異形の心臓

FE風花雪月その他

ディミトリ中心小説アンソロジーに寄稿したもののWeb再録です


 復讐のために剣を取ったのであれば、復讐によって斃されることもまた道理である。だからこそ躊躇いなく人を手にかけ屠ってきた。屍の山を築き上げながら、自分は碌な死に方をしないのだろうという確信を抱き、それでいいと思っていた。化け物とは、人の手によって討たれるべきものだ。
 しかしどうして、化け物たるこの身は王として冠を戴き為政に勤しんでいる。復讐さえ成し遂げられれば死んでもいいと──むしろそれを望んでいたはずなのに、今はただ、この国を良きものにしたいという理想に燃えている。生きたいと、願っているのだ。
 ずっと、命の使い方を考えている。この命を使って、何ができるか。何をすべきか。何がしたいか。考えども答えは出ず、もしかすると命尽きるまで解は出ないのかもしれない。ただ、それでも。自分は至らぬこの身を支えてくれた者達に報いることができる生き方をしたいと思うのだ。
 あの日、復讐の刃に背を刺し貫かれた時。ロドリグによって命の使い方を説かれた時。憎悪に燃える人殺しであった自分は死んだのだ。復讐という自身を形作り押し留める表層を割られ、虚ろで形を成さない俺という名の膿が止め処なく溢れていった。そうしてただ揺蕩う得体の知れない澱みに成り下がった俺を、掬い上げてくれた温かな手があった。受け入れてくれる人達がいた。その時、俺はようやく俺という形を知ることができたのだ。
 ぶるり。短い嘶きに意識を引き戻される。思考の海に沈み、溺れていたことにようやく気付いて手綱を握り直した。
 かつては数少ない楽しみに心躍らせていたというのに、今はそこを訪れることに躊躇いを覚えるのは、彼から奪ったものへの負い目があるからなのだろう。
 市街を抜けた先に現れたのは、フラルダリウス公爵邸である。
 本日ここを訪れたのは公務のためではない。ただ私的に友を訪ね、そして戻ることのない人々を悼み弔うためである。王家の紋があしらわれた馬車は王都に置いてきた。供もごく僅かな者だけで構成されている。
 自らの意思で、足で訪れることに意味がある──というのは自分が楽になりたいがための思い込みに過ぎない。起きた出来事は、犯した罪は、失われた命は、決して返らない。償うために何をすべきか、何ができるか。その考えに未だ答えを出せずにいる。
 屋敷に到着すると、先触れを受けて待っていた従者が恭しく頭を下げた。老齢に差し掛かろうかというその男は、自分やフェリクスが生まれる前から仕えている。深い皺が刻まれた目元はフラルダリウスの歴史だ。主人の屹としたものとは対照的な円い目で見つめられると、冷たい地下水が滴下するが如く溜まり続けた罪悪感が波立つ。
 この人は知っている。嫡男が、家長が、どのようにして死んでいったのか。王位を戴いている男が、いかに無力で浅薄であるのかを。だからこそ、自分は太平の世を築かねばならない。命を賭して繋いでくれたこの身には価値があったのだと、彼らの死は無意味なものではなかったのだと証明するのだ。
 訪った厩舎では栗毛の馬が静かに秣を食んでいた。入念に手入れを施された毛並みは実に美しく艶めき、その下には洗練された逞しい肉と激しい走行を耐え抜く強靭な臓がある。良い軍馬とは肉だけでなく臓も強くなくてはならないのだと教えてくれた人はもういない。
 馬上にいると落ち着くのは、輝かしい父の姿と、父のように慕った人の面影を感じられるからなのかもしれない。考えながら、厩に愛馬を預けて手綱を託すと、どこか気遣わしげに主を見つめる瞳があった。大丈夫だと告げるようにその首元を撫でてやれば、皮膚の下を巡る熱い血潮を感じる。その血液を送り出している心臓は、並の馬よりも大きなものであった。
 瞼を閉じ、短く息を吐く。感傷にざらりと荒れた心を落ち着けて顔を上げた。
 厩舎を出て、従者に連れられ玄関へと向かう。樫の大扉は貴族にしては飾り気がなく、それでいて施された浮き彫りが瀟洒で趣を感じさせる。普段は固く閉ざされているそれが開け放たれ、来賓を迎え入れようとしていた。
 邸内へと足を踏み入れると、すれ違う幾人もの使用人が頭を下げる。その度に罪悪感で逃げ出したくなるような思いに駆られた。一体何から逃げるというのだ。浅ましく卑怯な自分をもう一人の自分が冷静に見つめている。これが自分の選択の結果だ。それを受け止め、償うためにここにいるのではないか。分かっていても緊張の糸はどんどんと張り詰め、この身を雁字搦めに縛っていく。目を逸らすなと自身を叱咤し、燃え滓のような意思で糸を引き千切りながら歩を進める。ああ、やはり自分はただの臆病者だ。
 貴賓室の扉が開かれる。罪の意識の泉源がそこにいる。
 フラルダリウス公フェリクスは、来訪者の姿を認めると実に不機嫌そうな様子で舌打ちを一つ寄越した。顔を見るなり舌打ちとは随分な対応だと思うが、フェリクスが相手だと不思議と気にならない。揺るぎない思想を持ち、誰にも媚びることのない彼の気質はむしろ自分にはないもので好ましいとすら思う。
 不機嫌の原因は、やはり多忙のところに詰め込まれた国王の来訪予定であるのだろうかと当たりを付ける。彼は他者に縛られることを嫌う。本日フラルダリウス邸を訪れたのは自分の恣意であるので、そこは素直に詫びることにした。
「忙しい中時間を割いてもらってすまない」
 告げながら、用意された椅子へと腰掛ける。機嫌が直らないのであれば、今日は手短に用件だけ済ませて帰った方が良いかもしれない。
「今は情勢も落ち着いているだろうに、一体何の用だ」
 眇められた目が、真っ直ぐにこちらを捉える。鋭い視線は一切の虚飾と欺瞞を許さない。彼は、何を為すか、そして何を成したかを重視する。
「兵の配備について相談したい。あと……墓に立ち入らせて貰えればと、思う」
 各地の騎士団を再編するにあたり、配備する兵について相談したかったのは事実だ。ゴーティエが国防を担う巨壁であるならば、フラルダリウスは王都を守護する盾であり国内を平定する要である。フラルダリウス公たる彼と細かな部分を詰めておきたいとは以前から思っていた。
 しかし、本日フラルダリウス邸を訪った意義は、後者がほとんどを占めている。よくもそんなことが言えたものだと言われれば返す言葉もない。ただの独善で、自己満足だ。
 フェリクスは眉間の皺を深くすると、掛けていた椅子から腰を上げた。まさか対話の席にも着いて貰えないとは思ってもみず戸惑っていると、フェリクスが徐に振り返る。
「来い。国王を歓待せん訳にはいかんだろう」
 短く告げられ、慌ててその背を追った。対話を拒まれた訳ではないらしい。
 実のところ、フェリクスが考えていることはあまりよく分かっていない。自分などよりシルヴァンの方が余程よく理解しているだろう。互いに多弁な方ではなく、自分もフェリクスも口下手な人間であると思っている。彼との溝を感じていた時もあったが、今はこうして共に同じものを見ることができている。未だに分からない部分はあるが、仕方がないと諦めるのではなく知りたいと願うようになったのは彼との関係性が変化したからなのだろうか。
 二、三、指示を出し、堂々と歩みを進めるフェリクスの姿はフラルダリウスの家長たるものである。彼が家督を継ぐことを不安視する声がなかった訳ではないが、フェリクスは実績を以て黙らせてしまった。彼は立派に父の跡を継いでいる。後ろ暗い気持ちが込み上げるが、今はそれを考えるべきでないと蓋をした。
 そうして行き先も知らぬまま連れてこられたのは、手入れの行き届いた庭である。叢生は全て丁寧に整えられており、植えられた木々と花々を最も楽しめる位置に小さな卓子が用意されていた。
 フラルダリウス邸を訪う時はほとんど訓練所に詰めているか遠乗りに出ているため、庭を訪れる機会はごく少ない。幼少のみぎりに皆で遊んだ記憶が薄らと残っているが、それだけである。ドゥドゥーが好きそうな景観だと思った。
「ゴーティエやガラテアのようなものは期待するなよ」
 言いながら、フェリクスは椅子にどっかりと腰掛ける。ひとまず倣って腰掛けると、ほどなくしてやってきた使用人が卓の上に茶器を並べていく。フェリクスがおおよそ好みそうにない甘い菓子の類が卓を彩り、澄んだ琥珀の水色が杯を満たす。凪いだ水面から立ち上るのは馥郁たる香り。心地良いそれを愉しみながら、ふと気付くことがあり顔を上げる。
 ほんのりと、その目元が赤らんでいる気がするのは気のせいだろうか。
 以前、先生と市へ買い出しに行った際に語られた言葉が蘇る。茶葉を手に取りながら、皆それぞれ好みが違っていて楽しいのだと。『フェリクスは少し癖のある香りが好みのようだ』と教えられたものとは全く違う香りが卓に漂っていた。
 もしも、自惚れでなければ。彼は自分のためにこの茶葉を用意してくれたのではないか。茶請けの品は新鮮な牛酪がふんだんに使用されている訳でも、特別良質で香り高い小麦が使われている訳でもないが、幼い自分が好んでいた物ばかりが並んでいる。
 口元が歪むのを抑え切れない。いけない、とどうにか取り繕う。嬉しくて堪らなくて、実に不器用で迂遠な親愛が微笑ましくて。締まりのない顔を見られてしまえば、フェリクスは間違いなく席を立ってしまうだろう。彼自身、柄にもないことをしているという気恥ずかしさがあるはずだ。自分は彼と、この一瞬を少しでも多く楽しみたいのだ。
「ありがとう、フェリクス」
 多くは語らず、ただ一つ伝えたいことだけを笑みに乗せ、言葉にする。フェリクスは小さく鼻を鳴らしながら顔を逸らしたが、満更でもなさそうだった。
 言葉なく、互いに茶を啜り合う。不思議と気まずさは感じない。余分を好まない男が、ただ茶を嗜む余分を設けてくれている。それだけで、この上ない親しみを抱いてくれていることが分かるのだから。
 開かれることのない口を埋めるためか、フェリクスは俄に茶菓子を切り分け口に運び始める。彼は甘いものを好まなかったように思うが、大丈夫だろうか。懸念した途端、想像通りにフェリクスの顔が歪む。堪えきれずに笑みを零すと、恨みがましい視線を向けられた。
「やはり、お前が好む甘ったるい菓子は俺には合わん」
 もしや、彼なりの歩み寄りを見せてくれたのだろうかと遅れて気付く。それは申し訳ないことをしてしまった。フェリクスの行いを笑ってしまったこともあるが、何よりも自分は彼の気遣いに応えられないことが口惜しかった。未だこの舌は何の味も拾い上げられずにいる。
 味覚が欠如してしまっていることを伝えようか迷って、やめた。それを伝えたところで解決するようなものでもなく、ただフェリクスを悩ませる結果にしかならないだろうと思ったからだ。
 何と言って良いのか分からず、そうだなと曖昧に笑ってみせる。フェリクスはむっつりとしたまま残った菓子を口に運び、茶で流し込むと席を立った。
「茶の時間は終わりだ。さっさと会談を始めるぞ」
 突然の宣告に慌てながらも残った茶を飲み干し席を立つ。ずんずんと先を行くフェリクスに続き、談話室へと足を踏み入れた。幼い頃は父とロドリグの秘密の会話が気になって耳をそばだてたりしたものだが、自分達がその立場になると不思議と感慨深いものがある。
 あの頃は、今見えている世界が永遠に続くのだと思っていた。大きな父の背中を追いかけて、自分がその冠を受け継ぐのはずっとずっと先のことであるのだとばかり思っていた。そこにあったもののほとんどは、思い出という名の霞の向こうだ。
 卓を挟んで向かい合い、丹念に鞣された革の椅子に腰掛ける。かつては父達もこのように卓を囲んでいたのだろうか。持参した資料を広げ、提示するとフェリクスは一つ頷いた。
「教会から借り受けていた騎士団だが、来節の末には返還する予定だ。そこで新たに配備する騎士団についてお前の意見を聞いておきたい」
 ファーガスが国として機能していなかった時期から、教会の騎士団には随分と助けられてきた。彼らの力量を把握していることもあるが、信頼を置けるという点が非常に扱いやすい。教会は先生が指揮していること、そして政争と切り離された立場であることが大きい。
 しかしていつまでも教会の力添えを請うてばかりはいられない。思想の異を纏め上げてこそ国であり、清濁飲み下すのが王である。旧同盟領や旧帝国領のみならず、自国ですらきな臭い話は未だある。それでも他国であった場所の騎士団の本格的な登用に踏み切ったのは、彼らを弾圧する意思はないと示すためである。不穏な動きを炙り出せるのではという狙いもあるが、あくまでそれは副次的なものである。
「ガラテア領方面には他国の兵を多く割いてやった方がいい。北方には王国兵が適任だろうな」
 暫し考えると、広げた大陸地図と騎士団名簿を指しながらフェリクスが告げる。ゴーティエ領はスレンの存在もあり、あまり不穏を持ち込みたくないことについては同感だ。しかし、ガラテアに他国の兵を割けという言は分かりかねた。
「北方については同感だ。スレン族だけでも手を焼かされているからな……。しかし、ガラテア領は豊かとは言えない地域だろう。そこに他国の兵を割くのはガラテアに負担を強いる形にならないか」
 自領の自治ですら儘ならないというのに、そこに新たな不安要素を持ち込むのは得策とは言えない気がした。思ったことをそのまま告げると、フェリクスは地図に落としていた顔を持ち上げた。
「一度ガラテア領に行ってみるといい。遠方から学者を招いて地質改善を行ってから、実りが随分と良くなったらしい。嬉しいのかは知らんが、食い切れん量の料理を出してくる」
 その時のことを思い出したのだろう。げんなりとした様子で語る彼の眉間に深い皺が刻まれる。困りものではあるが、飢えに苦しみ続けてきたガラテア家にとって卓いっぱいの食事とは最も贅沢なものであるのだろう。茶の席において、期待するなという例に畜産で名を馳せるゴーティエと並んでガラテアを挙げた真意をようやく理解する。本題から逸れかけたところで、フェリクスは言葉を続けた。
「今後土壌の整備や交易を行うことを考えれば、騎士団を通じて他国とも繋がりがあった方がやりやすいだろう。北方は──スレンについてはゴーティエが交渉を続けているが、それよりも寒さで他の国の奴らは使い物にならん」
 重い溜息と共に、酷いものだったと不満が落ちる。意外な理由ではあったが、ガルグ=マクで過ごしていた時期は夏季の茹だるような暑さに頭を悩ませてきたので、温暖な気候で過ごしてきた者達にとって北国の寒さは耐え難いものであるのだろう。
 それに、降り頻る雪は敵の姿も味方の姿も、己が足跡でさえ覆い隠してしまう。雪道の歩き方、視界が悪い中でも相手を見つけ出す方法と姿の隠し方、怪我を負った場合の対処と一通り理解していないと容易に命を落としかねない。使い物にならないというフェリクスの言から察するに、登用を試してみたものの惨憺たる結果であったのだろう。北方に配備するのであれば、数年がかりの下準備が必要になりそうだ。
 更に意外であったのが、フェリクスがスレン族自体をあまり不安視していないことであった。ゴーティエにて交渉を行っているという報告を受けてはいたが、目覚ましい成果は挙がっていないと聞いていた。王への連絡は状況が動き出さねば行えないのだろうが、シルヴァンと親交の深い彼であればより多くの内容を知っているのかもしれない。
 それから更に議論を深めたが、彼から齎される情報はいずれも仔細なものであり、提言内容を興味深く感じると共に、フェリクスがここまで詳しく国内情勢を把握していることに驚いてしまう。彼はこういった貴族然とした役持ちや、人を指揮するといった行為があまり好きではないと思っていた。しかし、彼はフラルダリウス公爵として立派にその務めを果たしてくれている。それは偏に彼が日夜王国のために奔走してくれているからなのだろう。
「俺も各地の情勢をより深く知る必要があるな。今後は視察を増やして──」
「やめろ死ぬつもりか」
 言い終わる前にフェリクスが声を荒らげる。彼の話を聞くうちに自分の無知と視野の狭さに気付かされ、もっと国の実情を知ることから始めねばならないと思い至ったのだ。睡眠を幾分か削れば時間の捻出は可能であると考えていたのだが、それは彼の望む所ではないらしい。何のために俺が貴族の真似事をしていると思っている、とフェリクスは実に深く重い溜息を吐いた。
「フラルダリウス公には助けられてばかりいるな」
 こうしてフォドラの地が落ち着きを保っていられるのは、彼をはじめとする様々な人の力添えがあるからだ。感謝と共に告げれば、その眦が微かに上がる。
「どこぞの猪から爵位なんぞを押し付けられたからな。剣が鈍って錆び付いてしまいそうだ」
 生温い感慨に浸っていたところへ浴びせかけられた冷や水は、己が立場を自覚させる。にべもなく告げられた言葉に、自分がいかに愚昧であったかを思い知らされた。
 何を舞い上がっていたのだろう。何がフラルダリウス公として立派に、だ。フェリクスが公爵として働いているのは、家長と長子を共に亡くしたからではないか!
 現実が、冷たい腕でこの身を抱き締める。吸い込んだ息が、うまく吐き出せない。
 彼は、己が剣を極めたかったのではないか。己が剣と身一つで生きていく生き方を望んでいたのではないか。そして、彼の人生を歪めてしまったのは、他ならぬ自分ではないか。
 思考の濁流がこの身を攫い、動けなくなってしまう。何と言葉をかければ良いのか分からなかった。ざあざあ、ごうごう。無意味な思惟が流れゆく音だけが聴覚を支配する。
 後悔と言うには少し違う。あの時ああしていればなどという甘えた考えで救えるものは卑小な己が心だけだ。悔やんで戻るものなどありはしない。だからこそ、全て背負うと決めたというのにこの有り様だ。国の未来も、犯した罪も、何一つ背負いきれず、その重さに喘ぐ無様な生き物の何が王だろう。
「おい!」
 勢い良くぶつけられた音の礫にようやく意識が浮上する。すっかりと揉まれ流され、知らぬ場所に打ち上げられた思考がどこから転落してしまったものかと源流を辿っていると、低い唸りが一つ。今日はどうもフェリクスを苛立たせてばかりいる。
「話は終わりか」
「ああ。お前のおかげで得るものが多くあった」
 騎士団の配備についてはあらかた決め終え、後は細部の調整を残すのみだ。フェリクスの意見は地理からでは読み取れない部分を多く補い、実に意義のある会談であったと感じている。
 用件は終えたので、これ以上彼の機嫌を損ねてしまう前に帰った方が良いだろう。墓所を訪れたくはあったが、彼の意向を蔑ろにしてまで訪れる意味はない。いつか、立ち入ることができれば、それだけで。一人黄昏を臨むような憂いた思いで、屋敷を辞す挨拶をしようと開いた口は、音を発する前に低く鋭い声音によって遮られた。
「ならば早く支度をしろ。墓に行きたいのだろう」
 やはりフェリクスの情動はよく分からない。幼い頃は分かりやすくその心の機微を伝えてくれたというのに、今となっては彼の考えをうまく推し量れずにいる。『あいつの考えてることは単純ですよ、伝える言葉が全く足りないだけで』というのは兄貴分である男の言である。
 日頃女性の機嫌を窺っているような人間ならいざ知らず、こちらはかつて女生徒に追い回されてその人心掌握術に助けられた身分である。いくら単純だろうがそれを拾い上げられる観察眼がなければ知る術もない。それでも自分とフェリクスの繋がりが絶対のものであると断言できるのは、心からの思いを交わし合い、彼という人間の根幹を知っているからなのだろう。
 相変わらず先を行くフェリクスを追って談話室を出る。幼い頃は後を追いかけられる立場であったというのに、いつの間に逆転してしまったのか。今はもう何をするのも一緒ではなくなってしまったが、同じものを見てくれているのだと思う。それだけで揺るぎない友誼を感じられる。
 墓所はフラルダリウス邸から暫く馬を走らせた場所にある。従者が馬車を用意しようとしたが、フェリクスはごく短い言葉を以てそれを辞した。これから赴くのは個人的な弔いであり、そこへ多くの供を引き連れて行くのは静謐な墓所を踏み荒らすようで気が引けた。賊から身を守る程度は自分達で十分にできるので、親衛には待機を命じる。頷きはしたもののやや不安げな視線の意味が分からないでもない。
 戦乱を経てようやく国家として統一されたフォドラにとって、王とは国を支える巨大な梁である。失ってしまえば指導者を失くした大地が再び混迷に包まれるであろうことは想像に難くない。故に彼らは恐れる。王たる存在を失うことを。再び屍の山を踏みしだき、血で血を洗う日々を繰り返すことを。
 彼らが懸念するような事態は起こり得ない。その程度の力量はあると自負しているし、フェリクスの剣技の冴えはよく知っている。その剣に幾度も助けられてきた。並の相手であれば刃を届かせることすら敵わないだろう。それこそ、フェリクスが造反を企てでもしない限りは。あり得ないことであるとは分かっている。しかし──フェリクスが本気でこの首を望むのであれば、頸を差し出す覚悟はできている。
 決して表に出すつもりのない思いを胸に秘め、受け取った手綱を轡に通して鐙を履く。密かに隣を見遣ればフェリクスが手慣れた様子で馬に跨っていた。ファーガスに生まれた人間は文字より先に剣を覚え、歩くと同時に馬に乗る。それはフェリクスとて例外でなく、軽やかに騎乗するその所作はすっかりと体に染み付いたものであった。騎士として振る舞うことを嫌い、普段は己が足で地を踏み締め剣を揮ってはいるが、こういう時に彼もまたファーガスに生まれた人間なのだと実感させられる。
 二人並んで馬を走らせるとフラルダリウスの屋敷はみるみるうちに小さくなっていく。当然の如く交わす言葉はない。風を切って走る軽快な馬蹄だけが耳朶を擽り、喧騒を置き去りにしていく。あらゆるものから隔絶された穏やかな孤独は、騒がしくなりがちなこの胸をいつも落ち着かせてくれた。心から一切の音を排した、どこまでも広がる静寂が愛おしい。
 フェリクスは表情を変えることなくただ前だけを見つめている。結い上げられた髪だけが馬体の揺れに合わせて規則正しく上下しており、その横顔を照らす陽はやや落ちつつあった。墓所に着く頃には日暮れに差し掛かっているかもしれないと考えると同時に、思いの外フラルダリウス邸に滞在していたのだということに気付く。
 じわり、と。胸に温かなものが滲みゆく。彼はそれだけ長く共に過ごすことを許してくれているのだ。それに、フラルダリウスの墓所はかつて幾度か訪ったことがあり、終戦を経て執り行われたロドリグの葬儀にも出席している。場所は把握しているので、フェリクスが同伴する必要はないはずだ。しかし、彼はこうして付き合ってくれている。言葉はなくとも感じられるものがそこにある。
 墓所の近くで馬を降り、花売りの娘から供花を買った。朗らかな笑みを浮かべながら、娘は手際良く花を束ねていく。お好きだった色や花はございますかと問われて答えに窮した。彼らの得手や好む戦術は知っていても、好きな色や花など知るはずもない。折角の心遣いであるのに、応えられない自分がもどかしい。
「白でいい」
 背後からかかった声に振り返れば、フェリクスが仏頂面で腕を組んでいる。見かねて助け舟を出してくれたのだろう。しかし、彼らが白を好んでいたとは知らなかった。家族だからこそ知り得るものなのか、それとも自分の関心が無さすぎたのか。
「白が好きなのか」
「知らん」
 新たな発見に心躍らせていると、返ってきたのは短い一言で思わず間の抜けた声が漏れた。先程の迷いない答えは一体何を根拠に出したものであったのかと、呆気に取られると同時に感嘆すらする。煩くない色を選んだだけだ、とフェリクスはごくあっさりと言い放つ。
 答えのない問いに対して延々と煩悶してしまう自分に対し、彼はあっという間に『考えたところで仕方がない』と答えを出してしまう。縺れてしまった麻糸を研ぎ澄ました刃で断ち切るような清々しさである。それは自分にはない資質で、彼の持つ強さだ。迷いのない意志とその太刀筋は、実に心地良く好ましい。
 羨望とはまた違う。それらは個々の持つ気質であり、なろうと思ってなれるものでも、なりたいとも思わない。ただ、自分はそんなフェリクスという人間が好きなのだ。
「……では、綺麗な花を」
 改めて告げれば、娘は快活に頷いた。出来上がった花束は二つ分。白を基調として、淡い色の花々が互いを引き立てるようにして身を寄せ合っていた。瑞々しい生花が放つ青い香は冴え冴えとして緊張を誘う。これから墓所を訪うのだ、と。そこへ伸びてきた手が花束の一つをむんずと掴んで持ち去って行く。
「早くしろ」
 花束を携えたフェリクスが振り返り、短く促すと先を行く。止まりかけていた足を動かしてその後を追った。今日はずっと彼の後ろに着いてばかりいる。
 やがて現れた黒鉄の門は、世界を別つ境界のように見えた。門の先に広がるのは物言わぬ死者の国だ。空気が少し冷たく感じるのは、陽が落ちてきているからか、それとも温もりの消え失せた世界であるからか。
 墓守の老爺に挨拶をすれば、老爺は顔中に刻まれた皺を更に深くすると、よくおいで下さいましたと頭を下げる。長く墓守を務めてきたこの老爺もまた、フラルダリウスの歴史を知る者である。この地に生きる様々な命の終わりを間近に見つめ続けてきた老爺は、二代続けて遺体すら返らぬ領主家に何を思ったのだろうか。
 領主の墓は墓所の中でも最奥にある。老いてなお矍鑠とした老爺は真っ直ぐに背筋を伸ばし、ひたひたと前を行く。そこに一切の音を発しないのは、死者と語らう時間を邪魔しないためか、それとも生者の感覚が希薄であるからか。幼い頃は不気味なまでの静けさをどこか恐ろしく感じたものだが、今はその静寂が心地良い。老爺なりの死者への向き合い方を感じながら、それに倣って足音を忍ばせた。
 夕刻の迫った墓所を訪う者の姿はなく、様々な人物の生きた証だけがひっそりと息を殺すように立ち並んでいる。緩やかに伸びゆく影を見つめながら、この奥にある物は果たして『生きた証』と言えるのだろうかと考えた。彼らは満ち足りた生を終えることができただろうか。無念の中の死ではなかっただろうか。考えても栓なきことであるというのに、考えずにいられないのは性分なのだろう。
 我知らず、手に力が篭っていた。花束の包みがぐしゃりと鈍い音を立て、慌てて力を緩めながら深く息を吸い込む。やがて見えてきたのは墓所の最果て、領主家の墓である。いくつも並び立った墓石の中には真新しいものが二つ。それこそが、決して拭えぬ悔恨の証である。
 目的の場所への案内を済ませると、老爺は再度深々と頭を垂れて場を辞した。並んだ墓標の前にフェリクスと二人佇む。
 美しく手入れの行き届いた墓は、その人間がどれだけ慕われ、愛されているのかを表していた。そこに刻まれた文字が今更変わるはずもない。死した人間は戻らない。痛いほどに理解している現実が、事実としてただそこにある。赤く染まりゆく落陽が、墓石を見下ろすフェリクスの横顔に暗く濃い影を落としていく。その様はまるで一切の干渉を拒むかのようで、かける言葉を見失ってしまう。元より何を告げるつもりであったのかという話であるが、探していた言葉は影に飲まれてしまったのだとはっきり感じた。
 先に動いたのはフェリクスであった。手にしていた花束を、彼は兄の名が刻まれた墓標へと手向ける。淡い色調の墓石に、同じく淡い色合いで誂えた花々が静かに寄り添い、溶け込むように馴染んでいる。
 目の前の石にはロドリグ=アシル=フラルダリウスの名が刻まれている。当然だ。墓とは忘れぬため、或いは忘れられぬ者の思いに寄り添うために建てられる。これはロドリグが生き──そして死んだ証である。そこへ花を供えながら、浮かぶのは温かな思い出と苦い後悔ばかりだ。忘れることも、飲み込むこともできないぐずぐずとした思いが、離さないと囁きながらこの身を抱き竦める。
 悔やんだところで何ができる。分かっていながら懊悩を続けるのは逃避でしかない。彼らの死を認めたくない、子供のような我儘でしかないのだ。
「ただの石にいくら悔いても何も変わらん」
 低い声音が淡々と告げる。淀みない言葉は純然たる事実であり、未だ後悔という名の生温い檻に閉じ籠り続ける臆病者への糾弾でもある。
 石の下に、死体はない。掘り返せども、出てくるものは罪と後悔と思い出だけだ。
「そう、だな」
 死者を弔う墓石をただの石に変えてしまったのは他ならぬ自分だ。二人共、この身を生かすために死んでいった。ロドリグは自らの信念のために死ぬのだと言ったが、彼の最期があんなものであっていいはずがないと叫ぶ自分がいる。『あんなもの』にしたのは自分であるというのに。見渡す限りの地獄の中、苦しみ無念のうちに死んでいったグレンの顔貌は自分しか知らない。
 あったはずの輝かしい未来を摘み取り、生き長らえたこの肉体に、何ができるだろうか。己が可能性を全て擲ち、公爵として仕えることを選んでくれた──選ばざるを得なくなってしまった彼に、自分は一体何ができるだろうか。
 鐘楼で打ち鳴らされた鐘の音が、どこか遠くに聞こえていた。それが死者を弔うものか、それとも夕刻を告げるものであるのかは分からない。ただ、どこか物悲しい音色は、黄昏に染まりゆく景色と相俟って憂愁を掻き立てていく。
 ずっと、怖くて聞けなかったことがある。心の片隅にありながら、今もこうして居た堪れなさから彼の顔を直視できないように、目を逸らし続けてきたものがある。彼との強い絆を感じるほどに、その口から答えを聞くことが怖いのだ。
「フェリクス、お前は──」
 今の生き方に、後悔はないのか。俺が憎くはないのか。
 燃え盛る夕陽が、フェリクスの容貌を赤く照らしていた。眩いその光が、今まで見ようとしてこなかったものを照らし出す。
 彼は怒りに震えていた。屹とした目元は更に吊り上がり、その眉間には実に深い皺が刻まれている。固く引き結ばれた唇の向こう側では、軋まんばかりに歯が食い締められているだろうことは想像に難くない。興奮に開いていく瞳孔が、烈火の如き憤怒をただ静かに伝えていた。
「お前は俺に同じことを言わせるつもりか」
 微かに震えた声音は、抑え切れない情動を滲ませている。今までフェリクスがこうも感情を発露させたことがあっただろうか。苛立ちや辛辣な言葉を向けられたことはあれど、彼自身が動じることはあまりない。普段から泰然としている彼が、己を御し切れないほどに憤っているということが少し怖い。
「抜け」
 すらりと抜き放った剣と同じ鋭さをもった声が短く告げる。瞬間、心臓を掴む死の気配に気付けば剣を抜いていた。抜かねば死んでいたと、転がり落ちる己が首の姿を思う。遅れて響くのは鈍く刃がぶつかり合う音。
「っ、な……フェリクス!」
 繰り出される鋭い刺突を逸らし、斬撃を弾く。全力で挑まねばその瞬間に死が待っている。幾度となく手合わせをしてきた彼の剣はよく知っている。知っているからこそ恐ろしいのだ。無駄を削ぎ落とした動きに隙はなく、相手の命を刈り取る一瞬を窺っている。何よりも、彼の剣は疾い。しなやかな体躯から繰り出される剣技は、自重を乗せながらも圧倒的な速度を伴って届く。それは彼が今まで磨き続けてきた強靭な肉体があってこそである。
「おい、一体……くっ!」
 重い一撃が絶え間なく繰り返されるとこうもやり辛いものであるのかと、改めてフェリクスの技量を痛感させられる。言葉がうまく継げず、繰り出される攻撃を防ぎ続けることしかできない。ひりつくような殺気が肌を焦がし、剣身がぶつかり合うたびに腕が痺れる。
 フェリクスにならば、この首を渡す覚悟ができていた。彼が望むならばそれでいいと思っている。その思いは変わらない。
 強く息を吸い込んだ一瞬の後に、剣先が風を切って振り抜かれる。すんでのところでどうにか躱し、次撃に備える。足を踏み込み受け止めた衝撃を、そのまま全力で押し返した。フェリクスは傾いだ体勢を雪が落ちた枝のように弾ませると、勢いをそのまま切先に乗せて飛び込んでくる。
「ふう……っ!」
 漏らした声は果たしてどちらのものであったか。首を差し出す覚悟がありながら、こうして未練がましく剣戟を響かせている理由はただ一つ。訳も分からぬまま死にたくないからだ。
 自分はフェリクスから何も聞いていない。分かっているのは彼がひどく怒っていて、いきなり斬りかかってきたことくらいだ。何も分からぬまま、彼の思いを知らぬまま死ぬことなどできようものか。それだけが死に損ないの身を生かし続けていた。死ぬならそれでいい。ただ、自分は彼の友として死にたいだけなのだ。
 彼を簒奪者などにするつもりはない。死ぬのであれば全てを託して頸を差し出したい。それがフェリクスにできる償いであるのならば。そのためには問わねばならない。彼の怒りの根源を、そしてこうして剣を交えている理由を。
 ──それが家族を、未来を奪われた怨恨であったとしても。
 呼吸が乱れた一瞬は、練達の士にとっては永遠とも言えるほどの隙である。それを見逃すようなフェリクスではない。見惚れるような彼の剣技が、自分は昔から好きだったのだから。
 怯んだ剣先を弾き、フェリクスが肉薄する。その刃を防ぐ手段など残ってはいない。真っ直ぐにこちらを見つめながら、フェリクスは鋭く光る切先を突き出した。
 寸分の狂いもなく喉笛を裂き、切り落とすはずだった剣は喉元で眩く煌めいている。断ち切られるはずの首はまだ繋がっていた。ふうふうと肩で荒く息をしながら、フェリクスは射殺さんばかりの眼光を湛えて睨み付けてくる。状況がよく分からぬまま目を瞬かせていると、一点の曇りもなく磨き上げられた剣の先端がぷっつりと皮を破る感触。遅れて丸く膨らんだ血の玉が弾けて、細く一筋流れ落ちていく。状況が飲み込めないまま、頭は何故か冷静に『フェリクスの剣を汚してしまった』という場違いな思考を抱いていた。
 フェリクスが剣を引くと、喉に貼り付いていた威圧感も遠のいていく。フェリクスは未だ興奮に息を乱しながら、苦々しくその表情を歪めた。ああ、いきなり斬りかかってきておきながら、どうして彼が苦しそうな顔をしているのだろう。そんな顔をさせたくはないのに、その原因に皆目見当がつかない。数度深く息を吐き、そして吸い込むと、フェリクスは勢い良く口を開いた。噛み締めていた白い歯が顕になる。
「フラルダリウスの仇は今ここで殺した! だからその辛気臭い面を今すぐやめろ!」
 雷鳴のような一喝であった。耳に残る痺れが清々しくすらある。ああ、実に耳が痛い。あまりの痛さに笑ってしまいそうだ。全身から力が抜け、剣を落としてへたり込む。弛緩した顔は、実にみっともない表情を浮かべているのだろう。
「──はは、ははは! そうか……ああ、そうか」
 昔から彼は容赦ない。忘れられぬ悔恨を飲み込めと言う。幾つもの言葉を並べ立てるより、行動一つで示すのが彼のやり方だ。実に小気味好い。現に、この身を死なせず殺してみせた。『フェリクスの仇たる俺』を葬り去った。臆病な心の逃げ場を壊し、檻を出て己が足で歩けと叱咤する。実に容赦なく、そしてこの上ないお人好しだ。
 彼の目は鷹の目だ。後悔に曇りがちなこの目には見えないものをいつも捉えている。自分よりも一段高い場所から見た景色を、余さず伝えてくれるのだ。そんなフェリクスに自分は助けられてばかりいる。
 自分は彼に一体何ができるだろう。奪った者の贖罪としてではなく、一人の友として。彼から貰ったものに何が返せるだろう。今は何も考え付かないが、いつか見つけられるだろうか。彼に何かを返すことができるだろうか。胸を張って、その隣に立てるだろうか。
「フェリクス、お前に一つ言っておかねばならないことがある」
 取り落とした剣を収め、立ち上がる。生まれ変わった体は実に軽やかであった。フェリクスは目を眇めて続きを促す。
「俺の得手は槍だ。お前の得手でいきなり斬りかかって来て勝ちと言うのは不公平ではないか? 勝ちを宣言するなら、槍を握った俺を倒してからにして貰おう」
 正直に言うと、今回の結果を以て『勝ち』とされるのは実に不服だ。勝敗を競うのであれば、互いに万全を期して戦ってこそだろう。何よりも、フェリクスとこんな形で勝敗を決するなどあまりにも惜しく、納得できるものではない。彼との勝負は、もっと心躍るものでなくては。
 今後は定期的に手合わせの機会を設けても良いかもしれないと、抜けるように青い空のような心地で考える。この身にはやらねばならぬこと、やるべきこと、そしてやりたいことがまだ山積している。生きる意味が、確かにある。
 確たる意志を宿した双眸が、射抜くようにこちらを見つめている。やがてフェリクスは張り詰めた緊張を和らげると、口端を吊り上げて笑った。そうして実に楽しげにこう答えるのだ。
「──いいだろう」
 まっさらな心臓が力強く拍動し、全身に熱い血が巡る。熱を持ち、鼓動と共に広がっていくのは、瑞々しく燦然とした未来への期待である。


 ──ああ、自分はこの先一体何度死を迎えるのだろう。