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彼女はとりわけ、駆け上るのが早かった。
無限に続く要塞の、天へと至る長き階。彼女はいつもそれを真っ先に見つけ出し、一番に駆け上っていく。結い上げられた栗色の髪が肩の上で弾み、ゆらゆらと揺れる光景はとても記憶に残っている。
自分よりも小さな体躯、快活でありながらどこか儚げな姿に妹の面影を見た。守らねばと思った。幼い自分の手は届かなかったから、今度こそ守らねばと、まるで課せられた使命のように盲信した。それがやがて守りたいという願いに変わり、持て余していた名状し難い感情に恋という名を与えられた時、自分は彼女に恋をしたのだ。得体の知れない曖昧であやふやなものが、自らの胸にぴったりと収まった時、かくも喜ばしい感情があるのだと知った。同時に、自分はきっとこれから彼女を深く愛していくようになるのだろうと、理由なく確信した。
仄かに熱く、面映く、そして素晴らしき日々だった。臆することなく誰かを大切だと認められる。それを愛と呼ぶのであれば、きっと彼女は最愛の人だったのだろう。この手はもう何も掴めぬ小さな手ではない。柔らかでいて所々皮の厚い手を握ることができる。人を愛するということは、この上ない幸福であった。
華奢な手がそっと頬を撫で上げる。細い腕がこの身を抱き締める。ふとした時に感じるその感触はいつだって、泣きたくなるほどに優しい。
二度と来ないはずの春が来た。握り締めていたはずの手はあっさりとすり抜けて、麗かな日差しに溶け消える。或いは約束された滅びの日に、この手は既に離れていたのかもしれないとすら思う。そうして彼女は静かに息を引き取った。
ずっと、その手を追っている。探し続けている。もう一度会いたいだとか、取り戻したいとか、そういったありふれた願いではない。そんなものはとっくに悩み尽くして答えを出した。ただ、彼女が至った答えを知りたかっただけだ。
世界を覆う滅びを前にして、誰もが為す術なく立ち尽くす中、彼女ただ一人が真理へと至り、宙へと至った。人間などには到底太刀打ちし得ない、生命の根源であり終焉たるものを彼女は退け、今も守護している。
彼女が至った命のこたえとは、一体何であるのかを知りたかった。答えとは最果てであり終着点──つまるところ終わりである。それを知ることができたなら、あの手に触れることができるのではないか。触れられずとも、目にした景色を僅かばかりでも理解し寄り添えるのではないか。そんな願いが付き纏っている。
あれからまたこの手は大きくなって、触れ得るものが少しだけ増えた。人の命を守り、救い、そして看取る仕事に就いて、多くの命を救ってきた。救えない命もごまんとあった。この世全ての生命を救うことはできないと知っていたから、手の届く範囲の命だけでも救いたくて躍起になった。
救世主になりたい訳ではないし、なれもしない。ただ、こうして必死に手を伸ばすことで、少しでも滅びを求める者が減ればいい。そう願った。零れ落ちそうな命をいくつも掬い上げ、散った命の残滓を数え切れないほど目にしても、歳を取り大層な肩書きが増えていくばかりで何一つ変わりはしない。桜が花開き、散りゆく様を幾度見つめようとも、未だこの身は命のこたえを分からずにいる。
彼女に妹を重ねていた頃と何が違う。問われれば答えようもない。妹が彼女に、彼女が名も知れぬ誰かに変わっただけではないか。そうかもしれない。
それでも、大切なものを作るまいと思うことだけはなかった。喪失の痛みは癒えずとも、彼女と過ごした日々は素晴らしいものだったと断言できる。これから先の人生に於いて、大切なものができるかは分からないが、それだけは揺るぎない真実であった。だからこそ、大切なものを作ることを怖いとは思わなかった。
「明彦さん」
名を呼ぶ声に振り返る。立っていたのは一人の女であった。
幼さの残る顔立ちはすっかりと大人びて、高く結い上げられていた栗色の髪は長く伸びて肩を這い背を覆っている。解るはずがないのだ。彼女はそうなる前に死んでしまったから、その人が彼女であると解るはずがない。その姿を見たことがないのに、そこに立っているのが彼女であると自分ははっきりと認識していた。
薙刀を握り続けて胼胝ができていた手は、長い時を経てすっかりと滑らかになっていた。柔らかな、彼女本来の手が頬に触れる。瞬間、心が沸き立ち震える。
「あまり頑張り過ぎないでくださいね。明彦さんはすぐに無茶しちゃうので──」
言葉が終わる前に目の前の恋人を掻き抱いていた。会いたかった。会いたかった。恋しかった。背に回る腕の感触が、泣きたくなるほどに優しかった。何を言えば良いのか分からず、猛る思いのまま慟哭するようにその名を呼ぶ。
──目を開ける。懐かしい姿は窓から差し込む薄ら明かりと混ざり消えてゆく。部屋の中にはただ独り、呆然と佇む男の姿。自嘲するように、咽ぶように、呟く。
「ああ──良い夢だった」