花と汀

FGOベディぐだ

『花と轍』のおまけ冊子に付属していた本編後の小話
サーヴァントが酔うには相当な量を飲まねばならず、ベディヴィエールがそこまで飲むとは考え難いので、人間設定を使って酔わせた模様


 大きな都市を出て、新たな場所へ移り住んで暫くが経った。変化する暮らしに、立香は持ち前の明るさと好奇心の強さで順応し、今ではすっかりと人々の間にも馴染んでいる。
 今日は朝から知人の畑の収穫を手伝った。刈り取った小麦を両手一杯に抱えて運んでいるうちに、陽はあっという間に高くなった。金色の海のように揺れていた畑は、収穫を終えてすっかりと風通しの良い姿へと変わっている。
 ベディヴィエールは普段は近くの街へ行って洋琴を教えているのだが、今日は休みを貰っていた。共に収穫に精を出し、一仕事終えて今は紅茶と共に寛いでいる。手伝いの礼にと頂いた焼き菓子を頬張っていると、屋敷にいた頃を思い出す。夫人手作りの焼き菓子は、あの頃口にしていたものとは随分と質が違うものであるが、これはこれで良いものだと立香は思う。菓子の他にいくつか野菜も頂いたので、夕食はこれを使ったものにしても良いかもしれない。
 しかし、未だに家事は全般的にベディヴィエールが担っている。相変わらず朝は早く、立香を起こさぬよう慮っているのか物音を立てることもなく。立香が目覚める頃には全てが終わっているというのが常である。ベディヴィエールに生かされているという事実は拭えないが、簡単なことであれば少しずつ手伝わせて貰えるようになったのは進歩ではないだろうか。近くに住む夫人に家事をあれこれと教わってはいるのだが、道はまだまだ険しそうである。
「貴女が居てくださるだけで、私は十分なのです」
 甲斐甲斐しく世話を焼きながら、ベディヴィエールはそう言う。一緒になってなお、彼は立香に敬語を使っていた。変える機会を逸してしまった互いの口調であるが、今までずっとそうであったのですっかりと馴染んでおり、それはきっとこれからも続くのだろう。
 立香としては、求められるがままに何かを彼に差し出したいような気持ちはある。だが、関係が落ち着いたからか、今まで抱いていたような焦燥めいた気持ちはなく、ゆっくりと変化を慈しもうという思いがあった。時間はたっぷりあるのだ。
 穏やかな茶会を終え、干していた洗濯物を取り込もうとベディヴィエールが席を立つ。それに続こうとした時、玄関の扉が所在を伺うように数度叩かれたのを立香は聞いた。
「私が出るわ」
 近くの住人であろうかと思いながら足早に玄関へと向かい、返事と共に扉を開ける。しかし、立っていたのは見知らぬ男であった。胸元まで伸ばされた鮮やかな赤毛が目を惹く細身の男と、真昼の陽のようなあたたかみのある色をした髪を持つ大柄な男の二人組である。覚えのない顔に首を傾げていると、まるで彼らは立香のことを知っているかのように気さくに声をかけてきた。
「ああ、貴女が……!」
「瑞々しくもどこか青い、可憐な蕾のようで実に愛らしいですね」
 状況がうまく飲み込めず、目を瞬かせる。すると、背後からベディヴィエールが駆けて来る足音が聞こえてきた。どうやら彼の客人であったらしいと思い、ほっと胸をなでおろしていると、ベディヴィエールが飛び出してくる。
「あ、貴方達は……!」
 驚きに目を瞠り、ひどく動揺した様子の声音を聞く限り、それは彼が想定していた来訪ではなかったようだ。
「お邪魔しても?」
「え、ええ……」
 にこやかに入室の伺いを立てられ、たじろぎながらもベディヴィエールが頷くと、男達が玄関を潜って家の中に入ってくる。ひとまず部屋に通して椅子に腰掛けるよう勧め、彼らに向かい合う形で立香とベディヴィエールも座った。
「お久し振りです、ベディヴィエール」
 言いながら男が和やかに笑う。未だに素性の知れぬ男達を前に、立香の身はやや硬い。その不安を解くように、ベディヴィエールは立香に告げる。
「紹介します。トリスタンとガウェイン……同僚です」
 どうやらこちらで人仕えをしていた頃の縁らしい。立香も頭を下げて挨拶をする。名を名乗ると、不思議な響きだという評を得た。屋敷ではベディヴィエールの名が珍しかったように、異国の地では立香の名も聞き慣れないものなのだろう。
「しかし……よくここまで訪ねて来ましたね」
 今現在、立香とベディヴィエールが居を置いている地は市街からは程遠い。遠路はるばるやって来なければ、基本的に外からの来訪者は来ないのだ。ベディヴィエールの問いに、トリスタンは口元を僅かに綻ばせた。
「友から生涯の伴侶を得たという便りを貰って祝わない訳がない。ランスロットとモードレッドにも声をかけてみましたが、ランスロットはご婦人を見に行くことにご息女の不興を買ったようでして……」
 ごそりと鞄を探りながら、言葉の続きを今度はガウェインが引き継ぐ。
「モードレッドからは断られてしまいましたが、こんな物を貰いましたよ」
 そうして机の上に出されたのは大きな酒瓶で、貼られたラベルを見るにどうやらそれは林檎酒のようであった。私からはこちらを、と言いながらそこに葡萄酒の瓶がいくつか足されていくと、机の上はあっという間に埋まってしまう。
「友との祝杯こそが、飾らずとも貴い贈り物でしょう」
 唖然としながら見守っていると、トリスタンがそう言ってみせる。すると、隣でベディヴィエールが大きく息を吐いた。
「調子の良さは相変わらずですね……軽く何か用意してきます」
 言いながらベディヴィエールが席を立つ。呆れの滲む声であったが、その表情はどこか少し嬉しそうに見えた。成程、立香の知らぬ関係性がそこにあるらしい。新たな一面の発見に立香は顔を綻ばせると、来訪者二人に向き直った。
 本来ならば立香が台所に立って肴を用意すべきなのだが、立香にそれほどの腕はなく、来客をおざなりにするのも良いことであるとは言えないだろう。自然、立香が残って二人の相手をすることになるのだが、どうにも格好が付かないのが恥ずかしくある。興味津々といった様子で向けられる視線に、立香は頬が熱くなるのを隠せない。
「しかし、ベディヴィエールが異国の姫君を貰ってくるとは驚きました」
 棚から杯を取り出し、葡萄酒を注ぐ。その際にガウェインからかけられた言葉に立香は動揺して瓶を落としそうになった。
「私のことを存じていらっしゃるのです?」
 立香はこれまで自身の名前しか告げていなかった。藤丸の家は日本の中では知る者はいるだろうが、異国に通じるほどの知名度はない。つまるところ、この男が立香のことを知っていなければ、立香の身元は分からないはずなのである。何かしらの方法で調べたのか、もしかすると今回の来訪は立香に何か思うところがあってのことなのだろうか。穏やかでないものを感じて立香は身構えるが、それは杞憂に終わった。
「いえ、失礼ながら。しかし貴女の振る舞いは普通のご婦人方とは違う。洗練されていて気品があるのです」
 人を見る目はあるつもりですので、と続けたガウェインに、またしても立香は驚かされることになった。もっと淑やかになれと母から散々に注意され続けてきた身であるので、まさか気品があるなどという言葉を貰うとは思ってもみなかったのである。
 熱くなる頬に手を当てて、立香は自らの杯に林檎酒を注いだ。口を付けると仄かな甘みが舌に広がり、爽やかな林檎の香りが鼻を通り抜けていく。酒はあまり得意な方ではないのだが、好ましい味だと感じた。ほんわりと体の熱が上がっていくのを感じながら、立香は簡単に自身の身の上を話す。
「して、我が友は寝台ではどのようなことを囁くのです?」
 暫くあれやこれやと語らっていると、問いかけられたのはそんな内容であった。くすぐったさを感じながら答えようとすると、それはやって来たベディヴィエールによって遮られることとなる。
「……トリスタン? 一体何を言っているのです? つまみ出しますよ?」
 表面上はにこやかに笑っているように見えて、その目は全く笑っていないのが分かる。その声も随分と冷ややかであった。料理を盛った皿を卓子に並べ、小さく息を吐きながらベディヴィエールは自身の椅子に座る。あまり詮索をされたくないのだろうか、と彼の不機嫌の理由を考えてみたが、少し他人に自慢したい気持ちになり、立香は自身が毎夜与えられている幸せを言葉にして紡ぎ出した。
「ベディは、その日あったことや、嬉しいこと、楽しいことを話してくれるんです。私の髪を優しく撫でてくれて、そうして一緒に眠ることを私、とても幸せに思いますのよ」
 その時のことを思い出し、胸がほんのり温かくなる。隣にいる男が、たまらなく愛おしく感じるのだ。
 甘い告白をする立香に、全員の目が向いていた。惚気すぎただろうかと少し照れ臭く感じたが、どうも皆の様子がおかしい。彼らの視線から滲むのは、呆れではなく驚きと言うに相応しい。不思議に思い首を傾げると、目の前に座る男二人が同時にベディヴィエールへと向いた。勢い良く向けられた顔にベディヴィエールが窮したのも束の間、彼らはそのまま一気に詰め寄ってくる。
「し、信じられない……! まだ抱いていないのですか彼女を!」
「私は悲しい……このように可憐な女性がまだ無垢なまま放っておかれているなど……」
「え、ええと……それは……」
 先程までの雰囲気は一変し、一転攻勢に出た二人によってベディヴィエールが眉を下げて狼狽える。翻弄されっ放しのベディヴィエールの様子が少しおかしくなって、立香はくすくすと笑った。何事かと再び集まる男達の視線に、ますますおかしい気持ちになる。
「貴方達、本当に仲が良いのですね。こんなベディを見るのは初めてで……」
 彼らの関係性を、少し羨ましく思う。立香には見せることのないベディヴィエールの姿を引き出していく彼らが。自分は一体どこまで貪欲になってしまうのだろうかと考えつつ、立香は林檎酒の杯を傾ける。
 それから思い出話に花を咲かせる彼らの会話に、立香はじっと耳を傾けていた。自分が知らぬベディヴィエールのことを、もっともっと知りたかった。

* * *

「ではそろそろ我々はお暇しましょうか」
 そう告げて来訪者二人が立ち上がる。それに倣って立香も立ち上がるが、ベディヴィエールは卓子に伏したままであった。無理もない。彼は杯が空く暇がないほどに酒を注ぎ続けられていたのだから。自制して断れば、今度は立香に酒が勧められる。必然的に彼は酒を呷り続けることとなり、白皙の頬は酒気を帯びて赤く染まっていた。こんな彼を見るのも初めてのことである。
「今日は来てくださってありがとうございました。ベディもお二人とお会いできて嬉しかったと思います」
 ベディヴィエールを残し、玄関まで二人を送る。立香が頭を下げると、彼らは先程までの和やかな色を消し、真摯な瞳で立香を見つめる。そのことに少し驚いていると、感慨の滲む声で彼らは語り始めた。
「主を亡くした時の我が友は、今にも死んでしまいそうで見ていられなかった。その彼があのような姿を見せるようになるとは……貴女には感謝しなくてはなりません」
「ベディヴィエールがああも取り乱したのは、貴女のことだったからですよ。私達ではあんな彼は見られません。貴女が少し、羨ましくあります」
 今日のベディヴィエールの姿は、気の置けない友人との再会によるものだと思っていたので、その言葉は立香にとっては意外なものであった。実際のところはベディヴィエールの胸の内にしかないので分からないが、自分という存在が彼にとって何か影響を及ぼせるようなものであったなら、それは嬉しいことだと思う。
「泥酔するベディヴィエールなど滅多に見られるものではありませんから、存分に楽しんでおくといいですよ。ああ、あと──」
 思い出したようにガウェインは立香に何事かを告げる。その場に居合わせていなかったベディヴィエールが、その内容を知ることはない。そうして軽く笑ってみせると、来訪者達は悠々と去っていった。それを見送って、立香はベディヴィエールのもとへと戻る。随分と酔っている様子だったので、早く寝かせた方がいいのかもしれない。
「お一人で見送らせてしまい、申し訳ありません……」
 部屋に戻ると、立香の姿を認めたベディヴィエールがゆらりと立ち上がる。その顔は未だ赤く染まっており、立香は慌ててベディヴィエールに駆け寄った。
「気にしないで。歩けるかしら? 随分酔っているみたいだから無理は……」
 言葉の続きが、紡げない。こちらをじっと見つめる、熱っぽく潤んだ瞳に心を奪われたからだ。普段は落ち着いた色をしている理知的なその目が、今は甘い蜜のようにとろりと蕩けている。そのことに、立香は怖気にも似た興奮を覚えていた。
 小さく首を傾げる様子は、無垢な子供のようでありながら、はっとするような色香を帯びている。何故こんなにも彼を艶っぽく感じるのだろうか。戸惑う立香に、ベディヴィエールはゆっくりと距離を詰める。あっと思った時には、既に立香はベディヴィエールの腕の中にいた。背に腕が回され、ぎゅうと力が込められる。密着した体から、熱い体温と胸の鼓動を感じた。
 重そうな頭が、立香の肩口にずしりと埋められる。剥き出しの素肌に触れる柔らかな髪、掠める鼻先。何やらいけないことをしているような気分になって、立香は余計にどぎまぎとしてしまう。
「ああ……お嬢様の匂いだ……」
 恍惚とした声がそう言った。葡萄酒の酒気が強くてよく分からないが、自分は一体どんなにおいをさせているのかにわかに気になり始める。変なにおいをさせていたりはしないだろうか。一度そう考えてしまうと落ち着かない。
「わ、私……変なにおいをさせているかしら……?」
 ふっとごく近くで笑う気配がした。首筋にかかる熱い吐息が、立香の滑らかな肌を撫でていく。産毛の一本まで神経が通ってしまったかのように、その感触を鋭敏に拾い上げて肌が粟立ちそうなむず痒さを感じた。
「お嬢様の匂いは、心が安らぐ……どこか懐かしいような気持ちになるのです……」
「そ、そう……」
 鼻から抜けていく息の音がいやに色っぽくて、どくりどくりと跳ねる自身の心臓の存在を強く感じる。皮膚に触れる感触全てが、一つずつ鮮明に感じられる。自分の体がベディヴィエールの全てを余すことなく求める器官へと変わっているような気がして、どうにも形容し難い羞恥に立香はぎゅっと目を閉じた。
「失うことが怖くて、大切な物を作らないようにしてきました」
 かかる吐息、声音の震え、仄かな熱気。それら全てが、立香の首元を愛撫していく。何なのだろう、これは。初めての感覚に、ぼんやりと酩酊したような頭は思考を放棄する。肌が、熱くなっている。それは自分でもよく分かっていた。
「でも……貴女は真っ直ぐに私を求めてくださった……信頼を以て飛び込んできてくださった……」
 柔らかな唇が、熱く火照った肌に触れる。突如として駆け抜けた痺れに、立香は身を竦ませた。自分は一体どうしてしまったのだろう。自分の体であるのに、それがよく分からず困惑する。
「貴女が欲しいと思う、触れたいと思う……ですが、怖いのです……貴女を穢しはしないか……壊しはしないだろうかと……」
 彼は、恐れているのだろうか。主を亡くし続けてきたように、立香もまた失くしてしまうのではないかと。そうして躊躇っているのだろうか。立香に触れることに。彼から後悔と懺悔を聞いた時のことを思い出し、立香はそろりとその大きな背にほっそりとした腕を回した。
 熱い体が密着する。体を抱き締める腕の力が強くなり、立香は息を零した。口付けを落としながら、首筋を辿るように、ベディヴィエールの唇が這っていく。我知らず、小さく短い声が出た。この感覚の正体は、未だに分からずにいる。制御ができない。そのことが、ほんの少し怖い。
「ああ……愛らしい……愛おしい……」
 耳元に捩じ込まれる、甘く蕩けた囁き。立香はふと、以前食べた水蜜桃のことを思い出した。薄い皮を剥くと、瑞々しく果汁が滴る果肉が現れるのだ。柔らかなそれを食むと舌の上で解け、甘く芳醇な香りが広がっていく。その水蜜桃のように、自分も食べられてしまうのではないかと、くらくらとした頭で漠然と考えていた。
 ベディヴィエールが触れると、得も言われぬ疼きが走る。ぞくぞくとして、身が震えるのだ。心臓の音が煩い。どうしてこんなことになっているのかは理解できないのだが、これが彼に与えられているものなのだということだけは分かる。
 これから自分は、どうなってしまうのだろう? 耳朶に触れる唇の感触を感じながら、立香は思惟した。
「だから……もう少しだけ、時間をください……私は、貴女を──」
 言葉の続きはなかった。代わりにずしりとした重みを感じ、支え切れずに立香はそのまま椅子の上へと倒れ込む。来客用の長椅子で助かった。普段使いの椅子であれば、そのまま一緒に倒れてしまっていただろう。
 下敷きになっていた立香はどうにか這い出すと、投げ出されたままのベディヴィエールの手足を椅子の上へと持ち上げる。本当は寝台まで運びたいところだが、脚を持ち上げるだけで精一杯の立香に彼の体を運べるだけの力はない。持ってきた毛布をその大きな体躯に広げると、静かに寝息を立て始めたその容貌を眺める。
 酒に酔うと、理性の箍が外れやすくなるらしい。告げられたものは恐らく彼の本心なのだろう。触れることに躊躇っているようであったが、立香は彼の前からいなくなるつもりなどない。だから、ベディヴィエールの心が決まるまで、待とうと思った。どれだけ触れても壊れたりはしないのだと、抱き締め合って笑うのだ。
 立香は和やかに目を細め、ベディヴィエールの頬を撫でる。相変わらず陶器のような頬であると思うが、触れたそれはじんわりと熱を持っていた。上気したその血潮の色が、生きているのだと雄弁に語る。指先を滑らせ、薄い唇を撫でると、それが触れていた時のことを思い出して体の芯が微かに熱くなる。
 まるで打ち寄せる波のようであったその感覚は、一体何であったのか。いつかそれが分かる時が来るのだろうか。
 己の首筋にそっと触れる。未だに残る淡い痺れを感じながら、立香は片付けをしようと立ち上がった。
 来訪者から教わった『お誘い』を実践してみた立香に、ベディヴィエールが翻弄されるのは、まだ少し先の話である。