恋よここに眠れ

FE風花雪月ディミレス

愛よ目覚めたまえの対のような話


 卵と砂糖をひたすら混ぜる。空気を含み、嵩が増していく様に心が躍る。手間のかかる作り方ではある、だからこそ美味しいのだ。茶会に出す菓子を焼きたくて、調理場を使わせて欲しいと請うたベレスに料理番が教えてくれた。
 美味しい焼き菓子なら市へ行けば手に入る。わざわざ手間と時間を割いて作る必要などどこにもなく、単純な自己満足でしかない。いらぬ労を背負ってまで貫きたいと思わせるこの恣意は、果たしてどこから来るものなのか。
 人が喜ぶ顔が好きだ。困っている人の力になれた時、嬉しそうにしている姿を見ていると胸が温かくなる。熱いものが満ちゆく感覚が実に心地良い。
 しかし、ベレスが今こうして器の中を掻き混ぜているのは、誰かに頼まれた訳でも飢えに喘ぐ人を助けるためでもない。一人のために無性に何かをしたくなっただけだ。身勝手で、押し付けがましい独善でしかない。褒められたい訳でも、感謝されたい訳でもなく、ベレス自身がそうせずにはいられなかっただけなのだ。
 粉を振り入れて混ぜ、溶かした牛酪を注ぎ入れてまた混ぜる。気泡を潰さぬよう丁寧に、それでいて手早く。全てが混ざったところで焼き型へと移して窯の中へ。焼き上がるまでにはまだ時間があるので、その間に卓の準備に取りかかる。
 卓子を自室へ運び入れ、組み立ててたそれに敷布を敷く。茶会を始めた当初は実に簡素な卓であったが、今となっては敷布に茶器、調度品と様々な物を買い揃えてしまった。人によって好む品種が異なるのが楽しくて、つい買い集めてしまった茶葉の数々が、棚の中で淡く思い出の残り香を纏いながら列を成している。
 みっしりと無数に並んだ缶のうちの一つを手に取った。小さく丸い頭花が愛らしいその茶葉は、買い足し続けてきたものの誰かに振る舞うことなく、ひたすら自分で飲むばかりであったものである。今日こそはと勢い込んで封を切り、結局一人で飲むことになる度に、ベレスの頭に浮かぶのはどこか寂しげな青い瞳。
 茶会の席に着く時、その瞳にはいつもどこか暗い影が差している。何故そんな目をしているのだろう。分からないことがもどかしく、触れ得ぬ空を掴もうとするかのように気付けばベレスは手を伸ばしていた。指先は空を切るばかりで一度たりとも触れた実感はなかったが、永遠にも等しいその距離をほんの少しでも縮めたかったのだ。ベレスの願いは叶うことなく、五年の歳月を経て横たわる距離は決定的な亀裂へと変わったように思われたが、今はより近くなったように思う。
 ようやく触れることのできたその人を、より深く知りたいと願ってしまう。
 今日こそは、と何度目か分からない決意と共に封を切る。抑圧されていたものが溢れ出すかのように、濃い茶葉の香りがぶわりと広がっていった。
 食堂へ戻り、焼き上がった菓子を窯から取り出した。甘くまろやかな匂いが食欲をそそり、一つつまんで口に運ぶ。きめ細かく解け崩れる食感が実に好い。絹のように滑らかで繊細な生地は、ベレスが手をかけたことによって生まれたものだ。作るからには美味しいものを作りたいというこだわりと探究心、そしてより美味しいものを食べて貰いたいという見返りを求めない独り善がりな善意である。
 自らの手で焼いた菓子を、市で買った菓子と一緒に皿へと並べる。職人と同じ場所に澄ました顔で居座ることに気後れする思いがない訳ではないが、全ての菓子を用意できる時間も技術もないのでそこはその道の人の力を借りることにする。
 卓を準備し、とっておきの茶葉と茶請けの菓子も用意した。後はそこに座る人が揃えば茶会の席が完成する。そこまで場を整えておきながら、未だ心の隅には渋く冷えた茶の味が残り続けている。呼びかけた声に返事すら貰えないのでは、一瞥もなく黙殺されるのではないかという己が懸念を、ベレスは首を振って否定した。暗雲が去った空は清々しく美しい色でベレスを見つめてくれる。
 断られた時のことは考えていなかった。運び込んだ卓子も、封を切った茶葉も、大量の菓子も、どうするかを何一つとして決めていない。ただ、用意したそれらを用いて他の誰かと茶会をしようとは思えなかった。だから頷いてくれねば困る。
「一緒にお茶会をしよう」
 この言葉を告げたのはいつ振りだろうか。最後にどんな話をしたのかは忘却の彼方に消えてしまった。ひっそりと心に居座る空洞を埋めようとするかように、他愛のない話を沢山したいと思った。楽しい話でなくていい、ほんの少しだけもでいい。飾らぬ思いをありのまま、ただ真っ直ぐに目を見て話したいだけなのだ。
「中庭か? 必要なものは俺が運ぼう」
 ベレスの懸念を払拭するように、ディミトリが快く頷き問いかける。たったそれだけで舞い上がらんばかりに昂る心を彼は知らない。この時のために菓子を焼き、欠かさず茶葉を買い足してきたことも。そうさせる熱情が何であるかベレスも知らない。だから知りたくなった。これから告げる内容に緊張を覚える理由を。
「私の部屋でもいいかな」
 我儘でもいい。この気持ちに名前を付けるのは、君であって欲しいのだ。