水のない水槽

FGOベディぐだ

 カルデアの職員と顔を合わす機会は少なくない。だが、彼らはいつも忙しそうにしているので、挨拶や手短な連絡で終わることがほとんどだ。そんな中、立香は一人の職員の手にきらりと光るものがあることに気が付いた。
 それは、指輪だ。シンプルでありながら決して安っぽさのないその装飾は、左手の薬指に鎮座していた。そこで立香は問うたのだ。ご結婚されてるんですね、と。職員は照れ臭そうにはにかみながら頷いた。結婚して、子供が生まれたばかりだったのだという。だから、必ず人理を守り通して家族のもとに帰らなくてはならないのだと。
 ただ漠然と世界を滅ぼすわけにはいかないと走り続けてきたが、こうしてより身近に失われそうになっているものを感じると、事態がいかに深刻であるかを思い知らされる。だからこそ、立香は立ち止まらないという決意を強くする。それと同時に、その手にある輝きを少し眩しく思った。
 職員と別れて廊下を歩く。後ろに付き従う人物に気取られぬよう、ちらりと横目で自身の手を見る。そこに嵌められた指輪は当然ない。自分はそれが羨ましかったのだろうか。考えてみるも、よく分からない。ただ、胸の内に澱のように溜まっていき、靄のように埋め尽くしていく、焦燥めいた不穏な気持ちがあった。それをどう形容すればいいのか分からなかった。
「リツカ、少し失礼」
 その声に振り返ると、片腕で体が力強く抱きすくめられる。人目に付くのを憚ってか、ベディヴィエールはもう片方の手で自身の纏う外套を引き上げ、立香の姿を隠していた。突然の抱擁に驚きつつも、その腕に酔い痴れる。陶然としたまま、顎をすくい上げる指を受け入れると、降ってくる唇。
 触れ合ったのは一瞬のことだった。その感触は優しく、甘く、やわらかい。自らを覆う白い外套が、まるで花嫁衣装のベールのようだと思った。
 互いの息遣いさえ感じられるほどのごく近い距離。目の前に穏やかな色をもった瞳がある。それを見つめていると、心が不思議と落ち着くのだ。ざわめいていた胸が、静かに凪いでいくのを感じる。それは彼が持つ空気なのか、それとも彼に寄せる想い故か、その両方か。その目を細めると、ベディヴィエールはそっと立香に囁いた。
「──愛しています」
 さっと引き下げられた外套が、立香を現実の世界へと引き戻す。それでも心は夢うつつといったようにふわふわとしていて、感覚が追い付かずぼうっとしてしまう。まるで甘い幻想のようであったが、少し頬を染めたベディヴィエールの姿に、これが夢幻ではないのだと教えてくれる。遅れて頬が一気に熱を持った。茹だったように顔が熱い。
「ベディ、い、いきなりどうしたの……?」
 動揺のままに問いかけると、ベディヴィエールはふっと微笑む。ほんの少し口角を上げて、目元を綻ばせるその所作がとても優雅で、立香は思わず目を奪われてしまう。
「リツカが、そうして欲しそうにしていたので」
 自分は、もしかしたらあの指輪が羨ましかったのかもしれない。
 だが、彼は惜しみない愛情をこの身に注いでくれる。形こそ残らないが、心はとても満ち足りていて、彼と深く繋がっているのだと感じさせてくれる。それはなんと罪深いまでに幸福なことであろうか。
 水槽の中、少女は溺れる。いつかこの中身が溢れてしまいそうだ、と未だ熱の覚めやらぬ頬に手を当てながら立香は思惟するのだった。