花の色、未だ知らず。

FE風花雪月その他

 温室は穏やかな静寂に満ちている。訪う者を拒むことなく受け入れ、植えられた幾つもの花々が楚々として佇んでいる。以前はその色彩を楽しみに多くの人々が集っていたが、修道院から人の姿が消えてからはすっかりと寂れてしまった。
 久々に足を踏み入れたその場所は見る影もないほどに荒れ果てており、彼は悲しむだろうなと思ったことを覚えている。王国軍の活動拠点をガルグ=マクに据えてからは皆で整備を行い、以前の姿を取り戻すことができた。ただ一つ、戻らないものがあることだけがベレスはずっと気掛かりであった。
「これなんだけど……」
 言いながらベレスは花壇の一角を指す。柔らかな土の上で、鮮やかな緑が大きく葉を広げていた。だが、心なしかその姿は力ないものに見える。
 見上げる頼りない視線の先で、ドゥドゥーが静かにひとつ頷いた。巨躯から伸びた大きな手、その先にある太い指が葉に触れる。指先はごく優しく葉脈の上を滑り、今度はその下にある土を掴んだ。掌の上でほろほろと砕けていくその感触を確かめ、じっと目を凝らし、やがてドゥドゥーは再び深く頷く。
「水の量が多すぎるのだろう。この花は適度に乾燥した環境を好む。水は表面が湿る程度で大丈夫だ。後は、土に砕いた枯葉を混ぜてやるといいだろう」
 理路整然と述べられる見解に、今度はベレスが頷きながら枯葉を集めてばりばりと砕く。混ぜ込む際に触れた土は、しっとりと湿り気を帯びて冷たい。次に水をやる時は加減をしっかりと見極めようと心に誓った。根腐れは起こしていなかったようでほっとする。こうしてドゥドゥーに教えを乞うことができて、本当に良かったと改めて実感した。
「君が死んだと聞いた時、せめて故郷の花を供えてあげたいと思ったんだ」
 彼が故郷の花を育てていたことは知っていた。五年の歳月を経てすっかりと変わってしまった温室の中で、記憶の中にある場所を必死に探り、知った姿を見つけた時、この上なく安堵したのだ。弧月を超えて咲くはずだった花を見ることもないまま、ベレスは深い眠りに就いてしまった。
 だからこそ、この花を咲かせて捧げようと決めたのだ。
 しかし、ベレスがどれほど手をかけ育てようとも、その植物は決して花をつけることのないまま季節はすっかりと春を迎えてしまった。何か手がかりが見つけられないかと修道院の書物を片っ端から捲ってみるも、まるで詮索を拒むかのようにダスカー半島の種についての記載がなかった。
「どれだけ調べても育て方が見当たらなくて、このままでは枯れてしまうと思った時、すごく怖かった。君が残したものを守れないまま、君の故郷について知ることができないまま無くしてしまうということが、私はとても怖かったんだ」
 誰も育て方を知らないその花を、一人慈しみ育てていた大きな背中。ここで確かに息衝いていた彼の故郷が無くなってしまう。それは嫌だと思っても、止める手立てがないのだ。なんとそれは絶望的なことだろう。
「君が生きていてくれて良かった。ここに戻って来てくれて、こうしてまた話すことができて、本当に……良かった」
 淡々と続くベレスの独白を、ドゥドゥーは黙って聞いていた。生徒として共に過ごしていた時分に比べて随分と傷が増えてしまったが、目の奥に灯る優しくも強い熱を宿した色は変わらない。今も昔も、彼は主君を守り抜くため生きている。
 その生き方は彼に根付いた在り様で、自身の命の薪を燃やす炉だ。幼き日の出来事と、そこで見た鮮烈な光に、彼は生きる道をこれと定めた。誰に何と言われようともそれが覆ることはないのだろうし、それでいいと思う。
「先生、一つ頼みがある」
押し黙っていたドゥドゥーは、重く短く口を開く。彼は多くの言葉を語らないが、その響きの一つ一つが実に重厚に届くのだ。何かな、とベレスは続きを促す。
「俺が死んだ時、この花を供えてくれないか」
 その視線は、未だ葉だけを伸ばしている植物に向けられている。やがて次の春が巡ってくる頃には、その姿を見られるのだろうか。
「わかった」
 悲しむ言葉も、縁起でもないという叱りもなく、ただベレスは頷いてみせる。そのことに、ドゥドゥーはどこか安堵した様子で微かに目を細めた。
 安易に死ぬ気など微塵もない、みっともなく足掻いて生き抜いてみせるという気概がある。ただ、己の胸にある譲れないもののために、命を懸けるだけだ。
「君の故郷についてはまだ知らないことばかりだ。だから、綺麗な花をつけられるように育て方を教えて欲しい」
「ああ、分かった」
 盟約と共に顔を見合わせ笑い合う。温室にはただ、温かな静寂が満ちている。