サンプル 血反吐を吐くように「好き」と言え。

 ずっと、一緒だと思っていたのだ。
 温かく大きな手と、いつも後ろから見守ってくれていた優しい目。その安心感に包まれて、ベレスは今までぬくぬくと生きていた。これからの自分はどうしているかは分からないが、変わらず父と共にあるのだろうと、そう思っていたのだ。
 強くて大きかった父は、冷たく小さい石の下に収まってしまった。あの逞しい巨躯で豪放磊落に笑っていた父が、ここに埋まっているなどとは信じ難いのだが、間違いなく埋めたのだ。皆が啜り泣く様をベレスはぼんやりと見ていたのだから。目の前の墓石には父の名が刻まれている。それは父が死んだのだという証左であるのに、まるで現実感がない。
 思うことは沢山あった。だが、それらは胸に開いた大きな空洞から全て流れ落ちてしまうのだ。際限なく思考は溢れてくるのに、考えたそばから何もかも全て流れて消えていく。それは底を無くした杯のようであった。
「先生」
 時を遡る力を以てしても、その結末を変えることはできなかった。守ることができなかった。どうすれば、父を救えたのだろう。考えても詮無いことであるのに、思いは止まらない。どうして、父は死なねばならなかったのだろう。
「先生」
 一緒にいてやれそうにないという声が、残響のようにいつまでも聞こえ続けている。力なく下ろされた瞼と、掠れた弱い声音。それはあまりにも突然な喪失で、理解が追い付かない。起きた出来事は分かっているのだが、受け入れられない。
「先生」
 ──私はこれから、どうしたらいい?
 ずっとジェラルトという標がベレスを導き続けてくれていた。隣にはずっと父がいた。だからこそ、ベレスは知らぬ場所で教師として働くことになってもうまくやってこられたのだ。しかし、これからの人生にジェラルトの姿はない。
 これから、どうすればいい? どう生きればいい?
 父のいない世界で、一体どこに向かって歩めばいいのだろう。分からない。何一つ分からない。考えども思考は取り留めなく零れ落ちていく。虚ろに大きく口を開けた洞が、ただそこに鎮座し存在を主張している。そうして、あらゆる感情を飲み込んで無に帰していくのだ。

「──行くな」

 あたたかい、と思った。
 背中を覆う硬い体の感触。そこから伝わる確かな体温。ざあざあと雨粒が地面を叩く音を遅れて聞く。曇天から降り注ぐ冷たい雨は、ベレスの体温をすっかりと奪っていた。
 強く抱きすくめる腕が、柔らかな肉体を縛り閉じ込める。ベレスの体の輪郭をはっきりと露わにする。息苦しさを感じながらも、ベレスは自身の肉体の在処を知る。私の体はここにある。私は確かに存在しているのだと、実感する。
 肩口に埋められた金の髪が、水を吸って貼り付く様子が視界の端に映っていた。この色を、知っている。同じ色であるはずなのに、幾つもの姿を見せるその美しさを知っている。
「どこにも、行くな」
 先生、と耳元で囁く声音はまるで縋り付くかのようであった。雨音に消えてしまいそうなその声が、ベレスの意識を揺り起こす。ああ私は、守ると決めたばかりではないか。彼らが無事この学び舎を卒業できるように、そうして輝かしい未来を歩めるように。導き、見守るのだと決意したではないか。
 それこそが一番大切なことだろうと自身を叱咤する。体にのしかかる他者の重みが、ベレスを繋ぎ止める。宙を漂っていた意思を呼び戻す。地に足を着ける重石となる。
「大丈夫、私はどこにも行かない」
 この強くも弱々しい手を、放っておくことができようものか。その思いは鮮烈な衝動となって全身を駆け巡った。そこにある温もりが、ベレスの心を溶かす。この身にはまだやらねばならぬことがあると、消えそうになっていた火を燃え上がらせる。それはベレスを突き動かす炉となるのだ。
「約束する。私は君の傍にいる」
 彼を一人にしたくないと思った。瞬間、ベレスはその言葉を紡いでいた。それは思考する間もなく放たれた、一方的な約束である。どうしてそんなことを告げたのか自分でも分からないのだが、後悔や動揺はなかった。
 言葉なく、体を抱き締める力だけが強くなる。身動き一つ取れないこの状況に、ベレスは不思議と安堵を抱いていた。それは、彼と踊りの練習をした時の感覚とよく似ている。他者に体を預けるという行為は、恐ろしくも蕩けるような恍惚を齎していく。纏っているものを脱ぎ捨て、柔らかな部分を剥き出しにした心が強く震える。どうしようもなく膨れた感情が露になる。丸い大きな目から、ぼろりと涙が零れ落ちた。
「うう、っ、ううう……!」
 暗い空は変わらずさめざめと泣き続けている。ベレスが零した熱い雫は、溢れたそばから冷たい雨粒に混じって流れていく。幾条もの軌跡が溶けて消えていくが、一度表出した思いは止まることなく溢れ続け、より強さを増していく。
 ベレスは初めて声を上げて泣いた。やり場のない激情が血潮の如く駆け巡り、それは涙となり、嗚咽となり、その体を震わせた。喪失の痛みとはこんなにも大きなものだったのだと、ようやく自身が受けた傷を知る。
 慟哭し、震えるその体を、男はいつまでも抱いていた。
 けほり、と乾いた咳が出た。喉がひりひりと引き攣れていて、瞼がひどく重い。そういえば、とベレスは自身の状況に思い至る。星辰の節の寒空の下、雨に打たれながら声を上げて泣いていたのだ。こうなってしまうのも道理だろう。
 背に触れる柔らかな感触から察するに、自分は寝台に横たわっているらしい。墓地からの記憶が残っていないのは、泣き疲れて寝てしまったからなのか、それとも意識が曖昧であったのかは分かりかねた。
 ひとしきり泣いて、思考はようやく落ち着いてきた。しかし、頭は起きたものの体は追い付いていないらしく、貪欲に休息を欲している。指一つ動かすことができず、目も開きそうにない。心身共に疲れ果てていた。今はただ眠ろうと微睡みの中に身を委ねていると、口の中に侵入する何かを感じた。
 ──甘い。
 ぬるり、と口内を蠢くものは誰かの指のようだった。その感触に驚き、抵抗を感じたのも束の間。ベレスは舌の上に広がる甘味を感じる。ああ、甘い、美味しい。舌が無意識にそれを追う。独特の癖があるその味はどうやら蜂蜜らしい。もっと味わっていたいのに、指はベレスの中から去ってしまう。どうして、と寂しく恋しい気持ちが湧き上がる。
 あっ、と思った時にはそれは触れていた。濃厚な蜂蜜の香りが、口の中を再び満たしていく。こくりと喉を上下させて嚥下すれば、喉奥まで蜜が滑らかに覆い潤していくのが分かる。その様子を見届けると、触れていた感触は離れていった。
 物言わず、ただじっとベレスの容貌を見下ろす気配がある。暫くするとそれは遠ざかり、扉が開く音と共に消えていく。
 それは、親が眠りに落ちる子へ贈るような口付けであった。
 やって来る睡魔に身を任せ、うとりうとりとベレスは眠りの中へと沈んでいく。目を覚ました時、自室には誰の姿もない。ただ、口の中に甘い蜂蜜の香だけが残っていた。
 その感触は夢であったのか現実であったのか、それを確かめる機会はついぞ来ることがなかった。あれから言葉を交わした彼はいつも通りの素振りであったし、何よりも、これからやって来る激動の波が全てを浚っていったからである。
 それはまるで、坂を転がる石のように。
 外郭都市で耳にしたのは、ルミール村を焼き、父を殺した者達と、『ダスカーの悲劇』を引き起こした者達が繋がっているという事実であった。それはディミトリの宿願であり、彼の心の根幹、最も深い部分にあるものである。
 故に、ようやく至ったその事実は彼の心を激しく掻き乱した。だが、ディミトリの反応には些か気になる部分がある。まるで、掴んだものが信じられずに何度も手を開くような、信じられない──信じたくないという思いが感じられるような気がするのだ。
 まるでそうしなければならないとでもいうように、ベレスの力になりたいのだと繰り返す様子は、何かに追い詰められているかのようでひどく不安な気持ちになる。
 これが何かの前触れでなければいい。祈るような思いで封じられた森へと向かったベレスは、神祖たる少女と交わり一つになった。その強大な力を以て父の仇を打ち破り、聖者の再来として故事に倣い啓示を受けることになったのである。
 この頃になるとディミトリの不眠は一層深刻なものになっていた。日頃彼を苛む頭痛はより頻度を増し、ドゥドゥーの諫言は今までにないほどに強いものとなった。ずっと隣で主を見続けてきたドゥドゥーにとって、それは看過することのできないほどの状況であったのだろう。しかし、ドゥドゥーの心配が受け入れられることはなく、決して晴れることのない懸念を抱えたままベレス達は啓示の日を迎える。
 そうして、宿敵として立ち塞がっていた炎帝の仮面の下から現れたのは、よく知った可憐な少女の顔。間違いなく、エーデルガルト=フォン=フレスベルグその人であった。
 高らかな哄笑と共に、ベレスは糸が切れる音を聞いた。
 それは、ずっと張り詰め続けてどうにか均衡を保ってきた彼の精神が、ぷっつりと途切れてしまった音であった。美しい宝物であった記憶が、輝かしい思い出が、全て反転し憎悪へと向かう。その熱量は計り知ることができないほどに激しく、ディミトリの心を焼くのだ。
 いけない、と本能が警鐘を鳴らす。きっと、この先に進んでしまえば、彼は『それ』だけになってしまう。だが、ベレスの手は届くことなく空を切った。落ちた仮面を踏み砕き、兵を切り伏せ一足飛びに駆け抜ける。投擲した槍の穂先は寸分違わずエーデルガルトの頬を掠めた。この選択を、五年以上に亘ってディミトリは後悔し続けることになる。畜生は言葉を持たないのだから、一思いに殺しておくべきだったと。
 対話は敵わず、エーデルガルトは腹心を伴い姿を消した。仕留められなかったと俯いた彼は、その胸に瞋恚の炎を宿しながら顔を上げる。そうして唸り、咆哮するように宣言した。
 エーデルガルトを、殺すのだと。
 届かない。この手は彼に届かない。絶望にも似た思いがベレスの胸を締め上げる。額縁の向こうに立つディミトリの姿が、黒く塗り潰されていく。その様を、呆然と見つめていた。
 聖墓襲撃から間もなく、アドラステア皇帝エーデルガルトはセイロス聖教会へ宣戦し、ガルグ=マクは戦火に包まれることとなる。圧倒的な兵力を以てアドラステアは大修道院を侵攻し、これを陥落せしめた。戦乱の中でベレスは崩落する谷底へと転落し、その意識は完全に途絶えることになる。
 運命の大河は容赦なくベレスを飲み込み、遠くへと攫っていく。その果てに何があるか分からぬまま、ただ遠くへと。