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『生きろ』という呪いが、今もこの身をきつく優しく、抱きすくめるように締め上げている。おかげで僕は死なない程度に呼吸ができている。
シーツの海に沈んだ体は気怠く、全ての感覚が遠くに感じられる。思考は浮かんだそばから波に浚われ溶け消えてゆき、意識は常に朦朧としていた。
重い、とても重い瞼を気力だけで持ち上げる。染み一つない白亜の天井はどこまでも高く見えて距離感を狂わせた。どうにか持ち上げた腕は、出来の悪い義肢のようにひどく軋む。自分の体とは思えないほどに重い。天に翳した手はすっかりと乾き、張りを失っている。まるで自分の手ではないようだった。
手を握る。視界にある手が拳を作る。そして開く。やや遅れて手が開く。紛れもなく自分の手だ。随分と変わってしまったなと他人事のように思う。
事実、他人事だ。僕はこの人生の大半を、何者でもない存在として生きてきた。仮面を被り、素性を偽り、英雄という名の偶像として生きてきた。墓守として、ただ彼が残したものを必死に守っていた日々だった。神話の世界から人類が決別したように、やがて英雄という偶像も風化して過去の遺物となっていく。ゼロという名の虚構が朽ち果て土に還る時、ようやく僕は僕として生きられるようになったのだ。しかし、一人の人間として新たに生き直すには僕は長く生き過ぎた。
ゼロとしてどう生きればいいのかは知っていた。一日でも長く、争いのない平和な世を守り続けること。身を粉にして地平に撒き、そこに咲く花が美しくあればいい。それが死に損ないのこの身に与えられた罰であり、救いであり、願いだ。
枢木スザクとしての生き方など知らない。枢木スザクは仮面を被った瞬間から既に死して世界を肥やす苗床となったのだから。元より、枢木スザクは生きてなどいない。死んでいなかっただけ──死ねなかっただけなのだ。
仮面を外した瞬間から僕は名もなき屍だ。生き方など分かるはずもない。時計の針が止まった瞬間から、俺の心臓は鼓動を止めてしまった。死にゆく体に熱い血潮を流したのは。喜び、憎しみ、あらゆる感情で心を満たし、爆ぜさせたのは。
「…………ルルー、シュ」
三人で過ごした蔵の記憶は、薄暗く黴臭くともいつまでも色褪せない宝石だった。或いは、絶対に手に入らないと分かっているからこそより鮮烈に感じていたのかもしれない。君の名の響きが好きだった。妹を見る目の優しさが好きだった。君達兄妹の、穏やかで温かな姿がとても眩しかった。それを守りたいと願った。
「何だ?」
優しい声音が囁きかける。ついに幻聴まで聞こえ始めたのだろうか。幾つも重石を乗せられたように頭が重い。沈む意識に併せて、視界が緩やかに霞んでいく。
伸ばしていた手に、掌が触れる。五指が絡められる。救いを求める者へ神が施しを与えるが如く、穏やかに、それでも確かにその手は触れていた。神などこれっぽっちも信じてはいなかったが、僕の世界を創り上げた、唯一無二の、絶対的な、決して消えてくれないただ一人を何と呼ぶのか。僕は未だそれを知らない。
「君は、そこに、いるのか」
問いかけた声はとてもがさがさとして荒れていた。手に力を込めるが、僅かに指先が動くばかりで碌に握ることすらできやしない。儘ならない体がもどかしい。
「ああ、いるよ」
淀みなく、だがほんの少しの抑圧を孕んだ声音が降ってくる。よく知った声だった。目は見えない、力はうまく入らないけれど、声だけはまだ聞こえていた。
「ゼロの、役目を、終えた」
「そうだな。もう人々にゼロは必要ない。お前は役目を全うしてくれた」
『生きろ』と呪う声がする。声が聞こえる度、生きねばと目を覚ます。少しずつ、その声が届かなくなってきている。君の声が聞こえなくなる。それが少し怖い。
「スザク」
確かな声。何一つ変わらない瑞々しい手が、細く長い指が、力を強める。それらは全て幻覚なのかもしれないが、確かめる術はなく、僕が君の存在を感じている事実は変わらない。弛んだ瞼に力を込める。目を開いても、凝らしても、映る世界は薄ぼけて輪郭を持たないままで。君の姿すら、僕にはもう見ることができない。『生きろ』と呪う声音が遠のいていく。するりと抜けていく指と、離れる掌。繋いだ手で支えられていた僕の腕は僅かな音を立てて落ちた。名残惜しさを感じると同時に、離れた手は頭を撫でる。ナナリーみたいにふわふわだと言ってくれた髪はすっかりと褪せてしまったけれど、触れる手つきは優しいものだった。
「……よく頑張ったな。もう、休んでもいいんだ」
君はひどい奴だ。俺の一生を捧げても貴い夏の日はついぞ戻らず、君は僕を置いて進み続けるのだろう。破滅と踊るような人生だった。だが、悪くはなかった。
心地良い疲れに身を預け目を閉じる。声はもう、聞こえなかった。