最愛の花

メルクストーリア

モブがリュンリーさんを監禁する強めの幻覚


 その人は美しい人だ。
 日が昇る頃に寝所を出て、一人弓の稽古をする。弦を引き、張り詰めた弓から放たれる正確無比の一射。幾つもの矢が軌跡を描き、目標へと吸い込まれていく様子は圧巻の一言だ。それを見据える凛とした目と、満足のいく結果にふっと緊張が和らぎ零れるあどけない表情。それは私を虜にするには十分であった。
 初めは遠くから見つめているだけで十分だった。高貴な身分の方であらせられるので、話すどころか目通りするとこも儘ならなかったが、早朝に弓を引くその人の姿を知っているのは自分だけなのだという優越感があった。
 しかし、人間とは欲深いもので、次第に私はあの方と言葉を交わしてみたい、許されるならばあの柔らかな微笑みを向けてもらいたいという過ぎた願いを抱くようになっていた。あの白い腕が、この身を優しく抱き締めてくれたなら──そんな禁断の思慕を抱いたことも一度や二度ではない。
 私がこんな邪な思いを抱いてしまうのは、使用人達の間でまことしやかに囁かれている噂話にあった。同じ使用人という立場上、噂話を聞く機会は多いのだ。
『ユージア様はリュンリー様を疎んでいらっしゃる』
 まだ一度も寝所へお渡りになられていないのでは、露骨に避けられている、と飛び交う噂と共に、おいたわしやと使用人達は不憫な新妻の名を口にする。
 私に与えられた領分は屋敷の外であるため、邸内で起きている出来事はほとんど知り得ない。話半分に聞いていたその内容であったが、偶然にも夫から冷たくあしらわれるその現場を、寂しげに顔を俯けるその人の姿を私は見てしまった。途端、ぐつぐつと煮詰まった岩漿のような思いが爆発して溢れ出し、私を御する理性の箍は呆気なく砕け散ってしまったのである。
 朝露の中に咲く花のようなその人を、弓の稽古を終えた時にふっと和らぐ貌を、私は無防備な一瞬のうちに腕の中へと抱き込み、強引に閉じ込めた。声を出さぬよう小さな口の中に指を突き入れ、苦しげに喘ぐ細い喉を的確に締め上げれば、あっという間に華奢な体はだらりと弛緩した。
 どの道を通れば人目に付かないかなどは、使用人こそが一番よく知っている。羽のように軽い体を担ぎ上げると、私は一目散に屋敷を飛び出した。後悔など微塵もない、実に清々しい気持ちであった。腕に抱いた柔らかな肢体の重みと、温もりこそが全てだった。どこまでもいけると思った。他には何もいらなかった。
 日が昇ると共に始まったのは、輝きに満ちた尊い日々などではない。沈鬱で、閉塞感に溢れた監禁生活である。
 屋敷を出てひたすら逃げて、辿り着いたのは村から離れた自宅である。ほとんど帰ることのない家であったが、引き払わずにいたことはこの上ない幸運だったと思う。弓を嗜んでいるとはいえ、細い女の体で男に抗えるはずもない。そのことを理解しているのか、その人は私がいる時は大人しく部屋の中に佇んでおり、出された食事も自ら食べた。一つだけある寝台は明け渡し、私は部屋の隅で気を張りながら切れ切れに眠る。私がその人から目を離す時は、必ず手足を縛って自由を奪った。ようやく触れたその人を、私は決して手放すつもりはなかった。
「私を攫って、一体何が目的なのです」
 その人は美しい容貌を憂いに翳らせて告げた。外はしとしとと雨が降り注いでおり、空を覆う暗い雲は随分と厚く晴れる兆しは未だない。過ぎたはずの雨季が戻ってきたのか、このところ天気はずっと雨が続いていた。
「私は、貴女を助けたいのです」
 吉兆として異郷の地へ嫁がされ、故郷に帰ることもできずに耐え忍ぶ貴女を。孤独であろうとも凛と咲き続けるその人を、害する全てから遠ざけたいと思う。
「ならば、私をリウに帰して下さい」
 しかし、その人は遠ざけたはずの苦しみへと戻ろうとする。この人は、幸福であるべきなのだ。愛され、慈しまれながら華やかに咲き誇るべきなのだ。
「いいえ。あの村に帰せば、貴女はまた愛のない結婚に苦しまれてしまう」
 夫に冷遇され続けた日々を思い出してしまったのだろう。愛のない結婚という言葉に、花のような容貌がひび割れる。痛ましくあるが、それは純然たる事実であった。それでもその人は表情を引き締めると、毅然とした態度で首を振る。
「たとえ夫婦としての愛がなくとも、共に立つ同志として支え合うことはできるはずです。それこそが、私が嫁いだ意味なのですから」
「貴女は、ご自分のために生きようとなさらないのですか!」
 口を吐いて出たのは、泣き喚くかのような叫びであった。どうか、この手を取って欲しい。苦しい場所など捨てて自由に生きることを選んで欲しい。
 ──私を、選んで欲しい。
 それはまるで子供が駄々をこねるかのような主張である。だが、心からの願いであった。渇望していた。しかし、その人は決して私と共に生きる選択をしようとはしない。澄んだ瞳は輝きを失うことなく、力強く私を見つめていた。
「私はもう、自分のために生きているのです」
 私という人間は、その人のどこにも存在する余地などないことを知る。揺るぎない事実は、私を絶望の淵へと叩き落とすには十分であった。どうして! どうして! どうして! 何故貴女は私を選んではくれないのだ!! 荒れ狂う炎のような激情が私の胸の中でごうごうと音を立てて燃え上がり、焼き尽くしていく。激しい熱に唆されるがままに、私はその人を寝台の上に組み敷いていた。
 あまりの恐怖に息を呑みながらも、決して悲鳴は上げまいとその人は屹とこちらを見上げている。力尽くで己を組み敷く人物を、逸らすことなく見つめている。
「あなたがこの身を穢そうとするのなら、私はここで舌を噛み切ります」
 押さえ付けた手足は冷たく微かに震えている。だが、その目と声音には一切の揺らぎがなかった。それはまるで澄んだ水面のように凛として、本気で言っていることが窺える。美しい鏡面にはひどく醜怪で卑小な獣が映っているのだろう。
 その時、愚かにも思ってしまった。『ああ、なんて可哀想な人なのだろう』と。
 この人は嫁いで以来、夫と触れ合うことなく過ごしてきたのだろう。使用人の間で囁かれていた噂を思い出す。奥様の元へお渡りになったことがないという話は本当なのだろう。不安と恐れを押し殺し、必死に強がる姿は実に憐れであった。
 おんなにもなれず、おんなにもなれず。このひとはただ、冷たい床を独り温め続けたのだろうか。異郷の地で頼れる者もなく、吉兆という曖昧な己の役割だけに縋ってきたのだろうか。想像すると胸が軋むように痛みを訴え、気付けば私は目の前にある体を強く搔き抱いていた。衣に焚き染められた香の清々しい花の匂いが鼻腔を擽る。その人はただじっと、抵抗することなく私の抱擁を受け入れていた。
 この人が欲しい。清廉に咲く花のような気高さと、降り注ぐ慈雨のような優しさを兼ね備えたこの人を。一番近くに立って、その手を取り、見つめ合いたいのだ。しかし、どれだけ焦がれようとも私の手は滑らかな指先を握ることは能わず、艶めく髪の一本すら手に入れることは叶わない。私が全てを擲ってでも欲したその人を、あの男は目の前で捨ててみせたのだ。それがいかに悔しく、惨めで、苦しいものであるかをあの男は知らない。私の身に宿った憎悪にも似た狂おしいまでのその激情を、奴は知らないのだ。あの男は、私という存在すら知る由もない。
 それは、ひどく愚かでみっともない嫉妬であった。
 涙は出なかった。ただ、胸の奥が血を流すように痛みを訴えている。私は嵐が過ぎ去るのを震えて待つ幼子のようにじっと、その人を抱き締めていた。ずっと、ただひたすらに抱き締めていた。しかし、どれだけ温もりが溶け合おうとも、私たちの体は二つのままであった。やはり涙は出なかった。
「食事はいかがなされますか」
 問いかけに対してその人は微かに首を振った。ここ暫くはずっとこんな調子で、日のほとんどを寝台の上で過ごすことが続いている。白磁の肌は白を通り越して青くすら見え、力を無くして床に臥せる姿は血の通わぬ人形のようであった。ただならぬ様子に医師を呼ぼうとしたが、それはすげなく拒まれてしまう。
 恐らく、治療を受けないのは私の身を慮ってのことなのだろう。医師に診せれば当然ながら行いが明るみに出る。貴人を拐かしたという罪状は、私を暗い牢に閉じ込めるのだろう。場合によっては死罪になってもおかしくない。しかし、もうそんなことを言っていられる状況ではないのだ。衰弱は日毎進んでおり、このままではこの人が死んでしまう。それだけは、たとえ何があろうとも嫌だった。
「医師を呼びます。これ以上弱っていく貴女を見ていられない」
 明確に告げれば、その人はやはり弱々しくも首を振る。しかし私とて譲れないのだ。いいえ、と選択を覆す意思がないことを通告し、じっとその瞳を覗き込む。ややあって、観念したのかその人は弱っていてもなお瑞々しい唇を開いた。
「幾人もの医師が私を診ました。しかし皆一様に首を振りました。いつしか村は雨害に苦しむようになり──そして、ある日星読みの者が告げたのです」
 私こそが、タオを蝕む凶兆であると。
 吉兆としてリウに嫁いだその人は、故郷では幸せに暮らしていたものだとばかり思っていた。私が毎日見つめていた、溌剌としていながらもたおやかでどこか儚い女性こそがその人本来の姿であるのだと。
 その見立ては決して間違いではない。ただ、故郷でのその人は力無く臥せる日々を送り、凶兆とされていただなどとは想像すらしなかった。どうして、この人がそんな目に遭わねばならないのだろう。理不尽な事実に憤りが湧き上がる。
「私は、あの地でなければ生きられないのです」
 どうして、私はこの人を救うことができないのだろう。
 あれだけ出なかった涙が、呆気なく零れ落ちる。無力な自分が恨めしかった。どこにも行けぬこの人が憐れであった。この瞬間、私ははっきりと理解した。
「私は、貴女を救いたかったのです」
 この人のためなら、何だってできた。この人以上に大切なものなどなかった。何だって捨てられた。命だって惜しくなかった。だが、それが何だというのだ!
 私では、この人を救うことができないのだ。
 悔しくて、苦しくて、ただ──辛い。
「私は、私は──!」
 言葉を忘れ泣きじゃくる私の手を、白く滑らかな手が握る。驚きに目を瞠れば、真っ直ぐに私を見つめる美しい双眸があった。瞬間、私は思い知らされる。
「あなたは、私を愛してくれているのでしょう」
 ああ、どうか。玲瓏たる声音でそのようなことを言わないで欲しい。ひどく優しい手つきで、私の手に触れないで欲しい。慈愛に満ちたその瞳を、私に向けないで欲しい。私は祈るような気持ちでその人を見つめていた。どうか、優しく微笑みかけないで欲しい。この先などないのだと、嫌でも分かってしまうから。
 しかし、その人は嫣然と微笑むと、続きの言葉を口にした。
「ですが──私があなたを選ぶことはありません」
 私が抱いた幻想を、その人は完膚なきまでに打ち壊していく。愛されなくとも良かった、なんて、嘘だ。私はこの人に愛されたかった。共に生きたかった。もう二度と手放したくなんてなかった。一片の希望も抱かせなかったのは、きっとこの人の優しさであるのだ。拐かされ、体が弱りゆく身であるというのに、この人は見も知らぬ人間を慮って心を砕いている。何と、慈愛に溢れた人なのだろう。
 触れる手から力が抜け、ゆっくりと瞼が落ちていく。それがその人と私の今生の別れであった。終わりの時が来たのだと、私はようやく事実を受け入れる。
 身勝手で、傲慢で、独り善がりで、実に愚かで、そして愚直であった私の愛。私の愛にできることなどないと知った今、できることはただ一つであった。
「リュンリー様」
 罪深い響きを雨音がかき消してくれることを願った。嫌だ、嫌だと私に住まう感情が悲鳴を上げる。私の愛にただ一つ、最初で最後にできることがあるのならば、それは──この人を、手放すことなのだろう。嗚咽が、雨の中に溶けてゆく。



「リュンリー様!」
 己を呼ぶ声に女は振り向いた。何者かに拐かされ、一時はリウから姿を消していた妃であったが、その後何事もなかったかのように東屋で眠る姿が発見された。
 見つかった際は随分と衰弱しており、回復を待ってから妃に話を伺ったものの、何者かに囲われていたという情報以外得られるものはなかった。その後も調べは続いたものの、依然として犯人もその目的も分かってはいない。
「どうしたのですか?」
 続きを促す女の声に、従者は困り果てた様子で口を開いた。
「ユージア様が休んで下さらないのです」
 その言葉に、女は華やぐ顔を引き締める。村の長たる夫は、どうにも働きすぎるきらいがある。それこそ健康を損なってしまうのではと不安になるほどにだ。人と距離を置いていた彼が没頭できたのが仕事なのかもしれないが、今はもうそんな寂しいことを考えなくても良いのだ。それこそが、吉兆としてこの地にやってきた自分の意味なのだから。
 ──否、支えたいと思うのだ。自らの意思で、優しく不器用なその人を。
 村を襲った脅威を癒術士と共に癒し、星読みの預言を解き明かして互いに抱えていたものを分け合ってから、夫婦としての関係性に変化が訪れたように思う。
「それはいけません。私からもお休みを取って頂くようお伝えしますね」
 私室へ向かうには庭を通った方が近い。それはこの地で暮らしていくうちに得た気付きであった。通り抜けようと庭へ足を踏み入れ暫く進んだ時、実に美しく手入れを施された草花の姿が目に入り、思わず足を止めて心を奪われる。
「これは……とても見事な造園ですね」
 零した賛辞に従者は頷く。屋敷の中にこのように美しい庭園があるとは今まで全く知らなかった。丁寧に剪定された草木の向こうには毎朝自分が弓の稽古を行っている場所が見え、新たな発見に胸が躍っていくのを感じる。これからは、稽古の後に庭に立ち寄ってみるのも良いかもしれない。
「毎朝ここを整えている庭師がいたのですが、暇を頂いたようでして……」
 勿体無いことです、と呟く従者に頷きながら、女は改めて庭園を眺める。実に美しく活き活きと花が咲き誇っていた。その庭師と一度会ってみたかったと惜しむ気持ちを抱きながら、女は夫の居る私室へと軽やかに歩を進めるのだった。