きみはかわいいファム・ファタル

オリジナル

※同性愛蔑視の表現を若干含んでいます
私がこの話に百合タグを付けるか悩んだように、これから由宇はぴったりとカテゴライズすることができない自身の性的指向に、自分が何者なのかという煩悶をし続けるのだろうなと思っている

蛇足
八坂真尋
好きな女に絡みたいがずっと友達と一緒だから隙がないという鬱憤を最悪の形で発露させた残念な奴
好きな女をずっと目で追ってるから誰を好きなのか知っている
望みがないことを分かってるから早く他の人を好きになりたいなーと思っている
しかしこれは由宇と巴の話なので君の出番はない


 ぱちぱちと、長く濃い睫が瞬いて。ほろりほろりと溢れ落ちる真珠のような雫を見た時に、私はこの人をあらゆるものから守りたいと思ったのだ。
 小学三年生、暑い盛りを過ぎ蝉も死に絶えた中庭で。声を殺して独り泣く女の子の姿はどこか見覚えがあった。何故だろう、考えて思い至る。
「──転校生!」
 涙に濡れた瞳がこちらを向く。つやつやと光を照り返す様が綺麗だと思った。私が泣く時は使い古したティッシュみたいに顔がくしゃくしゃになるのに、その子の顔は何一つ歪んでいない。女の子が大きな目を更に大きくしたまま瞬きすると、ぽろりとまた一つ透明な雫が落ちた。
 これが私と城崎巴の出会いである。

◆◇◆

 城崎巴は内気な少女だった。それこそ、転校した小学校で人の輪に馴染めず独り泣いてしまうくらいに。
 巴は心臓が弱い。転校も専門病院にかかるために引っ越したからなのだそうだ。度々学校を休みがちだった彼女を毎朝家に迎えに行くのは私の役目だ。今日はお休みなのと申し訳なさそうに告げる巴のお母さんの姿は年を追うごとに少なくなり、今や巴の心臓は健康な人のものと変わりない状態まで回復しているのだという。中学校の卒業式に巴のお母さんが教えてくれた。
 ガーデニングは巴のお母さんの趣味だ。美しく整えられた季節の草花が静かに揺れる中、制服をきっちりと着こなし、革の鞄を提げて姿勢正しく立つ様はまるでどこかのお姫様のようだといつも思う。
「おはよう、ゆーちゃん」
 私の姿を認めて巴が笑う。巴の長く濃い睫が色素の薄い瞳にかかる様子が、私はとても好きだった。

◇◆◇

 倉科由宇は何の変哲もない女子高生である。一つ付け加えるとしたらバカだ。小学生の時にはその日紹介されたばかりの転校生の名前を忘れ、中学生の終わりは慌てて決めた進学先の偏差値を知らず勉強に明け暮れることになった程度にはバカだ。極め付けは──同級生の男子にからかわれた時の話である。
「ずっと一緒にいるよな、お前らレズかよ」
 今なら分かる、きっと彼は覚えたての言葉を使いたかったのだ。言葉の持つ意味をよく理解せず、何となく知識をひけらかして悦に浸る。そういう年頃だ。
 しかし私は反応してしまった。反応『してしまった』のである。
「私はいい! でも巴をバカにすんな!!」
 飛びかかってその横っ面に一発、とってもいいのを決めてやった。
 巴に謝れと胸倉を掴んで喚き立てる私を、近くにいた男子が引き剥がす。必死にもがくも性差の力は強いのなんの。拘束から抜け出せないことがもどかしい。それでも尚、獣のように抵抗を続ける私へ、心優しい姫の声が降る。
「ゆーちゃん!」
 もうやめて、私は大丈夫だから。その一言が、私を獣から人間へと戻す。そうしてまともな思考を取り戻した私は、クラス中の注目を集めていることを知る。そんな中で発言することは、巴にとってとても勇気のいることだっただろう。
 誰もが奇異の目で私を見ていた。そこでようやく、私は気付いてしまったのである。私の怒りは、巴のためのものではなかったということに。
「……ごめん高崎、頭冷えた。離して」
 押さえ付ける腕の力が緩む。拘束から抜け出して、今しがた殴った相手に向かい合う。得体の知れない感情が何であるか理解してからは、不思議と怒りは湧いてこなかった。そうして私ははっきりと自覚する。私という人間の異常さを。
 私が冷静になったと判断したのか、高崎は落ち着いた調子で告げる。低く抑揚の薄い声はよく通った。
「殴ったのは倉科が悪いけど、八坂も良くないと思うぞ。友達悪く言われて怒らない奴いないだろ」
 殴ったことは間違いなく私が悪いし、私に非がある。それは覆ることのない事実だ。素直に認めて頭を下げれば、八坂はとても居心地悪そうに視線を逸らして、俺も悪かったと言ってくれた。ひとまずこの場は丸く収まった。丸くないのは私のささくれ立った心だけだ。
「よし、ちょっと外出てくる!」
 この空間に平然とした気持ちで居られそうにはなかった。逃げ出したくてたまらなくて、不安に揺れた声で呼ぶ巴に授業までには戻ると告げて教室を出た。
 走る。走る。
 映画やドラマなんかでやたらと走るシーンが多い理由を理解する。心がめちゃくちゃになりそうで、不安を紛らしたくて、動かずにはいられないのだ。
 息が上がる。喉がひりつく。肺が痛い。心臓が痛い。
 突然八坂を殴った私を、皆が驚き見つめていた。何をそんなに怒っているのだろうと思ったに違いない。その視線は私の頭を冷やし、そして思考のズレをはっきりと自覚させたのだ。私が八坂を殴るに至ったのは、巴を同性愛者という異質な生き物に面白おかしくカテゴライズされたことによる怒りからだった。
 だが、異質であることに怯え過敏になるのは、自らがそうであるという自覚があるからではないのか。そう思い至った瞬間、愕然とした。自分の中のあらゆるものが信じられなくなり、どんな顔をして巴を見ればいいのか分からなくなった。
 だから逃げた。自販機に千円札をねじ込んで、ミルクティーを一本、コーラを三本。出てきたペットボトルと缶を腕に抱えて、うち一本を思い切り振りたくった。ぐちゃぐちゃな思考をかき混ぜて、泡だらけにしてやった。
 ジュースを抱えて再び走る。火照った肌を、腹を、冷たい缶が冷やしていく。それでも汗の滲む顔は熱いまま、叫び出したくなるような衝動を抱えてひた走る。腹の中でのたうち回っているこの思いを、何と呼べば良いのか分からなかった。
「八坂ー! 高崎ー! さっきのお詫び!」
 教室にまだ残っていた男子二人に、コーラの缶を投げて寄越す。二人が受け取ったのを見届けて、私は巴にミルクティーのペットボトルを手渡した。
「はい、巴も」
「ありがと、ゆーちゃん」
 どんな顔をしていいのか分からなかったが、ほっとしたように笑う巴に、何も気取られてはいないのだと安堵した。なんかこう、そういうのが伝わって巴に引かれたら立ち直れない気がする。私がタブを起こすのと同時にカシュっと気持ちの良い音が鳴り、そしてブシッと中身が噴出する音が続く。
 八坂の手元ではコーラの噴水が出来上がっていた。どこにも行き場のない私の激情が、溢れて噴き上がっている。
 私は笑った。思い切り笑った。虚を衝かれて呆然としている八坂の顔が面白かったのもあるが、目を回しながらどうしようもなくぶつけた巨大な感情が、あんな安っぽく惨めったらしい発露しかできないことがおかしかったのだ。
「倉科ァ!」
 怒りたっぷりに私を呼ぶ八坂へ、軽く謝りながらまだ口を付けてないコーラを渡して噴水の残骸を受け取る。毒気を抜かれて手を洗いに行った八坂を見送って、床にこぼれたコーラをティッシュで拭った。この教室では誰一人、私が抱えた思いを知らないのだろう。思惟しながら、私はくしゃくしゃになったティッシュをゴミ箱へと放り投げた。



 あれから八坂達と険悪になることもなく、それなりに仲良く付き合っている。巴との関係も変わらずにいる。このまま安穏とした日々が続くのだと思っていたが、それはただの願望でしかなかったのだと私は思い知ることになる。
「ゆーちゃん、あのね……お願いがあるの」
 茜色に染まり行く教室の中、困った様子で眉を下げ、それでいて言い辛そうに巴は切り出した。巴は我を通すタイプではなく、むしろ一歩引いて譲る人間だ。こうしてお願いをしてくることは珍しい。どうしたのかと促すと、巴は続けた。
「高崎くんに渡して欲しいの。渡そうとしたんだけど、勇気が出なくて……」
 差し出されたのは控えめながらも施された模様がお洒落な手紙封筒だ。恥じらいと共に色付いていく頬はとても愛らしく、目の前に立っているのは薔薇園の妖精なのではと思わせる。中に入っているであろう手紙の内容は想像に難くない。
 いつからか、巴の目はいつも高崎を追いかけていた。好きな音楽の話を聞けば、その日のうちに知らなかった曲を買って聴く。そんな一途でひたむきな部分を知ってから、私は巴をもっと好きになった。まあいつも見ていれば分かる訳だ。
 掲示板のポスターを貼り替えていた時、画鋲に手が届かなくて困っていたら代わりに外してくれた。そんな話を聞いたことがある。恐らく、巴の想いはそこから育っていったのだろう。巴らしいきっかけだと思う。
「分かった、渡してくる」
 そんな巴の願いを叶えたくて、喜ぶ顔が見たくて、私は小さな封筒を受け取っていた。後先考えないで安請け合いをしてしまうのも私のバカなところだった。
「ありがとう、ゆーちゃん!」
 上擦った声でそう言う巴の顔の、嬉しそうなこと。色素の薄い瞳に、長く濃い睫の影がかかる。私がとても大好きな、巴の笑顔だ。
 今日は高崎が部活に出ることを知っていたから、見付けることは簡単だった。この手紙を高崎に渡せば、多分、二人は付き合うんだと思う。贔屓目を抜きにしても、巴はとっても可愛くて、放っておけない感じのとってもいい子なのだ。
 高崎もいい奴なんだと思う。チャラチャラしてないし、テンションは低めだけど自分の考えを持っていて、ちゃんと人の話を聞いている。
 万事解決めでたしめでたし。お姫様は王子様と幸せに暮らすのだ。高崎くんへと書かれた封筒の中に入っているのは幸せの片道切符。そうして敷かれたレールの上を走る列車を、私は後ろから眺めている。
 そのことを嫌だと思っている自分に気が付いて、私はどうしていいのか分からなくなる。巴が私の傍から居なくなるなんて嫌だ。高崎の所に行くなんて嫌だ。
 私が抱えているこの気持ちは何なのだろう。巴とキスしたいとか、セックスしたいとか、そんなんじゃなくて。抱き締めて欲しいとか、手を繋ぎたいとか、そんなのでもない。ただ──ただ。
 ずっと巴の隣で、巴の姿を見ていたい。嬉しいことや悲しいことを、いの一番に分かち合える存在でいたい。私だけを見て欲しいなんて願わない。ただ私は、巴の隣に居たいのだ。巴の存在は私という箱に詰まった宝石で、その綺麗な輝きを眺めていたい。ずっと大切に抱えていたいだけなのだ。
 心を燃やし、執着を煮詰めることが恋ならば、私の気持ちは何だ。独占欲や支配欲を、言葉や行為という綺麗な包装紙で包んで贈ることが愛ならば、私の思いは何なんだ。
 愛って何だ? 恋って何だ!?
 私が巴に向けるこの思いは一体何なのか、誰か教えてくれないか。
「高崎」
 呼び止めたくない。思いながら呼び止めて。
「大事な手紙だから、一人で読んで」
 突然のことに戸惑っている高崎へ、手紙を押し付けて逃げた。
 巴に報告するんだ。ちゃんと手紙を渡してきたと。きっとうまくいくよって根拠のない励ましをして、そして、そして──私はどんな顔をすればよかったんだっけ? 巴が喜ぶ顔を私は見たい。辛いことからは遠ざけたい。嬉しいことのはずなのに、私の胸にはあらゆる感情が葬列を成していた。
 口角を上げて教室のドアを開ける。しかしそこに巴の姿はない。鞄があるから帰った訳ではないようだが、一体どうしたのだろう。トイレにでも行ったのだろうかと無人の教室を見渡していると、ぱたぱたと廊下を走る足音が近付いてくる。
「ゆーちゃんどうしよう!」
 ひどく慌てた様子で飛び込んできたのは巴だった。随分と落ち着きのない様子で、巴は切らした息を整えている。
「どうしたの巴、何があったの?」
 表情は明るいものだったから、怖い目に遭った訳ではないらしい。しかし、こんなにも巴が興奮している姿を見るのはもしかしたら初めてかもしれない。呼吸が整うのも待ちきれないといったように、巴は口を開いた。
「やっぱり、ちゃんと自分で伝えなきゃって思って……高崎くんに言いに行ったの。そうしたら、伝えに来てくれてありがとうって、付き合おうって……! すごく嬉しくて、もうどうしたらいいのか分からないの……!」
 予想はできていたはずなのに、全く予想だにしていなかった展開だった。高崎は家に帰ってから手紙を読んで、明日返事をするのかな、なんて思っていた。まさか巴がこんなにも勇気を振り絞るだなんて思わないではないか。
 しかし巴を変えたのは高崎で、手紙なんてなくたって、私が手を貸さなくたって、巴は高崎に告白することができたのだ。そうして二人は無事に付き合うことになったのだ。おかげで一晩置けば気持ちの整理がつくのだろうかと思っていた私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
 おめでとう、よかったねと言わなくては。巴が嬉しそうで、私もとても嬉しいのだ。嬉しいはずなのにああどうして私は切なくなるのだろう。
 息が、詰まる。
 嫌だ、嫌だ。二人を恋人として見ることのできない自分が嫌だ。この期に及んで未練がましい自分が嫌だ。何で、どうして、と思考が混濁する。
 私自身、女の子から『そういう意味』で好きだと言われても戸惑ってしまうのだろう。女の子だから巴を好きになった訳じゃなくて、巴という人間の形が恐ろしいまでに私の胸に馴染んだだけなのだ。私の心にぴったりとはまるのが巴であったのなら、巴の鍵は高崎だったのだろう。それだけだ。現に、高崎は巴の心を奮い立たせてみせた。そんな巴の頑張りを知って、私はより強く巴を好きだと思ってしまう。
 私の中で息衝き、渦を巻く感情をどう処理していいのか分からなくて。私のバカな頭は限界を超えて、ついには思考を放棄した。
「……やだ」
 言いたかった言葉を呑み込んで、本心が零れ落ちる。どちらも本心に違いはないのだが、祝福の言葉は巴の幸せを願う私のもので、我儘な私のものではない。
 くしゃくしゃになった私の顔を見て、巴はびっくりして慌てて。大丈夫だよと言って泣き止まなきゃいけないのに、私の顔は使い古したティッシュのままだ。
「ゆーちゃん、どうしたの?」
 ぐずる子供にそうするように、巴は私を優しく抱き締めて理由を問う。巴を守りたいと、そう思っていた私は今巴に守られていた。自分が傍にいると、あなたを害するものは近付けないと、巴が安堵を与えようとしてくれる。
 巴が好きで。好きで。どうしようもなく好きで。誰にも渡したくないくらい好きで。もうめちゃくちゃに好きなのだ。涙が出るくらいに好きなのだ。
 でも巴の『好き』と私の『好き』は違うのだと、私は痛いくらいに知っている。
 好きって何だ? 愛って何だ? 恋って何だ?
 私は未だ、理由のない曖昧な思いに翻弄されている。私は私の抱える思いに名前を付けられずにいる。その正体が分からずにいる。
「……ゆーちゃん、もしかして高崎くんのこと」
「それは絶対違う!!」
 私が子供のようにぐずぐずと泣いている間、理由を考え続けていた巴があらぬ方向へ向かっていることを知って私は顔を跳ね上げた。あまりにも突飛な発想過ぎて、顔はくしゃくしゃのままだけど涙は止まってしまった。巴は長い睫を瞬かせながら目を丸くしている。
「巴が離れていっちゃうのかなーって思ったらめちゃくちゃ寂しくなったの!」
 そんな勘違いをされたらたまったものじゃない。語気強く、慌てて弁明する私に、巴がくすくすと笑う。無防備なその表情はとても可愛かった。
「そんなこと、あるはずないよ。ゆーちゃんは私の大切な友達だもん」
 腹を捌いてはらわたをぶちまけるように、私の抱えている思いを洗いざらい吐き出したら一体どうなるのだろうと爆弾魔たる私は考える。
 巴はきっと最後まで話を聞いてくれて、それでも私の気持ちには応えられないと真摯に答えてくれるのだろう。そんな光景が目に浮かぶ。
 かさかさのティッシュで涙を拭いて、私は爆弾を胸の奥深くへと仕舞い込んだ。
「じゃあ、私は先に帰ろうかな! 折角なんだし、巴は高崎くんと帰りなよ」
 想像したのだろうか、途端に顔を真っ赤にして落ち着きをなくす巴を微笑ましく見守りながら、私は鞄を提げて教室のドアを開ける。
「ゆーちゃん!」
 呼ぶ声に振り返れば、真面目くさった顔で巴が私を見つめていた。緊張に詰まった息を改めて深く吸い込んで、巴は続けた。
「明日も私、ゆーちゃんにおはようって言うからね!」
 たったそれだけで救われた気持ちになってしまう私は正真正銘のバカだ。様子のおかしい私に巴は何かを感じ取ったのかもしれないが、明日も変わらず私と関わり続けてくれるというその宣言が、私にとっては救いだったのだ。
「本当に……よかったね、巴。おめでとう」
 告げた祝福は紛れもない本心った。また明日と手を振ると、巴が顔を綻ばせて手を振り返す。その姿を目に焼き付けながら、私はぴしゃりとドアを閉めた。
 ああ嫌だ。寂しい。本当は高崎にだって渡したくなかった。私の大切なひと。でも二人が結ばれて、巴の恋が叶って嬉しい思いも本物なのだ。
 きっと二人はこれから恋をして、愛を育んで、家族という形になる。可愛い子供だって生まれるのだろう。私と違うものを見て、違う道へと進んで、私という存在が巴の中から薄れていく。その姿を私は後ろから眺めることになるのだろう。
 胸の中の、痺れる熱情。これが何なのかを私は知らない。
「おはよう、ゆーちゃん」
 それでも私は、長く濃い睫が色素の薄い瞳にかかる瞬間を愛おしく思うのだ。