可愛い人

FE風花雪月ディミレス

 失せろ、とただ一言が全ての干渉を拒絶する。
 すっかりと落ち窪んだ目の下には憎悪の強さを示すように色濃い隈が現れており、光の届かぬその目から見える景色はひどく薄暗いものであるのだろう。
 彼は未だ、明けぬ夜を彷徨っている。信じられるものなど何もなく、憎き相手を殺すための槍だけを携えて。思い出すのは、暗がりの中で独り蹲る姿。
「先生、あまりご無理は……」
 遠慮がちに声をかけてきたのはギルベルトである。低く、嗄れた声音であった。主君の変貌に最も心を痛めているのは彼であるだろうに、それでも彼は庶務を一手に引き受けベレスを気遣ってすらいる。彼の心労は察して余りあるが、彼の働きがなければ王国軍という体裁すら無くなってしまうのだ。
「私がやりたくてやっているんだ。ギルベルトこそ、無理をさせてしまっている」
 ディミトリ自身が指揮を取れない以上、軍を統率する人間が必要になるが、ベレスは王国の人間ではない。だからこそ、旗下にはなれないのだ。
 人を動かし、纏めるには大義名分が必要になる。ベレス自身がそれを行っても、王国軍ではない何かになってしまう。だからこそ、王家の臣下たるギルベルトの存在が必要であるのだ。実質崩壊してしまった王国がまだ健在なのだと示すため、そして王国軍によって王国を取り戻すため。それはベレスには成し得ないことだ。
「いえ、私などは……」
 恐縮して首を振るギルベルトであるが、その表情には拭い切れない疲労が滲んでいる。未だ先が見えず好転する兆しのない戦況と、逼迫し続けている物資、そして何より対話すら敵わない主君の存在こそが彼を翳らせているのだろう。
「ギルベルトが抱えているものを、私が代わることはできない。それは貴方にしかできないことだ。だから、私は私にできることをやっていきたい」
 物資を管理し、割り振ることはできないが、不足している物資を調達することはできる。賊の征討に兵を割き派遣する決断はできないが、自ら戦線に立つことはできる。そして、対話を拒む王子に寄り添い語りかけ続けることはできるのだ。
「先生が殿下にお声をかけ続けておられることは存じております。本来私が担うべきことをさせているとも。しかし……殿下のお言葉は、些か、」
 続く内容が主君を非難するものになってしまうと考えたのか、ギルベルトは言葉を切る。その言は尤もであった。ディミトリが放つ言葉の数々は棘を孕みながら届く。それはまるで相手を傷付け遠ざけようとしているかのようであった。
 士官学校時代の──延いては幼少の頃からディミトリを知る者にとって、彼の変貌ぶりと投げかけられる冷然たる言葉は信じ難く、同時に心抉るものであるのだろう。今や彼の隣に立つことが許されるのは物言わぬ亡霊の群れだけである。
「……私共の言葉は、殿下に届かないのでしょうか」
「届いているよ」
 ベレスは断言した。沈鬱たる顔貌を俯けていたギルベルトは驚きに顔を上げる。その視線の先で、確かな自信と共に女が力強く微笑んでいた。後光が差さんばかりの情景を前に、ギルベルトはその目を微かに瞠る。
「本来は、ディミトリが帝都を滅ぼせと命令一つ下せば済む話だ。離反する勢力もあるだろうけれど、王国兵は従わざるを得ない」
 しかし、実際は彼からすれば迂遠で愚鈍としか言いようのない方針に従ってくれている。散々に言いながらも、自身の恣意を押し通さずに逸る気持ちを押し留めてくれている。当然、そうするのが得策であるという真っ当な打算もあるのだろうが、彼は単身打って出ることなく独り黙々と復讐の刃を研ぎ続けている。
「訓練も出ず私達と関わりを絶とうとするくせに、軍議には必ず出席してくれる」
 鬼気迫る情念を滲ませながらも、周囲の話に必ず耳を傾けている。打倒帝国を強行するのであれば、全ての意見を黙殺し、遮り、自身の決定のみ告げれば良い。
 全てが半端なのだ。ディミトリは気付いておらず、決して認めないのだろうが、甘すぎるのだ。非情に徹し切れない彼は、復讐者として致命的に──優し過ぎる。
「自分を貶めて、他人を遠ざけようとするのは、怖いからなのかもしれないね」
 変わり果てた姿を見られるのが。或いは、これ以上何かを失うということが。もしくは復讐に捧げた己が決意が揺らぐことであるのかもしれない。
 ひどく不器用で、臆病で、あまりにも身勝手だ。ベレスに他人の思考を読む力はないので、真意など分かるはずもない。表面上は優等生であるのに、独り全て抱えてどこにも行けなくなってしまう様子は自縄自縛と言えよう。本当に、今更になって手がかかる。しかし、そんな彼は今もこの身を『先生』と呼んでくれた。
「本当に、可愛い生徒ひとだよ」
 その目に熱を湛えながら甘やかな声音で告げる女に、殿下にそんなことを言えるのは先生くらいなものですと、歴戦の騎士は疲れ切った目元を微かに和ませた。