決して乱れることがないように、その威光に寸分の翳りも齎さぬように。これから訪れる激動の時代を駆け抜けるための強さとなれるように。
「ありがとう、とても良いと思うわ。……これで私は戦える」
低く、決意の滲む声音はこれから皇帝として歩む道の険しさを感じさせる。孤独なこのお方の戦いを支えるのが、この身に課せられた使命なのだろう。この手が結うのは主君を守る第二の鎧だ。そのことが、実に誇らしい。
陛下が瞑目し、短く息を吐く。そうして再び強い意志を宿した双眸が現れると、彼女は椅子から立ち上がる。慌てて、それでも決して音は立てずに扉を開いた。
──その日、アドラステアによる宣戦布告が行われた。争覇の時代の幕開けである。
それから、五年。毎日陛下のお召し替えを行い、髪を結い続けてきた。時に報告書の束を繰りながら、時にはまだ眠たげな目を瞬かせながら。姿見の前に座る陛下のお姿を見つめ続けてきた。そうして毎朝鎧を編み、戦場へと送り出すのだ。
「ありがとう。でも──本来は、こんな髪色ではなかったの。もう二度と、私のような人間を生み出さない。世界の在り方を正すのが、私の願いであり使命よ」
透き通った輝石のような御髪が美しいと告げた時のことだった。陛下は表情を崩すことなく告げた。髪の色を失くしたその経験は、彼女にとって忌むべきものであるのだろう。何が起きたのかを知る術はないし、知るつもりもない。この手にできることは、その辛い記憶を編み上げて、強さに変えることだけだ。
この目に陛下が見ているものは見えず、理解することも敵わないのだろう。いっとう高い御座におわす陛下と、一介の使用人とでは目線の高さが違うのだ。同じものを見ることなどできようはずもない。人間が違う。
だからこそ、ただこのお方にお仕えすることだけを考える。願った世界が実現するように。世界を変えることが陛下の使命であるならば、陛下をお支えすることこそがこの身に課された使命なのだと改めて感じる。
そうして今日も、明日も、陛下を送り出す。完璧な『皇帝陛下』の装いを作り出す。今日も、明日も、陛下のお戻りをお待ちする。私室での陛下だけが私の知る全てであり、戦場に立つお姿を知ることはない。戦場から戻られた陛下を労い、召し替え、編んだ鎧を解くことが、この身にできることであり為すべきことである。
私的なことはほとんど話さず、日々その装いを整えそして解く。ごく短い時間だけが繋がりの全てで、それ以外には何もない。ただそれだけの関係であった。
「いつも髪を結ってくれてありがとう」
今日も今日とてお召し物を着せ付け、髪を結う。いつもと変わらぬ『皇帝陛下』の姿を作り上げたところで不意に名を呼ばれた。そうして告げられたのはその一言である。今まで告げられたことのないその言葉は抑え切れぬ動揺を齎す。
髪を結う行為はごく当然のことであったのだ。礼など告げる必要のない、日が昇って沈むことと同義の事象に過ぎない。何故に陛下がお言葉を与えたもうたのかが分からず混乱する。姿見越しに、陛下が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
勿体無きお言葉にございます、とすぐさま頭を垂れる。顔を上げると、陛下が微かに笑っていたような気がした。次の瞬間には表情が消えていたので、真偽の程は確かめようもない。そうして陛下はいつもと同じように席を立つ。
敵の軍勢は帝都にまで迫っているのだという。今回の合戦は、恐らくこの大陸の覇者を決めるものになる。実に壮絶な戦いになることは想像に難くない。
重厚な扉を開いて、出立する陛下をお見送りする。凛々しい『皇帝陛下』の完璧なお姿だ。そうして、変わらぬ敬意を込めていつもと同じく頭を下げるのだ。
「行ってらっしゃいませ、エーデルガルト様」