花と汀

FGOベディぐだ

葬列

『花と轍』のおまけ冊子で触れた飛び込まなかった場合のバッドエンドです
また、ベディヴィエールの好感度が高くないと蔵で流されてくれずに寸前で窘められて逃亡イベントが起きず、屋敷で過ごす日々が続き、やがて立香は娶られてそのうちにベディヴィエールも郷里へ帰って独り隠遁するというエンドもあります


 英吉利を出て幾日過ぎただろうか。そのほとんどを自室の寝台で過ごすようになってしまったので、時間の感覚が曖昧だ。今日も、幾つもの目が立香を見下ろしていた。父から依頼を受けた使者達が、立香が逃げ出さぬよう、或いは自死したりせぬよう見張っている。
「お嬢様、間もなく日本です」
 告げる声は、知ったものではない。寂しかった。優しいその響きをくれる男が恋しかった。
 そう、と生返事を返して立香は寝台に臥せった。敷布に顔を埋めて目を閉じる。そこにあるのは深い闇。目を閉じてしまえば、何も見えないのだ。それは現実から逃避する行為に他ならなかったが、こんな現実を認めたくなどなかった。
 横浜からの経路は知っている。かつて自分がそうしたように、鉄道に乗って東京駅へ。そこから流しの車夫を捕まえれば、屋敷に着くのはあっという間だった。離れていた期間はさほど長くはないが、その景観を随分と久しく思う。
 先に開けられた屋敷の玄関扉を、立香はのろりと潜る。その時、自分はこの扉を開けられる立場に戻ってしまったのだと思い知らされた。廊下を進み、談話室に入ると、そこには両親が揃って立香を待ち構えていた。
「ああ立香! よく帰ってきた!」
「こんなにも心配をさせて、あなたという子は……!」
 立香の姿を認めるや否や、両親は立香を掻き抱く。随分と心配をかけていたようだ、と心の深い部分がちくりと痛んだ。暫く立香を抱き締めていた両親は、ようやく落ち着きを取り戻して立香を離すと、とんでもないことを口にした。
「しかし、あの異人め……立香を拐しおって……」
「折角引き立ててやったのに、恩を仇で返すなど卑しいにも程があります」
 恐らく、両親が言っているのはベディヴィエールのことだろう。余りにも事実とかけ離れたその言葉に、立香はたまらず声を上げた。ベディヴィエールは立香を連れ出すどころか、立香を屋敷に返そうとしていたのだ。立香が無理を言って英吉利に身を置かせていただけであり、何一つ悪い部分のない彼が悪く言われるのは我慢ならなかった。
「待って。お父様、お母様。ベディは何も悪くないわ、私が勝手に家を出ただけなのよ」
「いいんだ、立香」
「よくなんかないわ! 私の話を聞いて!」
 すっかりと言葉が乱れていることにも気付かない様子で、立香が食い下がる。しかし、立香の言葉は一切聞き入れられることがなかった。
 困ったことになった。久々に足を踏み入れた自室で立香は息を吐く。傍には常に使用人が付けられ、立香の動向を見張っている。どこに行くにも彼らは付いてきて、屋敷の外に出ようものなら、許可されていないと立香を押し込めた。言ってしまえば軟禁状態になってしまったのである。
 バルコニイから、今はもう出ることすらできなくなってしまった庭を眺める。桜の木は葉を茂らせ、どこからともなく蝉の鳴き声が聞こえてくる。そういえば、と記憶を辿って視線を走らせると、遠くに白い花が咲いているのが見える。バルコニイからではよく見ることはできないが、かつて立香がねだった百合の花なのだろう。翁はいい仕事をしたに違いない。それを近くで見ることができないのが、とても残念に思う。燦然と輝く真夏の陽光が、立香の頭をじりじりと焼く。それに比例するかのように、立香の胸に宿る焦燥も燻っていくのであった。
 変化は、そう時間を置かずに訪れた。藤丸の家に、異国からの来訪者がやってきたのである。
 階下に降りようとした立香の耳に飛び込んできたのは、父の怒号であった。何事かと階段を下りると、そこにいたのはひどく怒った様子の父と、それに相対するかつての使用人の姿であった。
「ベディ!」
 求めていた姿に駆け寄ろうとするが、それは使用人によって制される。立香に気付いたベディヴィエールが安堵したように笑んだのも束の間、彼は父によって追い出されてしまった。必死に言い募る声が遠くに聞こえていたが、それはやがて蝉時雨に掻き消されていく。
 彼が来てくれたことは嬉しいが、これから一体どうなってしまうのだろう。立香の胸に広がる漠然とした不安は、やがて現実のものとなるのだった。
 はあ、と深い息が我知らず漏れる。見下ろす窓の向こうには、今日もベディヴィエールが立っている。来る日も来る日も、彼は真夏の陽の下に立ち続けていた。そんな彼の訴えに耳を傾けようともせず、父は邪魔だとばかりに彼をあしらってる。白皙の肌は、随分と焼けてしまったように思う。その変化に彼もやはり生きた人間なのだと思うと同時に、そんな彼を拒み続ける父にもどかしさを覚える。
 自分に何かできることはないだろうかと考えるが、立香は屋敷から出ることすらできない身であり、こうしてベディヴィエールの姿を遠くから見守ることしかできない。父に何度も嘆願をしてみたが、右から左といったように全く取り合って貰えなかった。
 今日も蝉が命を燃やすかのように鳴いている。その鳴き声を聞いていると、感じる暑さも一入である。今まで真夏の時期は別荘へ避暑をしていたため、こうして屋敷で過ごすのは随分と久しい。真夏の帝都は随分と暑いものなのだと感じていたその時であった。
 外に立つベディヴィエールの体が不自然に傾ぎ、そのままばたりと地に倒れ伏してしまったのである。
「ベディ!!」
 叫ぶのと、走り出すのは同時だった。立香を見張る使用人は反応しきれず、捕まえようと伸ばされた手は空を切った。屋敷を飛び出し、ベディヴィエールのもとへと駆け寄る。抱き起こした体は、人間の体とは思えないほどに熱かった。それだけで、ベディヴィエールが危篤な状態なのだと理解する。
「ああベディ、しっかり……! お願い、誰か、誰か……!!」
 声を枯らしてしまいそうなほどに叫ぶ立香に、どうにかしてやりたいと思ったのか、それとも屋敷を支えていた使用人の姿に感じるものがあったのか。屋敷から使用人が現れて、ベディヴィエールを介抱し始める。寝台に寝かせたベディヴィエールは、ひどくぐったりとしていた。
 暫くして屋敷にやってきた医師は、どうしてこんなことになるまで放っておいたのかと息を吐き、彼がひどく危険な状態であることを告げた。そうして出来る限りの手を尽くされたが、彼が目覚めることは、もうなかった。医師が力なく首を振りながら何かを言っている。よく分からない。ベディヴィエールの頬に触れる。あれだけ熱かった体は、今は冷たくなっていた。陶器のようだ、と思った。その瞬間、彼がもう生きた人間ではないのだという実感が、まるで今まで息を殺していたものが現れるかのように生々しく湧き上がる。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。ただ、ベディヴィエールの傍に居たかっただけだというのに。英吉利へ渡ったことが間違いだったのか、彼に想いを伝えたことが、この気持ちを抱いてしまったことが、間違いだったのだろうか。
 息が、できなくなる。自分が今までどうやって呼吸をしていたのかが分からない。立香は息苦しさに胸を喘がせ、華奢な体が頽れる。曖昧になっていく意識と共に、狭窄していく視野。ゆっくりと闇に飲まれていく中──ああ、目を閉じてしまえば何も見えないのだと、そう思った。
「お嬢様は気違いになってしまわれた」
 誰かがそう言っていた。よく分からない。
「お労しいけれど、気味が悪いわ」
 よく、分からない。
「華族のお嬢様なら、ああなっても貰い手が付くのね」
 何を言っているのか、分からない。
 ああ、そんなことよりも行かなくては。寝台から体を起こして立ち上がる。探さなくては。一体どこにいるのだろう。部屋を出る。いろんな部屋を覗いていく。廊下を歩く。外に出る。探す。探す。茂みの中、木の洞。歩く。歩く。一体どこにいるのだろう。
「お嬢様! 勝手に出歩いてはならないとあれほど……」
 近くで誰かが何かを言っている。よく分からない。分からないから、探すことにした。もしかしたら木の上かもしれない。樹皮に手をかけようとすると、誰かに腕を捕まえられる。どうしてこんなことをするのだろう。分からない。
「お嬢様、あの人はもういないのです。さあ、屋敷に帰りましょう」
 言っていることが、よく分からない。分からなくて、首を傾げた。はあと息を吐く音がして、腕をぐいと引っ張られる。周りの人はみいんなこうだ。立香が探そうとするとすぐに立香を捕まえてしまう。そうしてよく分からないことを言うのだ。
「今日はあの方が見えられますから、着替えて足の泥を落としましょう」
 屋敷に帰ると、裸の足を盥の中に押し込められる。小石を踏んでしまったようで、少しじんじんとして痛かった。襦袢の上から何かを着せられる。胴が締め付けられて少し苦しい。髪に櫛を通したり、何やら身に付けさせられたりして、まるでお人形になってしまったようだ。
「こんな娘を貰ってくだすって有難い限りですわ」
「少し混乱しているようですが、体に問題はありませんから、子を産むことに支障はないかと」
 ようやく開放され、腕を引かれて部屋を出ると、何やらまた誰かが話している。よく分からないまま大きな手に引かれて歩かされた。一体どこに行くのだろうか。押し込められた車の中で、がたりごとりとただ揺られる。
「おい」
 誰かが何かを言っている。
「おい!」
 先程よりも強く、何かを言われて腕を掴まれた。一体何なのだろう。よく分からない。首を傾げると、腕を掴む力が強くなって、少し痛い。じっと誰かがこちらを見ている。どうしてなのかは分からない。
「こんな……こんなお前が欲しかった訳ではない……っ!!」
 何かを言われたけれど、よく分からない。ただ、とても苦しそうな声だと思った。どうして苦しそうなのだろう。どこか痛いのだろうか。分からない。ただ、よく分からないことを口にして、とても辛そうに立香を見るのだ。見ていると苦しいのなら、見なければいいのに。よく分からない。
 誰かは尚もじっと見つめている。射殺さんばかりの激しい情の滲む視線を向けられながら、探さなくては、と立香は思った。
 彼は、一体どこに行ってしまったのだろう?