サンプル 血反吐を吐くように「好き」と言え。

「約束する。私は君の傍にいる」
ディミトリに触れたくてひたすら手を伸ばし続ける先生と、先生の手を信じられないディミトリが少しずつ距離を縮めていくもだもだとした話
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 清々しく涼やかな声音。抜けるような蒼穹の瞳。その上に燦然と輝く太陽のような金の髪が煌めいている。その鮮烈な色彩の対比は、晴れ渡る空を想起させた。
 ああでも何故、その澄み切った青の中に翳りを感じてしまうのだろう。広大な草原の中でただ一人佇み、空を見上げているかのような、この世界には誰もいないという孤独が胸を締め付けて苦しくさせる。
 知りたいと思ってしまった。その青空に差す陰を。寂しさを覚えてしまう理由を。その気持ちを抱かせる彼という人間を。そう願ってしまった瞬間、捕らわれてしまったのだ。ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドという男に。その美しくも底が知れない青い瞳に。
 人が女神の差し出した手を握り返す術を持たないように、伸ばした手が空に届く道理などありはしない。それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。この感情が一体何であるのかは、まだ知らずにいる。



 ガルグ=マクの空を見上げ、ベレスは小さく息を吐いた。
 突然の邂逅を経て、父がセイロス騎士団の団長であったことを知った。それからは目まぐるしく変化していく状況に戸惑ってばかりである。王国に発つはずだった傭兵団は、ジェラルトの復帰に伴いセイロス聖教会の手足となることを余儀なくされ、何故かこの身も教師という立場に取り立てられて、執ったことのない教鞭を揮うことになってしまった。
 今まで一所に長く留まった経験は乏しく、その中でも他者と交流をするということはあまりしてこなかった。雇い主との折衝はジェラルトが行い、傭兵団でも浮いた存在であるベレスに特別親しいと言える存在はいない。だからこそ、こうして不特定多数の人間と関わりを持つことは新鮮であった。
 士官学校に通う生徒達や修道院の人々は、突如として現れた流浪の傭兵に興味津々といった様子で話しかけてくる。歓迎してもらえることはありがたいが、新しい環境に順応するにはまだ時間がかかりそうだ。
 外から見たガルグ=マク大修道院はまるで城塞のように見えた。それ故に閉鎖的で不自由な場所なのだろうかと考えていたが、実際は穏やかな時間が流れ、随分と開かれた場所であるように思う。ジェラルトからレアに気を付けるよう告げられたことが気掛かりではあるが、理由は分かっていない。
 ひとまず与えられた任務を果たそうと修道院内を歩く。ここに来て間もない立場であるため、ベレスには信用の担保がない。与えられた権限は少なく行ける場所も限られている。いつかはこの修道院全ての施設に足を踏み入れることになるのだろうか。そもそもこの地にいつまで留まるのか。先のことは何一つ分からないが、ベレスがやることは今までと変わらない。依頼の完遂、ただそれだけである。
 二人の級長とはすんなり会うことができたのだが、残る一人が見当たらない。一通り教室を覗いてみたが、探していた姿はなかった。一体どこにいるのだろうかと首を傾げながら教室を出ると、吹き抜ける風が緩やかに髪を撫でる。通り過ぎていく春の息吹を見送る最中、ベレスの瞳に映ったのは鮮やかな青と、眩いばかりの金色。
 穏やかに降り注ぐ陽光の中、彼は一人佇んでいた。外套を揺らめかせながら風に髪を遊ばせる様子は、まるで一枚の絵画のようであった。暫しその光景に見入っていたが、やがてベレスは自身が抱いた思いの正体に気が付く。
 確かにその姿は美しく、様になるものであっただろう。ただ、それが現実のものだと思えなかったのは、彼がどこか遠い存在に感じたからに他ならなかった。身分差という意味ではなく、まるで彼一人が切り取られ、別の場所にいるかのような不可思議な感覚。ざわり、と不意に胸が騒いだ。
「ディミトリ」
 ベレスはその名を呼んでいた。勿論彼と会うことが目的であったのだが、そうしなければならないという焦燥が彼女に口を開かせた。呼ばれたディミトリがこちらを向く。彼が確かにそこにいるのだという安堵に、ベレスは我知らず詰めていた息を吐き出した。
 級長だけはベレスがこの士官学校の教師となることを知っている。ディミトリは非礼を詫びると、口調を変えて恭しく話し始めた。気になる生徒はいたかという問いかけに、ベレスは迷うことなくその名を挙げる。
 まさか自分の名前が出てくるとは思っていなかったのか、ディミトリはやや瞠ったその目を躊躇いがちに伏せた。そうして、愉快な身の上話もできない、そういう男なのだと告げる彼から感じたのは、手が届かない遠さである。
 額縁だ。目に見えない境界線が、額縁のように隔たっているのだ。外から眺めるだけで決して触れることのできない向こう側、絵画の世界に彼がいる。
 額縁の内側で、ディミトリは自身が取り纏める学級の面々について語る。彼らの人となりやその美点、そして自らが思う部分を話す表情は活き活きとしており、温かい親しみの情を感じる。自身については何一つ話すことがなかった対比を不思議に思いながら、ベレスはその話に耳を傾けていた。
 レアの元に戻ると、話題に上るのは担当学級の割り振りについてだ。受け持つ学級を選ぶよう伝えられると、自分が本当に教師になるのだという実感がようやく湧いてくる。そして同時に浮かんだのはディミトリの姿である。
 ベレスの腹は決まっていた。知りたいと思ったのだ。額縁の向こうに佇む彼のことを。この胸のざわめきの正体を。とても純粋で、真っ直ぐな好奇心が齎す執着である。
 青獅子の学級ルーヴェンクラッセの担任を希望し、それはすんなりと叶えられた。騒がしくも楽しい挨拶の時間を経て、ベレスは早速彼らの要望に応えて剣を合わせる。槍を得意とする生徒が多いのは、恐らく彼らの生まれによる部分が大きいのだろう。
 ファーガスとは騎士道の国である。それは、彼らが馬上にて槍を振るう者──即ち、軍を率いて戦う将たる者であることを意味していた。そういった部分では、大貴族の子息でありながら剣を用いるフェリクスは異例であるとも言える。
 きっと彼らにも抱えているものがあり、生き方に影響していたりするのかもしれない。演舞のように洗練された動きから繰り出される刺突を受け流し、ベレスはその間隙に剣戟を捻じ込む。剣術には基本となる型や動きが存在することは知っているが、戦場においての剣とは実に単純だ。相手の命に届きさえすれば良い。その事実だけが全てなのだ。
 行儀の良い剣しか知らぬ生徒達はベレスの型破りな剣技に圧倒され続けている。彼らがこの先どのようにして自分の戦い方を見つけていくのか、願わくはそれが活かされることがないようにと祈るような気持ちで、ベレスは刃引きされた剣で彼らの命を奪い続けるのだった。
 ぐずり、と肉を断つ。赤い血が噴き出す。そうして断末魔を上げて死んでいくのは生きた人間である。剣に付いた血を払い、振り返ると生徒達が青褪めた顔で見つめていた。
 学級対抗戦での勝利により与えられたのは、大司教からの賛辞と盗賊掃討の課題、つまるところ人殺しの権利である。話を聞く限り他の学級の課題は随分と穏便なものらしく、対抗戦での活躍を認められたのか、それとも傭兵であるベレスの腕を買われたのかは定かでない。
 地形の利を活かし、うまく敵を誘き出すことができればベレス一人でも勝機はある。しかし、生徒達はそれを許さないだろう。待機しているセイロス騎士団の目もある。息を吐くと、ベレスは生徒達を指揮し、殺しを命じた。傭兵としての経験を活かし、集団心理を熟知した、隙のない用兵であった。
 こんなにも早く殺しの機会が訪れるとは思ってもみなかったが、彼らが籍を置いているのは士官学校という場である。ならば、遅かれ早かれ国を担う者として、相対する者を手にかけることになったのだろうか。
 大修道院に対する『フォドラの縮図』という言葉を思い出す。各々の出身によって分けられた学級。彼らが戦うのならば、その相手は──考えて、やめた。その思考に意味はなく、考えたところで起きてもいない事象に対する手立てなどない。
 もしもその懸念する事態が起きてしまったら、自分はどうするのだろうかと考える。きっと、変わらずジェラルトと行動を共にしているのだろう。厄介事を避けるように、ひっそりと修道院を去っているのかもしれない。
 先のことを考えるより、今は生徒達を教え導くのが先決だ。望まぬ争いに巻き込まれたとしても、生き抜くことができるように。未来を切り開くことができるように。後ろを付き従う彼らを振り返る。すると、冷ややかな色を湛えた双眸がじっとこちらを見つめており、ベレスの胸は不穏にざわめいた。
「殿下」
 彼を呼ぶ声に、その目元が和らぐ。起きた変化に先程見たものは間違いではなかったのだと実感する。
 ──警戒されている?
 特に不審な動きをした覚えはないし、ディミトリに対して何かをした記憶もない。曖昧な身分を訝られているのであれば証明する手段はないが、ジェラルトとの親子関係などは特別疑われていないように思える。
 考えども理由は分からないが、快く思われていないのであれば悲しいものがある。できれば生徒達とは良好な関係を築いていきたいと思っており、ディミトリには以前より不思議と心惹かれるものを感じ続けているのだ。この距離は縮まるのだろうか。胸を刺すものを感じながら、ベレスは前を向き修道院に帰還する歩を進めた。
 実績を積み重ねていくごとに、課題はより実戦に即したものへと変わっていく。与えられた内容はロナート卿率いる反乱軍の鎮圧であったが、自国の民を手にかけたという事実は重くのしかかり、生徒達から表情を奪っていた。
 彼らは騎士でも兵士でもなく、殺すべき相手ではなかったとディミトリは憤ったが、民とはいえ彼らは武器を手に立ち上がった者である。戦う意思を見せている以上は看過できない存在であり、立ち向かって来るからには斬らねば進めない。
 仕方がないと割り切るにはあまりにも重過ぎる出来事であり、ことアッシュの憔悴は激しいものであった。肉親を斬るに等しいその行為は、消えぬ痛みとなって消沈する彼を苛み続けている。儘ならない現実がそこにあった。
「先程はすまなかった」
 大司教への報告を終え、大広間を辞したベレスを待っていたのはディミトリであった。ベレスに対し強く当たってしまったことを悔いているのだろう。ばつが悪そうに告げる翳った容貌を、落ちゆく西日が照らしていた。丁寧に切り揃えられた金髪が輝く様に、ベレスはかつて村邑で目にした豊穣たる稲穂の群れを想起する。その金色の海は生命の脈動に満ちてとても美しく、そのように感じたからこそ朧げな記憶に残ったのだろう。触れてみたい、という純粋な興味が首を擡げる。気持ちの赴くまま、ベレスはそっと手を伸ばした。
 ディミトリの表情が強張るが、避ける様子はない。ベレスの手は払われることなくその頭頂に触れた。歪みなく真っ直ぐに伸びる髪を、緩やかに撫でる。指先に伝わるやや硬い感触が心地良くて、ベレスは幾度も手のひらを滑らせた。
「先、生……?」
 青い双眸が揺れていた。そこでようやくベレスはディミトリの言葉に答えていないことに気付く。名残惜しさを覚えながらも手を離すと、指に絡んだ髪が滑り落ちてさらりと揺れた。長く伸びた影だけが、息を殺して二人を見守っている。
「君の思いは綺麗事かもしれない。けれど、私は決してそれを笑ったりはしない。そうあればいいと思うし、それに──君の本心に触れられて、少し、嬉しい」
 庇護すべき民の命を奪うこととなったディミトリもまた、晴れぬものを抱えている。犠牲を生まずとも分かり合える道はなかったのかと考え、そうできなかった現実に歯噛みする。遣る瀬無く向けられたその激情に、ディミトリという人物を垣間見た。そのことが、不謹慎ながらも嬉しかったのだ。
 やや高い位置にあるその瞳を見つめる。その美しい空色の内側にあるものを知りたいと思ってしまう。手を伸ばすことは許されるだろうか。いつか触れられる日が来るのだろうか。
「そうか……だが、やはりあれはお前にぶつけるべきものではなかった。それを謝っておきたかったんだ」
 深々と頭を下げてから、早くここから立ち去ろうとばかりに彼は背を向けた。赤く燃える夕陽が端正な横顔を焦がす。たった一瞬のその光景が、不思議と目に焼き付いて離れなかった。もう一度見たいと、ベレスの胸に小さな火が灯る。
「ディミトリ」
 炉によって齎された熱がベレスを動かす。彼の名を呼んだのは無意識のことで自身の行動に戸惑うが、その念は瞬く間に掻き消えた。ディミトリが振り返る。流れる金髪の向こう側から現れた眼が、再びベレスを捉えた。呼び止めたのだからこちらを向くのは当然であるというのに、そうしてくれたという事実が無性に心を震わせた。
「私はもっと君が知りたい。少しずつ教えてくれると嬉しい」
 告げたのはかねてより考えていたことであった。もっと知りたい、その内側に触れてみたいという透明な欲望である。淡く燻る思いは、こうして彼が抱えているものの一端に触れることでより明度を増し、ベレスの胸を焦がしていくのだ。
 ディミトリは口の端を上げて小さく笑ったように見えた。その確証が得られなかったのは、彼の目がどこか寂しげに見えたからであった。痛みを堪えているような、ともすれば泣き出してしまいそうな、昏いものが澄んだ青空を曇らせる。
 どうしてそんな顔をするのだろう。今度こそ踵を返して去っていく背中を見送りながら、ベレスは茫然と思惟していた。
「先生!」
 呼びかける声にベレスは振り返った。生徒が一人、こちらに向かって歩いてくる。教師に抜擢された時はどうなることやらとジェラルト共々首を捻ったものだが、大修道院での生活にも少しずつ慣れてきたような気がする。先生と呼ばれることにもすっかりと馴染んでしまった。
 大修道院側としてもそれは同じのようで、最初はどこか遠巻きにして見られていたベレスであったが、今はその一員として受け入れられているように思う。やってきた生徒は、ベレスに頼みがあるのだと切り出してきた。
 こうして時折、ベレスの元には依頼が舞い込んでくる。人の役に立つことは好きなので、引き受けてこなしていくうちに、すっかりと便利屋のような立場になってしまった。戦闘訓練から人に物を届けたりと、その内容は多岐に亘っており、ベレスは何かと修道院を動き回っている。そのおかげか、ガルグ=マクにも顔見知りが随分と増えてきた。彼らはベレスに親しみを以て話しかけてくれる。そのことが、少し嬉しい。
 依頼への報酬として渡されたのは林檎の茶葉であった。これを使って茶会を催してみてはどうかということらしい。茶会というものに馴染みなく生きてきたので、その提案は新鮮なものであった。親密になりたい者を誘ってみるといい、という言を思い出す。浮かんだ姿が、目の前にあった。
「先生は今日も忙しそうだな」
 ベレスの姿を認めたディミトリは口元を綻ばせた。手に抱えた陶器から、何かを頼まれたと察したのだろう。忙しそうだと告げる彼の方が忙しなく働いているようだが、国に関わる内容であるためベレスがそれを助けることはできない。
「ディミトリこそ、随分と忙しそうだけれど」
「俺は、俺のやるべきことをしているだけだからな。誰かのために汗を流している先生とは違う」
 ディミトリはそう言うが、彼が抱えている事柄は彼にしかできないことである。やるべきこととして真っ直ぐそれに向き合っている姿こそ、立派であるとベレスは思うのだ。
 ディミトリはベレスの手にある小さな容器について問う。これは好機とベレスはその中身について語った。彼が抱えている責務を分け合うことはできずとも、心を和ませる程度の手伝いはできるのではないかと考えたのだ。
「お礼に茶葉を貰ったんだ。茶会をしてみてはどうかって」
 茶会か、と零すディミトリを誘おうとして、その提案は彼が発した言葉により音となることなく消え失せた。
「メルセデスやアネットを誘ってみたらどうだ?」
 俺などより余程楽しい時間を過ごせるだろうと、明確に引かれた境界線を踏み越えることは躊躇われた。握り締めた陶器から漂う香は、痺れるような切なさだけを残していった。