風花と共に行きし

FE風花雪月ディミレス

 朝焼けと共に目を覚まし、今までになく体が軽いことに気が付いた。どこまでも飛んで行けそうな、羽が生えたかのような軽やかな心地。病を得てから調子が良いことはあまりなく、体が重く感じることが多かったのだが、不調は嘘のように消え失せている。唐突に、然りとてごく自然に、ああ自分はもう死ぬのだなと潔く理解した。失われた重みは、魂の重さ。地に足を付けるための重石は取り除かれ、この身を縛る物は何もない。完全なる自由とは孤独でもあるのだと、何とはなしに理解する。
 最後の日は如何様に過ごそうかと考えて、何一つとして浮かばなかったのがとても自分らしいと思った。ただ愚直に為すべきことを為すのが自分の生き方であり、染み付いた習慣でもある。ああ、でも最後に──とただ一つの願いらしいものが浮かび上がり、それこそがきっと自分の人生で得たかけがえのない物なのだろうと思い知る。
 いつものように服を着替え、朝食を摂り、職務に勤しむ。代わり映えのない、それでも決して替えの利かない、愛おしい日常であった。道を外れ、泥を啜り、血に塗れてようやく得た、揺るぎない標。弱者が虐げられることのない太平の世を理想に抱き、心を燃やし邁進してきた。妻である大司教の支えもあり、変革はかなり進められたと思う。この後の歴史を見ることは叶わないが、その礎になれたのではないだろうか。後に続く道は、この地に生きる人々が作っていくのだろう。
 仕事が一段落したところで、息子に稽古を付けてやる。自らと同じようにギュスタヴの指導を受けたその動きは、打ち合うごとに鋭く研ぎ澄まされていく。だが、そこにはまだ抜け切らない青さが生む隙があり、ディミトリはその綻びに加減なく槍の穂先を捻じ込んだ。未熟な部分を自覚するからこそ成長できる。だからこそ親子であろうと決して手は抜いてこなかった。息子とは幾合も打ち合ってきたが、ついぞ自分から一本を取ることはできずに終わってしまった。親の威厳を守れたと誇るべきか、それとも永劫付き纏い続ける亡霊になってしまったと嘆くべきか。その答えが出ないまま、最後の打ち合いは終わってしまう。
「たまには私とも手合わせして欲しいな」
 様子を見守っていたベレスが、愛剣を手に進み出てくる。彼女がこうして手合わせを申し出ることは珍しい。何か感じるものがあったのだろうかと思うが、それは些末なことである。強者と、それもベレスと立ち合うなど、心が躍らない訳がない。他者との立ち合いに楽しみが見出せないのではなく、ベレスが相手であることがこの上ない高揚を齎すのだ。彼女の剣は、強さの象徴でもあったからだ。未来を切り開いていくその剣に、鮮烈な憧れを抱いた。その憧れと立ち合えることなど、喜びしかない。
 頷き、獲物を構える。一瞬の隙も見せぬよう、気を引き締めて相手の動きを観察する。彼女の太刀筋はひどく貪欲である。形式ばったものではなく、柔軟に、それでいて泥臭く、勝ちというよりも勝利──その先にあるものを手にするための剣なのだ。それまで『未来を切り開く剣』というものを知らなかったこの身は、初めてベレスの剣を目の当たりにした時に今までにない衝撃を受けたことを思い出す。そうして彼女は教えてくれたのだ。奪い、征服するのではなく、抱いた理想への道を敷くための剣を。
 しかし彼女は容赦ない。疾風のような剣戟を幾度もいなしながら、切り上げ、刺突を繰り出す。常人であれば視野の狭い右側を狙うのだろうが、ベレスはそれを意識しない。不平等であると慮っているのではなく、『視えている』ことを知っているからだ。殺気が肌を焦がし、風のうねりや地を踏み込む音を鋭敏な感覚が拾い上げる。視認しているかなど些事であった。互いに隙などない。だからこそ、自ら崩しにかからない限り勝利はないのだ。圧倒的な膂力を以て一撃を叩き込み、その呼吸を乱す。勢いを殺しきれず、微かに軸が揺らぐ体。その無防備な首を断ち落とす一閃を加える最中、ベレスは体をしならせながら踏み込むと、鼓動する心臓目掛けて渾身の力で剣を突き立てる。互いに避けることのできないその切先は、果たしてどちらの方が早く相手の命に届いたのか。寸分違わず急所を捉えたまま、互いにぴたりと動きを止める。そうしてどちらともなく息を吐くと、張り詰めていた緊張はふっと解れていった。
「これは取ったと思ったんだが、流石の切り返しだったな」
「一撃が重いし、かといって剣を伸ばせば動きを取られる……難しい相手だね君は」
 互いに賛辞を贈り合い、構えていた武器をそれぞれ下ろす。実戦の場合、最後の一太刀は間違いなくここぞの一撃と剣を伸ばして首を断っていたのだろう。互いの力量を知っているからこそできる命の遣り取りである。子にとってはこの上ない勉強材料となるのだろうが、できればこの知見が活かされることがないよう願うばかりだ。
 手合わせへの礼と共に、息子が部屋を辞すのを見届ける。手の中にある愛槍は、つい握り込んでしまったのか所々痛みが見られる。この血に宿る紋章の影響か、昔からどうも集中すると武具や道具を用いる手に力が籠ってしまう。できる限り入念に手入れを施し、修繕が必要な部分は鍛冶屋に任せることにした。士官学校時代から世話になっている鍛冶屋は、どんな武器でも安心して任せられる。この槍も、すっかりと綺麗な姿になって返ってくることだろう。そうして、ブレーダッドの血筋を受け継ぐ者として、今度は息子がこの槍を手にするのだろう。父が祖先より継承し、ロドリグによってこの手に渡り、息子へと続いていく。自分が歴史の系譜の一部になるということは、どこか不思議な気分であった。
 清々しく心地良い疲労を抱えた体を揺らしながら、再び執務室へと向かう。すっかりと体に馴染んだ椅子は、戻ってきた主を同じ柔らかさで包み込む。やり残した執務がある訳ではなく、これから行うのは個人としての作業である。羊皮紙を取り出し、したためたのはこれから自分が遺す者達への言葉である。自分が行っていた職務の引継ぎについて淡々と書き綴り、滞りなくこの国を治められるよう手筈を整える。そうして最後に、これまで自分を支えてくれたことへの感謝を書き記して羊皮紙を丸める。紐を結び、つやつやと照る蝋の上から印璽を施せば、最後の仕事は恙なく終わってしまった。
 私的な文章を残すか考えて、やめた。取り出した羊皮紙をしまい、執務室を後にする。机上に残したものは、明日見付けられることだろう。
 王城の廊下を歩んでいると、ここで過ごした数々の記憶が蘇る。父の大きな背中、縫い取りをする継母の愁眉。剣術の訓練に付き合ってくれた兵達。時折訪っては我が子のように可愛がってくれたロドリグ。おぼろげではあるが、今もこの胸に残る幼き日の遠い記憶。国を捨て、獣に堕ちたこの身を再び認めてくれた愛おしい故郷。やがて王となり、新たな思い出を紡いでいった、懐かしくも新鮮な景色。そうして、いつもと変わらぬ穏やかな顔をした妻が、自分の姿を認めてふっと相好を崩す時、胸に満ちていく愛おしさも変わらない。
「少し、付き合ってくれないか」
 それだけの言葉にも、ベレスは何も聞かずに静かに頷いた。どこへとも、何をとも告げていないのだが、彼女はそれが分かっているのか、それとも聞く必要がないほど信を置かれているのか。長らく連れ添ってきた妻ではあるが、どこか浮世離れした雰囲気を纏っているのは変わらない。実は女神である、と言われれば納得してしまいそうになるが、この人は自分の伴侶である。女神であろうと天に帰すものかと、その指にずっと在り続けている輝きを見遣る。人が女神の手を握る術はないが、この小さな手は繋いだ手に指を絡め、握り返してくる。その心地良い温もりは、この生涯において最も尊く大切なものであった。
 赤狼の節を越え、星辰の節に入ったばかりではあるが、王都周辺は日中でも冷える。体を冷やさぬよう外套を羽織り、連れ立って王城を発つと馬を走らせた。馬上の景色は川が流れるが如く移ろっていく。馬の走りに合わせて体が揺れ、耳に届くのは軽快な蹄の音だけだ。馬に乗っていると、胸に渦巻くあらゆる念が不思議と静かになり、無心でいられる。静謐な揺籃に包まれているかのような穏やかなひと時は、今も昔も変わらずこの心を落ち着けていくのだ。
 訪れたのは、フェルディア郊外の湖畔である。透き通った水面は穏やかに凪いでおり、鏡面のように美しく光を照り返している。足元に広がる草原は冬支度の最中のようで、青々と茂る生命の敷布の中には枯草の姿も多くみられる。これから訪れる厳しい冬を越え、野焼きを経て新たな芽吹きへと繋がっていくのだろう。
 大樹に寄り添うようにひっそりと咲いている花を、手折って摘む。隣でベレスが同じように花を摘んでいた。最後に、もうここには居ない彼らに花を供えようと思ったのだ。そのための献花を摘みに来たのがここを訪れた理由であったが、それだけが全てではない。最後に──ベレスと共に過ごしたいと、そう思ったのだ。馬に乗ってどこか遠い場所へ行き、二人静かな時間を過ごしたい。それこそが、この胸に浮かんだ唯一の願いだったのである。本当に単純過ぎて笑ってしまうほどなのだが、それこそがディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドという男なのだろう。
「俺は、お前を残してしまう」
 もう一本、花を摘みながら隣にいる妻に告げる。
「そうだね」
 妻もまた、花を摘みながら答える。
 穏やかな声だった。まるでそのことを知っていたかのような、落ち着いた声音。
 もう一本摘もうと、近くの花に手を伸ばす。同じように花を摘もうとした手が伸びてきて、指先が重なる。顔を上げると、同じようにこちらを見つめる妻の顔。玲瓏たる瞳に揺らぎはなく、湖面のように静かであった。全てを知っているような、何も知らぬような、無垢な面持ちがそこにある。
 触れる指先が性急に絡む。握り締めた指先が同じだけの強さで握り返され、突き上げる衝動のままにディミトリは繋いだ手を強く引いた。飛び込んできた柔らかな体を、強く掻き抱く。手から離れた花が宙を舞い、ゆっくりと落ちていく様が視界の端に映っていた。
 この世に永遠など存在しないと知っている。命が尽きれば死に、形あるものはいつか消える。死を迎えることは、何一つとして怖くはなかった。今まで続いてきた生命の営みの大河に、自分が加わるだけのことだ。ただ、今際の際になってようやく知ったことがある。腕の中にあるぬくもりを実感すると、その思いは抑えようのないほどに膨らみ、溢れ、零れ落ちる。
「お前を残して逝くことが、どうしようもなく口惜しい……!」
 今まで、残される側であった自分は知らなかった。誰かを残して死ぬということが、こんなにも苦しいことであるなど。残される側の苦しみは知っている。遣る瀬なく、無情で、無慈悲で。どうにもできない喪失感と痛みを抱えて生きることしかできない、絶望にも似た胸の閊え。これからそれを、自分がベレスに齎そうとしている。どうしようもなく無力で、辛くて、苦しくて堪らない。胸が引き裂かれるかのようだ。
「君がいなくなることが、私は寂しい」
 背中に回された腕が、ぎゅうと強くしがみ付く。そこにある体を確かめるように、あるいはそのぬくもりを忘れぬように。強く、強く抱きすくめる。互いの体がそこにある。温かな体温を感じる。抱き締める腕の力の強さを感じる。だが、明日にはもうそれはない。もう二度と、その感触を知ることはないのだ。
「でも、私は──君を看取る側になって、良かったとも思っているんだ」
 強く抱き合っているため互いの顔を見ることはできない。だが、見えなくていいのかもしれないと思った。
「君がもう、残される側にならなくて……良かった」
 その声は、相も変わらずとても穏やかな響きを以て耳朶を打つ。だが、確証なく『これはこの人の強がりなのかもしれない』そう思った。いじらしくて、愛おしくて。この優しい人を、自分は残して逝く。
「お前は、強いな」
 僅かに体を離し、互いに見つめ合う。この人の強がりを、認めてやらねばならないと感じた。それが虚勢であると暴いてしまえば、彼女の心を支えるものがなくなってしまう。これからこの身はベレスを支えることができない。だからこそ、気丈に振る舞うこのいたいけな姿を認めてやらねばならないのだ。
「私は君の先生、だからね」
 ふふ、とベレスが笑う。まさかここでそんな台詞が出てくるとは思ってもみなくて、ディミトリはつられて笑った。悲壮な空気は笑い声と共に溶け消え、互いに落ちた花を拾い始める。幸い花弁は散っておらず、ほっとする。落ちる枝葉の影が長く伸びていき、その隙間から黄昏がちらちらと姿を見せ始める。もうすぐ、今日という日が終わろうとしている。日が過ぎるのはこんなにも早かっただろうか。それとも、有限を自覚したが故の感傷なのか。
 片手に花束を携えながら、その小さな手を取る。真っ直ぐにベレスを見つめ、告げた。
「お前は俺にとって恩師であり、かけがえのない──妻だ」
 細い指に嵌められた指輪が、光を受けて煌めいていた。頷き、破顔するベレスの白い頬が、ゆっくりと夕陽に染まっていく。綺麗な人だ、と改めて思う。そんな人が隣を歩み続けてくれていた人生は、どれだけ恵まれたものであっただろうか。
 しっかりと手を繋ぎ、共に歩く。歩幅を少し小さくして、ゆっくりと同じものを見つめるこの時間が愛おしい。互いの手に握られた花が、ゆらゆらと弾み、揺れている。山の上から降り注ぐ冷たい冬の息吹が、足元の草をさわさわと鳴らしていった。辺りが夜に包まれてしまえば、寒気は一層凛冽たるものとなってしまう。陽が落ちる前に帰ろうと、名残惜しさを覚えながらも湖畔を後にする。言葉はなかった。ただ、互いの温度がそこにある。
 王城の門を潜り、墓前に花を供える間に夜の帳は黄昏をすっかりと覆い尽くしていた。体の芯から冷えていくような寒烈たる空気に、吐き出した息が真白く天へと立ち上る。真っ暗な空に溶けていく白い柱に、明日は雪が降るかもしれないと遠くに光る星芒を臨んだ。広がっているのは、星辰の節に相応しい満天の星空である。暫し二人でそれを眺めてから城内へと戻ると、暖かな空気が体を包み込む。冷たい外気に晒されていた体はすっかりと冷えていたが、蝋燭に火が灯るように芯は温かかった。
 気の置けない者達と食卓を囲み、最後の晩餐に舌鼓を打つ。不思議と思い出されたのは、士官学校時代にベレスから誘われて食事を摂った時の記憶である。初めて食堂で食事を摂った時は、食材の質の違いにひどく驚いたものであった。シルヴァンに不味いと言わしめたファーガスの料理、延いては食糧事情であるが、国境の壁がなくなったことで交易や品種改良が進み、劇的に改善したと言える。自国の食べ物が不味いということすら知らなかった国民達は、ようやく当たり前の喜びを享受できるようになったのだろう。復讐のために入学した士官学校であったが、あそこで得たものは実に瑞々しいものであった。辛いこと、苦しいこと、受け入れられないこと。様々なことがあったが、それらを含めて自分の一部であると断言できる。実に、得難い経験であった。
 食事を終え、仕事に抜けや漏れがないかをしっかりと確認する。そうして湯浴みを済ませて床に就く。呆れるほどにいつも通りの、習慣付いた日常であった。変わり映えのない、かけがえのない、愛おしい日々。それをなぞって、一日を終える。
 明かりを落とし、静けさを伴った闇が部屋を覆い尽くすと共に、ベレスがもぞりと寝台に潜り込んでくる。その柔らかな体を抱きながら眠りに落ちるのが、ディミトリは好きだった。シーツの擦れる音を微かに響かせて、温かなぬくもりが隣にぴたりと寄り添う。しなやかな両手が伸ばされて、緩やかにディミトリの頭を抱き締めた。
 幼子にするかのように、優しい手のひらが髪を撫でる。心臓の鼓動を思わせるような一定の感覚で触れていく感触。柔らかな胸元に顔を埋めながら、ディミトリはそこに宿る確かな体温を感じる。降ってくるのは、透き通った歌声。それは、今まで聞いたことのない調べであった。耳慣れぬ、どこか神秘的に感じられるその歌は、まるで子供の頃から知っているかのようにすっと入り込み、馴染んでいく。
 それは、子守歌であった。王国にこのような歌は存在せず、修道院で暮らしていた頃にも聞いたことはなかった。だが、自分はこの歌を知っている。子守歌であると知っている。不思議なことだった。きっと、この調べはこの血に宿る歴史の大河によって、遥か昔から受け継がれてきたものなのだろう。漠然とした思惟を抱きながら、安寧の海をゆらゆらと漂う。心地良い眠りの波に、抗うことなく身を任せた。
「お前に出会えて、良かった」
 やわらかなうねりが、ひどく優しい衝撃と共に砕けてこの身を浚っていく。子供を寝かし付ける歌声は一度止まり、私も君に会えて良かったという呟きが耳朶を擽った。波間に溶け消えていく意識の中、この上なく安らかな心地でディミトリは瞼を下ろした。
 透明な歌声は続いている。穏やかな眠りを願い、祈っている。慈しむ手が、眩い金髪を幾度も梳いていた。
「……よく頑張ったね、ディミトリ」
 その言葉が届いたのか、確かめる術は未来永劫どこにも存在しない。


 まんじりともせず過ごしていたベレスは、窓から差し込む光に朝の訪れを知る。寝台には温かなぬくもりが一つ。部屋の隅に灯されていた蝋燭は燃え尽き、その役目を終えていた。ゆるりと身を起こし、外の景色を見遣ると清々しい朝の景色が広がっている。すっかりとまばらになってしまった木々の葉から、冷たい朝露が一滴零れ落ちていくのを、ベレスは静かに見つめていた。
 その日、国王崩御の報がフォドラの地を駆け抜けた。

 どこまでも透き通った空からは、羽のような雪が降っている。