サンプル 血反吐を吐くように「好き」と言え。

 どこか懐かしい声に、ベレスは目を覚ました。
 夜と朝の境目を漂う白んだ空がある。甘くも溌溂とした声音に呼ばれた気がしたのだが、果たしてそこにあったのは心配そうに見つめる男の顔であった。大修道院麓の村人を名乗る彼は、胡乱げな目を向けながらも現在の状況をかいつまんで教えてくれた。そして、明日が千年祭であることも。
 ベレスの行動は決まっていた。修道院に向かうベレスを村人は正気を疑うかのように制止するが、構わずベレスは歩き出す。約束したのだ。生徒達と、千年祭での再会を。
 林を抜け、辿り着いたガルグ=マク大修道院は見る影もないほどに荒廃し切っていた。建物のあちらこちらが崩落しており、その戦いの凄まじさが窺える。知らぬ間に五年が経過していたなどとは俄かに信じ難いことであったが、この変貌ぶりを見てしまえば納得せざるを得ない。そして、これだけの月日が流れても、誰の手も入らぬほど人が寄り付かない地になってしまったのだと理解した。
 先程会った村人の話では、帝国の部隊が大修道院へ調査に向かい、全滅したのだという。つまるところ、それは帝国兵と戦う理由のある者がそこにいるということだ。ベレスは知った人物がそこにいると確信していた。
 薄暗く見通しの悪い廃墟のような道を行く。景観が変わっても、ベレスの体は修道院の構造を覚えていた。どちらに向かって歩けばいいのかは考えずとも分かる。
 ベレスはガルグ=マクを初めて訪れた時のことを思い出していた。あの頃は入れる場所もかなり限られていたが、いつの間にか大修道院のほぼ全域を訪れられるようになっていたことに気付く。それは、ベレスが得た信用の表れであった。
 あの頃とは、何もかもが変わってしまった。あちらこちらに堆く積まれた瓦礫と、消え失せてしまった和やかな活気。このような状況に至ってしまうなど、誰が想像できようものか。或いは、彼女であればそれを予見できたのかもしれないと、ベレスはかつてこの場所で言葉を交わした少女を思い出す。真相は闇の中であり、彼女の手で幕を上げられた戦乱の結果だけがそこにあった。
 エーデルガルトを殺し、その首を死した者達に捧ぐのだと、歌うように言ったディミトリの姿が頭に浮かぶ。彼は、一体どうしているだろうか。命に代えても成し遂げるのだと復讐を誓った彼は、決して自分を顧みることをしないのだろう。
 だからこそベレスは恐ろしかった。彼の中に自身の未来は存在しない。目的のためならば、進んでその命を捨てるのだろう。死を前にした時、人は足が竦んでしまうものだが、彼は容易くそれを飛び越える。それができる危うさがある。そうして永遠にベレスの手の届かない場所に行ってしまうのだ。
 どうか、生きていて。祈るような気持ちで歩を進める。
 修道院の奥へと進んでいく中、ベレスは微かな血の臭いを嗅いだ気がした。それは足を進めるごとに濃くなっていき、その先にあったのは石塊のように転がる帝国兵の姿。彼らは全て等しく息絶えており、死体の様子から察するに死してからまだそう時間は経っていないように思える。
 ──誰かがいる。
 この骸を作り上げた者がいる。それが誰なのかまでは分からないが、複数人の兵士を相手取って戦えるような集団か、もしくはそれに匹敵する強大な力を持った個である。一所に固まっている亡骸からそう推察し、ベレスは注意を払いつつ進んでいく。床を叩く自身の足音が、静まり返った回廊に響き渡った。そうすることで、敵意がないことを伝えるのだ。
 階段を上ると、開け放たれた扉から差し込む朝日が見えた。その眩さに目を奪われて──何者かの姿があることに気付く。
 光が届かぬ暗がりの奥で、ただ独り。幼い子供が膝を抱えて泣くように、槍を抱えてじっと蹲っている小さな姿。ゆっくりと持ち上げられた容貌を、昇る日が天窓から照らし出す。所々を返り血で濡らし、記憶にある姿からはすっかりと様変わりしているが、その人物を見紛う訳がない。
 ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。かつてベレスが教師として教え導き、心を交わした大切な生徒が、五年の歳月を経てそこにいた。
 生きていた。彼はまだ生きて、そこにいた。そのことがベレスの心を熱く震わせ、無上の安堵を齎した。一歩ずつ踏み出し、隔たる距離を縮めていく。二人の間に横たわるそれはごく短いものであるのに、その一歩がひどく遠い。気の遠くなるような一瞬を経て、ベレスはディミトリの前に立つ。
 そうして差し出した手が、掴まれることはなかった。逸らされた視線が示すのは、明確な拒絶である。そこでベレスは思い知る。自分は何という思い上がりをしていたのだろうと。愕然とした。この手が掴まれる・・・・・・・・などと、どうして思えたのだろう。彼がベレスを信じられる要素など、何一つないというのに。『傍にいる』という約束を、ベレスは守ることができなかったのだから。