静謐の揺籃

メルクストーリア

 彼女が眠りに就いてからもうどれほど経ったか。時間などあってないようなこの空間でそれを考えることは無駄であるといえた。それに、彼女と出会い、愛を告げ、言葉を交わすようになり、そしてその目が閉じられて。再びその瞼が開かれる時を待ちながら森を彷徨い歩く日々は、永遠のようにも一瞬のようにも思えた。
 森の姫君は未だ眠り続けている。荘厳な空気を纏う彼女だが、その双眸が閉じられた姿は一段と凛として冷たさを纏う。童話の世界では王子様のキスで目を覚ますのかもしれないが、私はとっくに王子と言える歳を通り過ぎてしまったうえに、大樹に抱かれ眠る彼女は、はっとするほどに美しく、触れることすら躊躇われた。その存在の全てが、どうしようもなく私を惹きつけてやまない。初めて彼女を見た時に宿った燻るような情熱は、今なお褪せることを知らなかった。
 あの日息を吹き返した原初の森は、隔絶された世界でただ粛々と存在し続け、失われた力を養っていた。穏やかに凪ぐ気液の海を、巨大な碧い魚が回遊していく。木々のざわめきと共に、ふわりと緑精達が舞っていった。静寂を裂いて、風波が一つ打ち寄せては砕けていく。その残滓が彼女の髪を撫でるように揺らし、その額に青々としたひとひらを残した。
 それを取るべきか、触れてもいいものか、考えあぐねる。彼女はただ静かに、深い眠りの中にいた。そろり、と恐る恐るその額に手を伸ばす。触れたその時に、彼女の目が開かれてしまうのでは、その眠りを妨げてしまうのではないか、と不安と緊張がじわりと広がる。
 触れた落葉は、少しひんやりとしていた。指先でそれを拾い上げ、取り除く。彼女の目は、まだ固く閉じられたままであった。そのことに穏やかな安堵とほんの少しの落胆を覚えるが、それは彼女の安息を壊さずに済んだという安心へと転じていった。
 あなたの目がもう一度開かれるなら、いつまでも待とう。もう一度私と言葉を交わしてくれるなら、その歌をもう一度聞かせてくれるなら、悠久の時を歩き続けよう。自らに浮かび上がった蔦のような文様は、彼女と共に生き続けるという誓いだ。もう二度と戻ることができなくとも、他の全てを失おうとも、あなたがいれば、それだけで。

「良い夢を──シアノ」

 静謐の世界の中、冷たい寝顔に告げる。あの透き通った瞳が再び私を映した時、永遠の孤独は一瞬のものと化すのだろう。その瞬間を、いつまでも待ち続ける。あなたがくれた言葉を胸に抱きながら。いつまでも、いつまでも。
 ──貴きあなたは私の総て。