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「今度はきちんとデータを落とし込めているはずですので」
自信満々に言うベディヴィエールに連れられて、やってきたのはいつかの海岸であった。海岸、というのは語弊があるかもしれない。ここはカルデアのシミュレーターによって作られた仮想空間でしかない。座標軸で言えばカルデア館内から一歩も出てはいないのだが、夜闇に溶けあう水平線と、月の光を受けて薄ぼんやりと浮かび上がる白い砂浜が織り成す幻想的な光景を目の前にして、そのような事実は些事であった。波が砕ける音が、遠くから耳を擽る。想像の世界において人はどこへでも行けるとはよく言ったもので、立香は確かに遠く離れたどこかの島の浜辺に立っていた。
彼の旧友である騎士の領域を侵すことに少し申し訳なさはあったが、彼自身が心の寄る辺としているその場所へと気軽に踏み入ることは躊躇われた。きっとそこは、ベディヴィエールの心そのものだ。だからこそ、あの静謐な草原は彼だけのものでなくてはならないと、その心の一端に触れた時に立香は感じたのだ。
あの日と同じように手渡された釣り竿。その糸の先を、夜空を映した真っ暗な海へと放つ。夜闇に紛れていく浮きの姿を見届けて、ゆっくりと腰を落ち着けた。流石に今回はモンスターが釣れるということはないだろうが、一体何が釣れるだろうかと淡い期待が立香の胸を高鳴らせる。
こうして二人並んで座していると、カルデアの慌ただしい日常が遠いことのようだ。世界のことのあれやこれやから切り離された場所で、ただぼうっと無為に過ごすという行為は、カルデアにいてはできないことであった。
「もしも、プログラムが壊れて帰れなくなっちゃったら……どうしようか?」
それはふと浮かんだ問いかけで、付随する意味はない。児戯にも等しいものだった。だが、その『もしも』の想像が、立香の中でじわりと思考を侵食していることもまた事実であった。潮騒の音が静寂の間を通り抜けていく。ベディヴィエールは少し目を瞠ると、やがてその相好を穏やかに崩した。
「そうですね……まずは雨風を凌げる場所を見付けて拠点を作らなくては。建造物がないようでしたら家を建てましょう。幸い海岸には木材が多く漂着していますし」
今度は立香が驚く番であった。彼がこんな戯言に付き合ってくれるとは思わなかったからだ。もしかしたら、ベディヴィエールは本気でその事態を想定して話してくれているのかもしれないが。立香にとってはどちらでも構わなかった。彼と二人で続けていく空想の生活にこそ価値があったからだ。
「食べ物には困らなそうだね。あとは真水の確保かな。あれ? 案外普通に暮らしていけそう」
食べ物の目利きには自信があると言っていた言葉の通り、彼は到底食べられないであろうモンスターでさえ調理してみせた。時に謎の風味を醸し出すそれは、普段の食事としてはご遠慮願いたい内容であるが、こと非常時においては何よりの強みである。人は、他の命を分け与えてもらって生きている。それがなくては生きていけないのだ。何度か味わったその珍妙な食材の料理を思い出し、立香は懐かしさに笑みを零した。
「日の出と共に起きて、食材を見付けて。真水を溜めて、食材を探して。草を編んで、食材を探して。日が落ちたらこうして夜の海を眺めながら話して、焚火の火が尽きる頃に眠るの」
きっとそれは、穏やかで何もない暮らしだ。『何もない』ということがある暮らしだと言えるのかもしれない。安穏と同じことを繰り返し、生きる以外のことは何も考えず、ただ隣にある存在だけを感じながら呼吸をする。何にも縛られずに生きるその生活は、ともすれば最高に幸せなことなのではないかとふと思った。
「貴女は、それを望んでいるのですか」
抑揚のない声が問いかける。そこに孕まれているものは何であったのか。望んでいると言えば、ベディヴィエールは一体どんな反応を見せるのだろう。それが少し気になって、肯定しようかと考えた時、ぱしゃりと何かが跳ねる音を立香は聞いた。
魚が食い付いたのだろうか。ならば早く竿を引き上げねばと海の方へと目を凝らす。予想に反して、竿に動きは見られなかった。波の跳ねる音であったかと一抹の落胆を胸にしまい込んで、そこで立香は美しい物を見た。
海が銀色に光っていた。それは水中を漂う流星だ。ゆらゆらと流れていくその流星群は、水面をぱしゃりと跳ねていく。魚の群れが、月光を青白く照り返しながら泳いでいた。魚の名など立香は碌に知らなかったが、こんなにも美しい魚を見たのは初めてのことだった。
「……ううん。私、あなたといろんなものを見たい」
水辺は元の宵闇を取り戻している。それは一瞬の邂逅であった。
ここで暮らしていくということは、ずっと平穏が続くということなのかもしれないが、自分はもっといろんなものを見たいのだ。願わくばベディヴィエールとそれを共有したいとも。生命の神秘が見せる刹那の煌めき、人の手が紡ぎ出してきた歴史の積層。素敵なもの、醜いもの、喜び、悲しみ。あらゆるものを共に知りたい。きっとそれは、この広大であり狭小な島ではできないことなのだ。
「……そうですか」
ベディヴィエールは穏やかに目を細める。白皙の頬が、蒼い月を受けて眩く浮かび上がるかのようだった。それがとても綺麗で、誘われるように手を伸ばす。触れた肌は、ほのかに温かくてなめらかだった。
「貴女はこれからもっと沢山の美しいものを知るでしょう。それを隣で見られるのなら、こんなにも幸せなことはない」
すり寄せられる頬。この世にはまだ、自分が知らないことが沢山ある。月明りの下で見るほんの少し染まった頬の鮮やかさや、どこまでも清廉な瞳の色。それはこんなにも美しい。それをもっと沢山知りたいと、そう思うのだ。
星屑を撒いた空と、円い月だけが二人を見下ろしている。寄せては返す波間の向こうで、浮きは静かに姿を消した。