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壺中天エンド軸
「きゃ……!」
体に何かが当たったかと思えば、何かの液体が足にびしゃりとかかる感覚。どうやら何かにぶつかって何かを落としてしまったらしい。全てが『何か』という推測にも満たない次元でしか分からないのは、私が光を感じることができないからだ。音も失ってしまったので、何かを壊してしまっただろうかということも分からない。何もかもが分からずおろおろとしていると、近付いてくる足音、濃くなっていく甘い香り。ルイだ。
ルイは優しく私の体を検める。空気が震えているので何かを話しかけてくれているのが分かるけれど、内容までは分からない。ルイはいつもそうだ。私に聞こえていないと分かっていながら、いつも何かを語りかけてくれている。せめて、私の耳が聞こえれば。あなたの話していることが分かるのに。相槌を打って応えてあげられるのに。目が見えれば、あなたの目を見ることができるのに。あなたがどんな人なのかを知ることができるのに。私はこんな状況がもどかしくてたまらなかった。きっとルイは穏やかに微笑んで、優しい声音で語りかけてくれているのだろう。妄想と言われればそれまでだが、私には不思議とそんな確信があった。陽だまりのようなあたたかさを思い浮かべ、胸の中に蘇るのは日本に居た頃に淡い感情を抱いていた青年。彼もいきなり消えてしまった私を心配してくれているのだろうか。罪悪感に、胸がちくりと痛んだ。
ルイに促されて寝台の淵に腰かけると、遠ざかっていく気配。何であろうかと考えていると、戻ってきたルイは私の足を優しく持って、ゆっくりと移動させた。爪先に、ひんやりとした冷たい感覚。恐る恐る足を動かすと、どうやらそれは水の張られたたらいのようだった。私は先程の接触で足を汚してしまったらしい。
「汚してしまったのね、ごめんなさい」
謝罪を告げると頭を撫でられる。男の人の、大きな掌。それがとても心地よかった。
ルイは水面の中へ私の足を泳がせると、水を纏った手でゆっくりと触れた。私を怖がらせないように、穏やかな動きで。たらいの中へと落ちた水が弾ける感触に、想起された水音が頭の中でちゃぽんと反響する。私の足を撫でる、なめらかで柔らかい掌。優しく、丁寧にふくらはぎまで撫でていくその動きに、思い出すのはいつかの夜会の日。全ての始まりである、あの誕生日。ああ、あの日もこうして私の足についた泥を落としてくれたのだ。肌がちりちりと焼けつくような、あの感覚。それが今、ここで再現されている。
「…………真島」
思わず零れ落ちた名前に、足を洗っていた手が大げさなまでにびくりと跳ねた。たらいの中に落ちた爪先が、飛沫を盛大に上げさせる。あちらこちらに水が飛んでしまったが、そんなことは構いはしなかった。それは一瞬の出来事。稲妻に撃たれたかのような衝撃が、頭の天辺から足のつま先まで一気に突き抜けていく。気が付いて、しまった。
私を見知らぬ土地へと連れて行ったのも、今まで甲斐甲斐しく世話をしてくれていたのも、私の体に熱を教えてくれたのも、目の見えない私の頭を撫でて笑いかけ、耳の聞こえない私に優しい声音で語りかけていてくれたのも。
──全て、真島だったのだ。
両手を伸ばし、目の前の男の顔に触れる。柔らかな髪を撫で、整った顔の形を一つ一つ確かめるように触れていく。なぞった形と、記憶の中で微笑む青年が重なっていくのが分かる。それは盛大な勘違いなのかもしれない。でも、この肌に残る疼きと、ルイに対して抱き続けてきた不思議な感覚。それは私の中の真島とぴたりと整合するのだ。
だが、きっと彼はそれを認めることはあるまい。決して。
「ああごめんなさい、ルイ。びっくりさせたわね」
だから、私は素知らぬ顔で嘘を吐く。あなたのことなど、まるで気付いていないとでもいうように。でなければ、きっと彼はこの部屋に二度と戻ってこなくなるだろうから。私が何も知らないただの人形だからこそ、彼はこうして傍に置いてくれるのだ。触れてくれるのだ。愛を囁いてくれるのだ。それは以前から感じていたことで、私は生まれて初めてこの目が見えなくて良かったと感じた。今この目が見えていれば、きっとひどく辛そうな顔があっただろうから。
「昔、あなたと同じように私の足を洗ってくれた人がいたの。それを少し思い出しただけ。日本に帰りたいとかそんなのじゃないわ……だってここには、あなたがいるもの」
かつて育んでいた恋と呼ぶにはまだ早い、あの焦がれるような感情。それがようやく異国の地で花開いたのだ。湧き上がる愛おしさに、その頭を胸の中へと引き寄せて抱き締める。彼が、泣いているような気がしたから。
「私、ルイが好きよ。離れたくない」
手探りで探す唇を、見付ける前に重ねられる。情念のこもった、火のような口付けであった。きっと私達は不器用なのだ。こんな方法でしか愛し合えない。こんな方法しか知らない。どこからおかしくなってしまったのか、最早何がおかしいのかすら分からないのだけれど、私はこの結末をちっとも不幸だと思ってはいないのだ。布地の亀裂に忍ばされた指先が私に触れる。ああ、私が欲しかったのはこれなのだと、歓喜に身を震わせた。
家を捨て、存在を捨て、目を捨て、耳を捨て。そうしてようやくあなたを手に入れたのだ。
あなたになら、あげたっていいのだ、この胸の鼓動だって。
「……愛してるわ、ルイ」
そうして私の初恋は成就する。