サンプル 血反吐を吐くように「好き」と言え。

 前節の出来事があったからこそなのか、今節に迫った舞踏会を前に修道院は俄かに浮き足立っている。こんな時に舞踏会なんてと息を吐く者も当然いるが、ベレスとしては楽しめる機会は思い切り楽しんでもらいたいと考えている。
 生徒達は毎節課題に取り組み、成果を挙げてきた。中には気が沈むような内容も多く、青獅子の学級ルーヴェンクラッセともなれば特にだ。だからこそ、こういった機会を大切にしたいと願うのである。今節に懸けるベレスの思いは並々ならぬものであった。
「……踊りを教えて欲しい?」
 ベレスの頼みに、一世を風靡した歌姫は快く頷いた。舞踏会の前に、白鷺杯なる踊りの美しさを競う大会があるらしい。各学級の代表から一番を決めるのだ。しかし、剣を握って生きてきたベレスは、こういった貴族の嗜みとは無縁に生きてきた。踊り方など分かるはずもない。故に、ベレスはその道の者であるマヌエラに教えを乞うことにしたのである。
 了承してくれてよかったとベレスはほっと胸を撫で下ろす。彼女に断られる可能性を考えなかった訳ではない。ベレスに踊りを教えるということは、他の学級を支援するということである。本来なら受ける必要のないその依頼を、あえて引き受けてくれた彼女の心遣いが嬉しかった。
「言っておくけれど、あたくし手を抜くつもりは一切ないからそのつもりでね?」
 宣言に、ベレスは深く頷いた。大広間の空き部屋を借りて手解きを受けるが、やはり歌姫と認められた女性である。その巧みな身のこなしは学ぶべきものがある。戦術に繋げられる部分があるのではないかと考えてしまうのは、最早傭兵の癖のようなものであった。
「紳士は淑女を導き、淑女は身を委ねる。足を縺れさせてしまわないよう、互いの動きを意識しながら動くの」
 ベレスは熱心にその動きを観察する。こうして行動の先を読むことは得意であった。相手の動きを見極め、この先どう動こうとしているのかを考えるのだ。それは、傭兵時代に培ってきた用兵の経験と、天性の勘によるものである。
 戦場で獲物を構え踏み込む動きは、優雅に足を差し出す動きへ。相手がどのように攻撃を繰り出すのかという予測は、次に踏み出す足および進路を把握し同調する配慮に繋がる。自分が持つ知識の集積が別の技術へと発展していく様はとても興味深く、ベレスは次々と動きを習得していく。その上達ぶりはマヌエラも目を瞠るほどであった。まさかこんなに早く踊れるようになっちゃうなんて、と歌姫は嘆息と共に零す。
 指導への報酬は、男性から袖にされて傷心した彼女の愚痴に付き合うことに決定した。マヌエラからのお墨付きを得て、ベレスは意気揚々と修道院に繰り出す。目的は、そう。白鷺杯に出場する生徒の選抜である。
 学級の面々の様子を窺えば、ルミール村での出来事はやはり堪えたらしい。消沈しつつも、舞踏会を機として前を向く姿勢をどうにか保とうとしている様子が見受けられた。
 白鷺杯について、踊りは好きだと笑う者、苦手だと眉を顰める者と反応は様々である。さて誰を選抜しようかと考えながら、ベレスは最後の一人を訪った。声をかけると、ディミトリが振り向く。瞬間、ぞくりと肌が粟立った。
 燃え上がる炎が、遙か高い蒼穹を焼いていた。許せることではないとルミール村の惨劇を引き起こした者への怒りを露わにする彼に、ベレスは恐怖を抱く。ディミトリが怖いのではない。ルミール村を焼いた者達を決して許すことはできないし、理不尽に奪う行為への怒りも分かる。ただ、彼が『それ』だけになってしまうことをベレスは怖いと思ったのだ。
「白鷺杯には君に出てもらうことにしたよ」
 その宣言はするりと滑り出た。自分を選ばないよう念を押していたにも拘らず告げられた内容に、ディミトリは渋面を浮かべ恨み言を零す。踊りに対して随分と苦手意識を持っているようであるので、申し訳ないことをしたと思う反面、ようやく彼の表情が崩れたことにほっとする。
 手段は何でも良かった。ディミトリの目先から意識を逸らし、思考を割くことができるのなら何でも。そのために白鷺杯が有効であると踏んだだけである。目論見通り、彼は来たる白鷺杯に向けて頭を悩ませていた。
 戦うからには勝たねばという目標を掲げ、ベレスは練習の約束を取り付ける。この選択が正しいのかは分からないが、彼の心を占めるものが怒りや憎しみだけでなくなったことにベレスは安堵の息を吐くのだった。
 それからベレスは時間を見つけてはディミトリと練習を重ねた。流石は王家の嫡子と言うべきか、彼の動きには一切の無駄がなく実に流麗なものであった。正直なところ、ベレスの指導など必要ないのではと思うほどである。
 ディミトリが白鷺杯への出場を拒んでいたのは、踊りの技術に自信がないからなのだとばかり思っていた。だからこそベレスはとことん練習に付き合うつもりでいたのだが、彼の技術は洗練されており、文句の付けようなどあろうはずもない。ならば何故彼はああも嫌がっていたのだろうという疑問が残るが、無理を言って代表になってもらったというのに、それを聞くのはあまりにも不躾に思えて憚られた。そうして日々を過ごすうちに、白鷺杯は目前まで迫っていく。
 ベレスは灯りを手に、すっかりと暗くなった修道院を歩いていた。教員達の日課である夜間の見回りのためだ。星辰の節ともなると冬の息吹は一層強く、出歩く生徒はほぼいない。修道院内を隈なく巡りながら、ベレスは白い息を吐き出した。
 前節の出来事に続き礼拝堂への侵入騒ぎとあって、今節の修道院の警備は非常に厳しいものとなっていた。随所で衛兵が目を鋭く光らせており、外部からのガルグ=マクへの侵入は困難を極めると言えるだろう。
 各所を見て回るも不審な影は見られない。今夜も特に異常なく巡回が終わりそうだ。後は訓練場を確認し、自室に戻るだけである。気配を殺し、ベレスは訓練場の扉を開ける。瞬間、煌々と輝く光が目を焼いた。
 眩みそうになる目を眇めながらベレスは剣の柄に手をかけ、すぐにそれを離した。そこに立っているのが見知った人物であると理解したからである。
「ああ、先生か」
 そう声をかけてきたのは、やはりと言うべきかディミトリであった。彼はこうして一人夜を過ごしていることが多い。訓練場で出会う可能性は当然あったのだが、ぴんと張った緊張の糸は思いの外大きく震えてしまったらしい。何事もなく見回りが完了したことに、ベレスは遅れて安堵した。
「君は今日も訓練を?」
 問うと、ディミトリは僅かに眉を下げた。
「いや、どうにも寝付けなくて……。明日は白鷺杯だし、練習でもしておこうと思ってな」
 彼の技術は確かなものであり、練習を経てより磨かれたと感じている。万全を期して練習を積むのなら、当然教師として付き合わない訳がない。手にしていた灯りを脇に置くと、ベレスはディミトリの前へと進み出た。
「苦手なのはどの部分?」
「そもそも、他人と踊るという感覚が……」
 俺の力は知ってるだろとディミトリが自嘲する。武器を使う際、力加減を誤ってしまうことを気にしているのだろうか。だが、武具や道具を壊しても、彼が誰かを傷付けたという話は聞いたことがない。器具を使って行う内容に集中するあまり、つい力が籠ってしまうことが要因なのではないかと考えているが、彼の懸念を払拭する方法は実に単純であった。
「じゃあ、私と踊ってみよう」
 傭兵稼業をこなし続けてきたこの身なら、姫君よりも幾分か頑丈であるので多少力が籠ろうとも問題ない。面食らった様子でディミトリはベレスを見つめていたが、不思議そうに小首を傾げる姿に観念したように小さく息を吐いた。
「……では、相手を頼む」
 頷き、ベレスは差し出された手を取る。重ねた部分から体温が溶け合っていき、その境目を曖昧にしていく。繋いで初めてディミトリの手は随分と大きかったのだと気付かされ、新たな発見はベレスの胸にぬくぬくとした高揚を齎した。
 踊りに興じるのは初めてのことであり、誘われるがままに体を預ければ、未知の体験に自然と口元が綻んでいく。
 ベレスは間近にある貌を見上げた。真摯な瞳が真っ直ぐに見つめており、固く引き結ばれた唇は緊張の表れなのかもしれないと感じる。壁面に幾つも掛けられた燭台の炎が、静かにその頬を焦がして長く濃い睫の影を落としていた。
 小さく息を吸い込み、ベレスはもう何度となく聴いた課題曲を口遊む。透明でありながら軽やかな旋律が、二人きりの訓練場の中で密やかに響き渡る。音の始まりに合わせて、するりと淀みなく踏み出される足に従った。
 ──ららら、ららら。
 ぴたりと体を重ねながら、川面に落ちた花が流れゆくように歌声に合わせてゆらゆらと揺れる。触れた肩と回される腕に、鍛えられた肢体の逞しさを感じる。絡み合う視線には他のものなど何一つ映らず、互いの姿だけが見えていた。
 この瞬間、ベレスの身はただ一人に委ねられていた。ディミトリが手を引けば、ベレスの体はいとも簡単に傾いでしまうのだろう。体の自由を他者に預けているという儘ならない状況への本能的な恐れと、他者に全てを委ね従うというどこか被虐的な安堵と充足。相反する思いはくるりくるりと混ざり合い、ゆらりゆらりと揺れている。不安定でありながらもどこか甘美なその情動に、ベレスはすっかりと酩酊していた。
 ──ららら、ららら。
 吐息すらも飲み込んで、互いの呼吸がぴたりと重なる。混じり、溶け合うように互いの足取りが一つになる。それは決して不快なものではなく、むしろ心地良いとすら感じられた。ベレスは自身の歌声をどこか遠くから聞いている。それは、肉体から魂が解放されるかのような不思議な感覚であった。
 夢の淵を漂い、揺蕩うような時間は、ベレスが最後の音に続く吐息を出し切った途端に跡形もなく溶け消えてしまった。どこかもどかしく、蜜のように肌を撫でるこの瞬間が名残惜しくて、ベレスは陶然とディミトリを見上げていた。じり、と炎が蝋燭の芯を焦がす音がいやに大きく耳朶を擽る。
「完璧だったよ。これで明日もばっちりだね」
 ディミトリの指導に付き合うつもりが、自分の方がすっかりと楽しんでしまっていたことに気付いて面映くベレスは笑う。踊りを終えて離れていく互いの手と温もり。恋しいと、肌が鋭敏に気配を探っていた。自分の体は一体どうしてしまったのだろう。起きた変化に内心戸惑う。
 ディミトリは自身の手をじっと見つめている。当初の目的を忘れてしまいそうになるが、これで彼も自信を持つことができただろうか。その手は何者も傷付けないのだと。だから、恐れることは何もないのだということを。
「まだ練習を続ける?」
 随分と夜が更けているが、足りない部分があるのならとことん詰めようと問いかければ、ディミトリは緩く首を振った。
「いや、大丈夫だ。もう少ししたら俺も戻る」
 練習を続けるのなら一緒に残ろうと思ったが、それには及ばないと制される。根を詰め過ぎると明日に響いてしまうのではと心配になるが、どうやらそれは杞憂らしいと綻ぶ彼の口元を見て察する。ひとまず目的は達成できたようだ。
「この感触を、覚えておきたくて」
 ディミトリは自身の掌に視線を落としながら噛み締めるように呟く。今夜の出来事で彼に何か得るものがあったのなら、それはとても嬉しいことだと思った。あまり遅くならないようにと注意をしてからベレスは灯りを持ち上げる。硝子の中で燃える蝋燭は、すっかりと短くなっていた。
 訓練場の重厚な扉を開くと、外は暗闇と耳鳴りがしそうなほどの静寂が広がっている。その中へと足を踏み入れる最中、ベレスは『先生』と自身を呼ぶ声を聞いた。振り返る。訓練場に佇むディミトリが、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「ありがとう」
 短く告げられた感謝の言葉に笑みを浮かべながら頷くと、微かな軋みを上げながら扉が閉まり、二人を別つ。真冬の空の下、ベレスは自室に向けて歩き出した。吐息は暗い景色の中で真白くその存在を主張し、底冷えするような寒気が纏わり付いている。だが、体の芯はほんのりと温かかった。
 この温もりを忘れずにいよう、そう思った。
 白鷺杯を越えると、修道院の雰囲気はより浮ついたものに変わっていく。落ち着きなくそわそわとした空気が産毛を撫でていく感覚は、どうにもむず痒いものであった。
 誰と踊ろうかという密談がそこかしこで行われ、細い声も数が増えれば通るもの。風に揺れる木々のざわめきのような声音達を、ベレスは微笑ましい気持ちで聞いていた。
 ガルグ=マクを包む高揚はその実皆同じものであったらしく、ぽつりと零された願いによって交わされたのは同窓会の約束。やがて来るその日、皆はどうなっているのだろう。そして自分はどうしているのだろう。千年祭で再び皆が集う時を想像して、口元は自然と弧を描いていた。
 周年祭への期待が齎す熱気はあっという間に夜を浚っていき、そうして次の夜を運んでくる。そう、舞踏会である。押し寄せてくるその波に、ベレスは溺れた。
「先生、踊ってください!」
 俺と、私と、僕と、と次から次へと怒涛の如くやってくる生徒達は、皆一様に同じ言葉を発する。それだけ自分が好ましく思われているということなのかもしれないが、その熱と勢いに圧倒され、完全に翻弄されていた。
 困惑に目を瞬かせながら、ベレスはくるりくるりと華麗に回る。引きも切らず申し込まれる踊りの相手、終わることなく続く旋律、変わり続ける顔ぶれ。くるくる、くるくる。回り続けて──ついにベレスは目を回したのだった。
 逃げ出した中庭で、出会ったのはディミトリである。白鷺杯の影響か、それとも彼が持つ魅力故か、ディミトリにも多くの誘いがあったのをベレスは知っている。しかし、踊りの相手の中にエーデルガルトの姿はなかったように思う。義姉たる彼女をよく気にかけている様子であったので、踊らないのかと問いかければ彼はその提案を辞した。
 そうして語られたのは、幼き日の思い出である。エーデルガルトと過ごした日々を語る彼はとても表情を輝かせていて、この上なく楽しいものであったのだということが伝わってくる。言葉にはしないが、ディミトリにとってその記憶は鍵をかけて大切にしまい込んだ宝物と言うべきものなのだろう。
 また仲良くすればいいというベレスの純粋な思いが齎す提案は、やはり受け入れられることはなかった。あの頃とは違うのだと首を振るディミトリに、彼が舞踏会を苦手に思っているのは華美で格式ばった空気もあるが、エーデルガルトと過ごした時間を思い出させるからなのかもしれないと感じる。
 彼らが幼き日のように笑い合える日々は、本当に実現し得ないものなのだろうか? 鷲獅子戦の後に耳にした、『級長達が仲良くあれば、フォドラは平和だ』という言を思い出す。彼らは国を背負って立つ者達であるが、その前に一人の人間であるのだ。彼らと交流を重ねてきたベレスは、立場の違いはあれど皆同じように笑う姿を見ている。彼らが手を取り合う未来は決して夢想ではないと感じているのだが、ディミトリのこの頑なな態度には何かまだ事情があるのだろうか。
 少し付き合ってくれと言うディミトリに応じて、連れられたは女神の塔である。あのまま会場に戻ってもまた目を回しそうだったので、その誘いはありがたいものだった。
 女神の塔に願いをかけると、必ず叶うのだという。誰も理不尽に奪われることのない世界であるようにという願いを零すディミトリの隣で、ベレスも同じく願いをかける。
 未来の約束はすべきではなかったと彼はごちるが、それはまるで彼自身の願いを持ってはいけないかのような懲罰的な思考であった。或いは、未来に自身がいないことを予見しているかのような、自分を勘定に含めない悲観。
 命を賭してでも遂げねばならないことがある。では、その先には何があるのだろう。ディミトリの言には自身の未来がまるでない。そのことが、どうしても気にかかるのだ。
 近付いたと思えば、彼は遥か遠くに立っている。本当はずっと距離は開いたままで、近付くことすらできていないのかもしれない。触れ得ぬ額縁の向こう側の世界に、彼がいる。
 冗談だと濁された『お前とずっと一緒にいられるように』という言葉。それは考えたこともなかった内容で、もしもそれが彼自身の願いであったなら──。ベレスは瞼を伏せた。