食え、飲め、遊べ、死後に快楽はなし。

FE風花雪月その他

 曇天がしとしとと泣いている。騎士団長の部屋には重く沈んだ空気が満ちており、その中心では女の形をした抜け殻がつくねんと佇んでいた。
 虚ろな視線はただじっと時が止まった部屋を見つめており、そこに明確な意思はない。倦み、停滞した空間の中で、時計の針の音だけが愚直に時を刻み、進み続けている。女を置き去りにしていく。
 こつこつと控えめに扉を叩く音に、女は俯けていた顔を緩慢に上げた。開いた扉の先から現れたのは、清廉を絵に描いたような女生徒である。
「先生、ご飯を食べましょう」
 凛とした声音で告げると、イングリットは扉の向こうから次々と料理を運び込んで来る。こんがりと焼いた鶏肉に、香辛料と共に煮た魚、獣肉の串焼き、野菜をたっぷり添えたパスタ、ファーガス伝統の菓子パンと、乗せられていく料理であっという間に卓が埋められてしまう。突然の出来事に呆然としているベレスを椅子に座らせると、続いてイングリットはその両手に食器を握らせた。彼女はベレスの向かいに腰掛けると、自身もまた同じく食器を手にする。
「殿下から聞きました。先生がもう随分と食事を摂っていないと。それはいけません。だから、私と一緒にご飯を食べましょう」
 澄んだ瞳で真っ直ぐにベレスを見つめながら、幼子に言い聞かせるようにイングリットは食事を共にしようと誘う。言い終わると、イングリットは湯気を立てる肉にフォークを突き刺して口へと運ぶ。小さく可憐な口がめいっぱい開かれて、整った歯列が姿を表す。頬張り、咀嚼をするその表情が、花ほころぶように緩んでいく様をベレスはじっと見つめていた。
 滑らかな喉の表面が微かに上下した後、ほっそりとした指先が並べられた串を掴むと、持ち上げられたその先端から肉汁が滴り落ちて皿の上に広がっていく。串焼きをそのまま口へと運び、白い歯が弾力のある厚い肉を噛み締めた。肉の繊維に犬歯を突き立て、イングリットは串から肉を引き抜く。口いっぱいに肉を含み、咀嚼を繰り返す彼女の珊瑚色の唇は肉の脂でほんのりと艶めいている。
 実に幸せそうな表情で肉を噛み締めるイングリットの姿に、我知らずベレスは生唾を飲み込んでいた。卓から立ち上るのは肉の焦げ目の香ばしさ、煮込んだ野菜の甘み、海を感じさせる塩の香、複雑に組み合わせられた香草と香辛料、葡萄酒の奥深い芳香、様々な香りが咲き匂うように広がっている。
 イングリットは汚れた口元を拭うと、少し照れ臭そうにはにかんだ。
「作法としては正しくないのですが、串焼きはこうして気取らず食べた方が美味しいと私は思うのです」
 普段は丁寧に串から肉を外して品良く食事をしている彼女が、無作法に食べる様を見せるのはベレスの前であるからなのだろう。それは信頼の現れでもあった。
 透き通った汁の中で、刻んだ玉葱と鶏肉がじっとベレスを見上げていた。ベレスは手にした匙を沈めると、緩慢に持ち上げる。口を開け、掬った匙の中身を流し込むと、まろやかな塩味と仄かな甘み、そしてほろほろと砕ける肉の滋味が広がっていく。美味しい、と思った。刺激される食欲に、腹の虫が鳴く。
 知らずのうちに、ベレスの目からは大粒の涙が零れていた。
 ぼろぼろと両の目から涙を幾つも零しながら、ベレスは匙を豪快に自身の口へと何度も運ぶ。器を空にして、今度は甘辛く炒めた白身魚を次々と頬張る。洟を啜りながら串に刺さった肉を食み、引き抜き咀嚼するベレスをイングリットが穏やかな眼差しで見つめていた。
「怪我をした時はよく食べて寝るしかない。先生が教えてくれたことです」
 パスタに乗せられた野菜を口に運び、イングリットはゆっくりと咀嚼した。噛み砕かれていく野菜が実に歯切れの良い音を立てていく。
「私達の傷と、先生の傷は同じではありません。先生が今感じているその痛みを、私は思うことはできても理解することはできないのでしょう」
 皆それぞれが傷を抱えて生きている。その傷口は一つとして同じものはなく、抱える痛みは各々だけのものだ。イングリットが抱える傷を事実として認識はできても、その痛みをベレスが知ることもまたできない。
「それでも、私は先生に寄り添いたいのです。先生が辛い時は支えたい。私達では頼りないかもしれませんが、力になりたいと……そう思うのです」
 大切な人を喪くしても、世界は変わらず回り続けている。死者の時は止まっても、生きているこの身は腹が減り、食べることで命を繋いで死者を置いて進んでいく。そのことにどれほど絶望しようとも、命ある限り時は進んでいくのだ。
 ぶつ切りの煮込み魚を平らげて、ベレスは自身の目をぐいと拭った。
「ああ、美味しかった」
 私達は生きている。生きて、腹を満たして。明日へと進んでいくのだ。