シナモンスティックと泡立て器

FGOベディぐだ

過去のワンドロ


 吐き出した息は白い。一面の銀世界は宵闇の中でもぼんやりと浮かび上がるようにその白さを主張している。立香はかじかむ手を揉みながら、凛と澄み渡る空を見上げた。
 普段は絶対に足を踏み出さないであろうカルデア館外にいるのは、偏に今日が晴れた日だったからだ。一年を通して吹雪に閉ざされたこの場所において、雲のない空が見られることは奇跡に近しい。立香が最後にそれを見たのは、一年ほど前のことになる。貴重な晴天であることに加え、今日は特別な日でもある。そのことが、立香の足を厳寒の雪山へと運ばせていた。
「あまり長居をしては風邪をひいてしまいますよ」
 かけられたのは柔らかな男性の声。さくさくと雪を踏み締める音がすぐ近くで止み、立香の眼前にほくほくと湯気を立てるマグカップが差し出される。そこから視線を辿れば、穏やかな微笑がある。マグカップを受け取ると、じんわりとしたぬくもりが指先から掌へと広がっていく。
「ありがとう、ベディヴィエール」
 告げれば、翠玉の瞳が細められ、立香の体は力強い腕で抱きすくめられた。いつもはきっちりと着込んでいる魔力の鎧が解かれ、遮る物なく互いの体が触れ合う。その上から覆うように柔らかな毛布がかけられ、籠った体温によって少しずつ空間が熱を持ち始める。ごく近くで見上げるその容貌は美しく、瞬きのたびに長い睫が震える様子は朝露に濡れる可憐な花を思わせた。
「寒くはありませんか?」
 互いの吐息が黒い空に立ち上り、交じり合う。回された腕は逞しい男性のもので、立香は頷きながらどぎまぎとした気持ちでカップに口を付ける。広がるのは滑らかな舌触りとこっくりとした甘み。作り手の気遣いが感じられる、温かなココアだった。
 嚥下すると、ゆっくりと体の中が温かくなっていく。見上げた空には満天の星。人里離れた場所にあるからか、その輝きはとても近くに見えた。それは聖夜と呼ぶに相応しい光景だと言えるだろう。
「ほら、クリスマスでしょう? ベディは何か欲しい物はある? 用意できるかは分からないけれど……」
 振り返り、問いかける。
 外界と隔絶されたカルデアの立地では、そう何でも物資が手に入るものではない。だが、ベディヴィエールの望むものがあるのならば、できる限り応えたいと思う。どこか神妙な面持ちな面持ちの立香に対し、ベディヴィエールはいつもと変わらぬ柔和な顔で。とても明確で、ささやかな望みを彼は口にした。
「またこうして、来年も貴女と夜空を見ることができればと」
 まるで眩しいものを見るかのように、ベディヴィエールはその目を細める。その言葉に、立香はくしゃりと破顔した。
「私と同じ」
 互いに顔を見合わせて笑いながら身を寄せ合って、カップの中身がなくなるまで空を見上げては二人で話した。その他愛ない時間がかけがえのないものであると知ってはいたが、実感するのは当分先のことであった。

* * *

 見上げた空に、星はない。
 ただ天井だけがそこにある。肌を刺す寒風はない代わりに、傍にあったぬくもりもない。全て、一年前に手放したものだ。
 あれから虚数の海を漂い、ようやく基地といえる第二のカルデアへと辿り着いたものの、失ったものは多かった。
 湯気を立てるマグカップに口を付ける。舌の上に広がるのは、あの日とまるで違う粉っぽい感触。すると、自分でも驚いてしまうほど無意識に涙が出た。
「全然違う……」
 プレゼントなんて、いらなくて。彼がそこにいればよかったのだ。それこそが、最も大きな望みであったのだと思い知らされる。二人で夜空を見上げたあの夜が、どれほど得難いものであったのかを。
 熱いココアをぐいと飲み干すと、舌がひりひりと痺れた。あの日差し出されたココアは、丁度良い温かさに調整されたものだったのだということに今更になって気付く。
「シナモン、入ってたんだなぁ」
 なくしてから、気付くものがある。だからこそ、拾い上げることができる。そうして立香は決意する。
 来年は、自分がココアを淹れるのだ。