嘘を喰らわば真まで

その他蝶の毒華の鎖

悪人エンド軸の不健全なおはなし


「哥哥」
 紅を塗られた唇が艶めく。自分をこう呼ぶのは、この世でただ一人だけだ。
「どうした、妹妹」
 それはただ一人に向ける呼び名である。問いかければ、妹は嫣然と微笑んだ。円く無垢であった美しい目は、多くの悪事を知って色と温度を失った。清廉でありながらも太陽のように温かく眩い華族令嬢の姿はどこにもなく、しなを作り猫のように兄の側に寄り添いつつ裏社会を観察する氷の女帝がそこにいる。
「次の運搬経路だけれど、海沿いの道はやめた方がいいわ」
 肉欲を滲ませた下男の視線にすら怯えていた少女は、今や目の前で殺しが行われようとも平然としている。善悪の感覚が完全に鈍麻しているのだ。無知ゆえに純粋であった妹は、蝶が蛹から羽化するように妖艶な色香を纏うようになった。清さを残しているのは、その胎の奥くらいなものである。
「ほう、何故だ?」
「張られているもの」
 問いに対し、妹は即座に、明確に答えてみせた。その目を見る。絶対的な自信がそこにある。元より彼女が俺を裏切ることなどあり得ないのだが、仕入れて来たその情報は確かなもののようだった。妹は、この世で唯一信用できる駒だ。
 俺達は、愛憎の鎖で繋がっている。どこにも行けず、共に生き、共に死ぬ。俺を守るためならば、妹は何だってするのだろう。現に彼女は言葉すら分からなかった異国の地で独自の情報網を築き上げ、日夜情報を持ってくる。周囲の情勢や身内の不穏な動向、俺の利となるものは全て余さず報告する。それこそが、実にひたむきで、いじらしく、そして哀れな──彼女の愛だ。
「しかし……こんな情報、どこで仕入れた」
 阿片の運搬経路など、情報の中でも重要機密にあたる。経路のみならず、襲撃の予定まで掴んで来るのは並大抵のことではないはずだ。
 妹は笑った。かつて見せた明るく快活な笑顔ではなく、ぞっとするほどに妖しく美しい笑みであった。いつの間にこんな顔をするようになったのだろうと考える。おかしなことであった。彼女の清らかな部分を奪ったのは、俺だというのに。
「青幇の男と寝たの」
 呼吸が止まる。言葉の意味は分かるが理解ができない。彼女は今何と言った?
「とっても簡単よ。情報を握っていそうな男を調べて、近付いて。ここを少しからげれば、みいんなお喋りになってしまうんだもの」
 妹は──百合子は、自身が纏うドレスの裾をゆるりと持ち上げてみせる。深く刻み込まれた亀裂から、瑞々しくも張りのある柔らかな腿が姿を現した。上質な絹で作られた大陸のドレスは百合子の身体にぴったりと吸い付き、その動きに合わせてぬらぬらと艶めいている。薄い皮を剥いた内にある、まだ芯を残した青い果実の味は、誰も知らないはずだったのだ。滴り落ちる甘い果汁の芳香も、食い締めると共に埋没する果肉の得も言われぬ感触も。全て! 全て! 全て!!
 何を勝手に裏切られたような気持ちになっているのだろう。それは自分が一番よく分かっている。百合子を妹と呼び、家族として囲ったのは俺自身ではないか。だというのに、憎悪にも似た夥しいまでの激情が黒々と胸の内を染め上げていく。
 名を無くし、死者となったその瞬間から、情など捨て去ったと思っていた。しかし、今まさにこの身を占めているのは血肉を備えたひどく生温かい執着である。
「哥哥、私はもう何も知らない子供じゃないわ……確かめてみる?」
 白く小さな手が俺の手を導く。全てがどうでもよかった。愛獄の檻に閉じ込めたつもりでいたが、閉じ込められたのは自分だったのか、それとも二人出る術を失ったか。ああ、どうでもいい。ここがどこであろうが、等しく地獄でしかない。
 そこから先は、狂気の沙汰であった。この世の極楽と地獄を煮詰めても余りある、極彩色の色曼荼羅。頭が溶ける。肉体が形を失う。自分が自分でなくなる。それはまるで、二人一つに溶け合って蛹になるような、全てを超越した感覚であった。やがて背を割り生まれるのは、ひどく醜悪な生き物なのだろう。
 まじま、まじま。譫言のように繰り返される甘い声、縋る腕。それら全てが現実で、血を流し痛みを伴いながら隘路をこじ開けたその時、このまま死んでしまいたいと心の底から願った。甘く噎せ返るような百合の香に頭の芯が痺れる。華奢な体を掻き抱き、訳も分からず涙を浮かべながら『ひどい人だ』と思った。
 気怠げに身を起こした百合子は、床に落ちた衣服を探る。取り出した薬包を椀に入れ、水差しから水を注ぎ、それを口にしようとした瞬間、咄嗟に体が動いた。
 椀が砕ける音で我に返った。呆然とする俺を百合子があやすように抱き締め優しく告げる。私はおまえを独りになんてしないわ。口を吸ったのは初めてのことだった。
 忘我の淵を漂いながら、考える。姫様、貴女は本当に──ひどい人だ。