神の箱庭、星屑の瞳

FE風花雪月ディミレス

 ごく稀に、先生はひどく怯えた顔をすることがある。
 怯え、と言うには少し違うのかもしれない。ひどく不安げであるが、ばつの悪そうな、或いは悔やむかのような形容し難い表情を浮かべることがあった。
 彼女の表情が翳るのは、厳しい戦局を切り抜けた時が多いような気がする。その推測に確信を持てないのは、きっかけらしいきっかけもなく、気付けばただ静かに顔貌が歪んでいるからだ。穏やかな木漏れ日に暗雲が差すように、密やかに影が落ちていく。さめざめと空が泣き、やがて冷たい湿度を纏っていくのだ。
「ディミトリ、避けて!」
 突然ぶつかってきた声に振り向けば、眼前に迫る剣の切先。驚きつつも咄嗟に身を捻ってどうにか躱すと、ごく近くで上がる鈍い悲鳴。遅れてどうと倒れ込んだのは敵勢の魔道士であった。どうも近辺に兵が伏せられていたらしい。壁を用いて巧みに姿を隠しており、完全に意識の外からの攻撃だったため肝が冷えた。
 力を失くした手から魔道書が落ち、流れ出る血によって赤黒く染められていく。的確に急所を貫いた、容赦ない一撃であった。獲物を食らった大蛇が穴蔵に潜り込むが如く、いくつも連なった剣身は身をしならせながら鍔へと集っていく。その根本ではぽっかりと開いた空洞が、熾火のように赫々と燃えていた。肩で息をしながら先生は剣先に付いた血を払う。その形相は随分と険しい。
「怪我はない?」
「ああ、お前のおかげで助かった」
 よかったと息を吐く先生の表情は暗く沈んでいる。何故そんな顔をしているのか、その理由が分からぬことがもどかしい。抱えている昏いものに対して、この身にできることがあるかは分からない。だが、分け合えるものはないだろうか。
「ごめん、見通しが甘かった」
 重い声で告げながら、先生は己が腕の裂傷に傷薬を振りかける。見通しも何も、今の位置の伏兵を予見することは困難だ。可能性という点で考えるのであればあり得ないことはないが、そんな部分まで考慮するのであれば択が際限なく増えてしまう。無限に広がる選択肢から択を選び取るために定石や戦況を照合するのだ。
 常勝無敗などあり得ないものだが、王国軍は細い勝ち筋を繋ぎ、将兵たる面々も誰一人欠けることなく進み続けてきた。それは偏に先生の用兵あってこそだ。
 先生の視界は、この目に見えないものを捉えている。思い付いたように進路を変えたかと思えば、それが実に的確に戦況へ作用するようなこともある。
「私は弓砲台を落とす。君はフェリクスの方へ向かって欲しい。私達を誘き出そうとしていて、計略を仕掛けるには地形が悪いから──兵を伏せていると思う」
 互いに頷き、走り出す。先生の予想は見事に的中し、現れた数多の敵兵を蹴散らした。そうして王国軍は今回も無事に勝利を収めることに成功したのである。



 勝利を祝う宴席に、一番の功労者の姿はない。戦いの中で見た曇天の如き表情を思い出し、どうにも落ち着かなくなってその人を探す。気になってしまったのだ、その顔を翳らせる理由が。先生には笑っていて欲しい。指揮官が泰然と構えていれば憂いなく戦えるということもあるが、何よりも自分が嬉しいからだ。
 探していた姿は存外早く見付かった。暗闇の中へ溶け込み、その人はひっそり空を眺めていた。まるで驟雨が夜を濡らすように、冷たい静寂が降りている。実に寂しげな後ろ姿を見ているのが忍びなくて、考えるよりも先に声をかけていた。先生は凪いだ湖面のような瞳で遠い夜空を見つめたまま動こうとしない。
「死者は星となり空へ還る……そう教えられた時のことを思い出していたんだ」
 それは聖句の一節だ。瞬く星芒が主の御許に侍る死者であるならば、我々はこの空にいくつ星を増やしたのだろうか。満天の輝きはいつだって美しく、残酷だ。
「──悪い夢を見た。私はね、怖いんだ。誰かが死ぬことに慣れてしまうことが」
 いつかに命を奪う葛藤を零したことを思い出す。遣り切れない苦い感情は一生抱え続けるものなのだろう。しかし、今の先生から感じるのは罪悪感というよりも恐れや怯えのように思える。得体の知れない違和感が、生々しく存在していた。
 掴みどころのないその人が、このまま夜闇に溶けてしまうと怖くなり、気付けば手を握っていた。先生が徐に振り向き、透き通った瞳で真っ直ぐに見つめてくる。自身の行動に理由を付けねばいけない気がして、怖い夢を見た時、継母に手を握って貰ったことを話す。心身が弱っている時は、温もりが恋しくなるものだ。
「なあ、先生。お前が抱える苦しみに、俺にできることはないだろうか」
 目の前のどこか遠いこの人に、自分は何ができるだろうか。英雄になりたい訳ではなく、ただ寄り添いたい。先生のことを全ては知らず、傲慢な考えかもしれないが、自分はこの人の苦しみも喜びも分かち合える存在になりたいのだ。
「なら、もう少しだけ……こうしていて欲しい」
 そこにあるものを確かめるように握り返す手。ほんの少し、力を強めた。