愛のなれ果て

FE風花雪月ディミレス

※先生がディミトリ以外と結婚してる


 すまない、と。男は謝罪を繰り返す。誰に向けてのものなのかはもう分からない。男の眼前で一つの命が終わりを迎えようとしている。あの人を得られるかもしれないという甘い欲望の蜜を捨て去れなくて、男はその日罪を犯した。自分だけが知るその行いを胸に秘めて、愛しい人の愛する人をこの手で殺したのである。



 大司教が結婚を発表したのは、終戦を迎えて程なくした頃だった。
 戦乱の終息と国王の戴冠を経て届いた吉報に、フォドラの民は欣喜に沸いた。伴侶に選ばれたのは騎士団に所属する青年である。高名な家柄でもなく、取り立てて武功に優れている訳でもない。それでも不思議とその婚姻に反対はなかった。それは大司教という中立の立場と、ベレス自身の人柄によるものかもしれない。
 彼女が選んだ人ならば、と誰もがそう思っていただろう。戦災間もない時期であるため、式を挙げることはしなかった。ささやかに指輪を交わし、いつか執り行われるはずだった挙式は、ついぞ行われることがなかった。
 南方で起こった大規模な反乱。そこに混じるどこの所属でもない兵の姿に不穏な気配を感じ取り、王国軍に加えてセイロス聖教会も派兵を決断し──向かった先の戦場で、ベレスの夫は帰らぬ人となったからである。
 戦死体が郷に帰ることができるのは、とても幸せなことなのだという。原型を留めることが敵わなかったり、その場に打ち捨てられたまま風化したり。空の墓石だけが増えていく中で、ベレスの夫は幸せな部類の人間であった。
 ディミトリによって発見されたことにより、その亡骸は幸運にもベレスの元へ帰ることができたのである。しかし──本当にそれは、幸福だと言えるだろうか。
 骸がなければ、死は確定しないのではないか。閉じた箱の中身を考えるかのような問答である。だが、確かに持ち帰られた屍によって死は覆しようのないものになってしまった。そう実感させられてしまった。そうしてベレスは後家となった。
 瑞々しく木々が芽吹き、凍て付く寒気にやがて枯れ、その屍達が幾層も積み重なっても、ベレスは誰のものにもならなかった。女性の独り身は体裁が悪いと気にかけられるものであり、ベレスの元には方々から幾つもの縁談が持ちかけられたが、一度としてベレスが頷いたことはなかった。そんな彼女の左手には揺るがぬ想い表すかのように未だ指輪が煌めいている。変わることのない彼女に、やがて人々は感じ始める。ベレスは亡夫に操を立てたのだと。やがて彼女の元へと舞い込んでいた縁談は少しずつ減り、時折貴族が子息を推してくる程度となった。



 時を告げる鐘が、弔いのように鳴っている。喪服に身を包んだベレスは、夫の名が刻まれた墓石に祈りを捧げる。首元までぴたりと布に覆われた衣服は禁欲的な匂いを醸しており、小作りな顔を隠す薄闇の如き面紗が血の色を奪う。その姿は大切なものを喪くした悲哀、或いは享楽を禁じられた罪人のようにも見えた。
 死者と語らう時間に水を差さぬようにと、ディミトリはやや離れた場所からその様子見守っている。彼は、ベレスが夫を亡くしてから様々な便宜を図り世話を焼いてきた。こうして共に墓を訪うのも毎年のことである。
 陛下は大司教を伴侶に迎えたいのでは。噂好きで不躾な者が進言したこともある。しかし、ベレスの答えは『それだけはないよ』である。彼女は、彼の行動が思慕によるものでないことを知っていた。音もなく通り抜ける風が、面紗の下にある素顔を露わにする。
「君は、どうしていつも悔いた気持ちでここに立っているの?」
 透き通った双眸が、ディミトリに問いかける。彼の内に隠した罪を暴き立てる。ひくり、太い喉が大きく動いた。怯えに似た色を孕んだ目が躊躇いがちに伏せられ、言葉にできない情動を表すかのように握り込んだ手に力が籠り微かに震える。
「……あの日、俺が彼を見つけた時、彼はまだ生きていた」
 それは告解だ。彼が胸の内に秘め続けた罪の意識が、声となって零れ落ちる。
 ディミトリがそれを見付けたのは偶然のことであった。屍達の群れの中で、腹に大穴を開けて夥しい量の血を流し、それでいながら確かに男は生きていた。弱った喉からは隙間風のようなみすぼらしい音が漏れ聞こえ、どれほど無様であろうとも、男は確かに呼吸をしていた。助けなければ、と当然のこととして思惟する。しかし、その瞬間──彼の中で、最悪の妄想が首を捧げた。
 ここでこの男が死ねば、あの人の愛を契る指輪が外れるのではないか?
 それは知性ある生き物として最低の想像であった。しかし、人であるが故に思い至った希望でもある。この上なく醜悪で、あまりにも甘美な誘惑。生唾がいやに大きな音と共に流れ落ち、思考を妨げるかのように心臓が早鐘を打っていた。
 その迷いが一瞬のものか永遠であったのかは、もう分からない。ただ、『躊躇ってしまった』ことこそが彼に永劫のしかかる罪となってしまった。もしくは、他人のものとなったその人を未練がましく想ってしまったことこそが罪であったのか。それとも己が気持ちに気付けぬ愚鈍さか、思いを遂げられぬ臆病さか。
 しかし、何もかもがもう遅かった。
 男を助け起こそうと手を伸ばしたその瞬間、息も絶え絶えに縋る声がした。ほとんど吐息のようで聞き取ることが難しいものであったが、男ははっきりとこう言ったのだ。あの人を、お願いします。それは助けを求め縋る声ではなく、願いを託す祈りだ。自らの死を悟り、それでも大切なものを守るために託すのだ。
 一気に血の気が引いていくのが分かった。背筋を伝い落ちた冷たい汗が滞留していくように、胸の奥から少しずつ息苦しくなっていく。
 男を抱えて走った。助けなければと思った。腕に伝わる温度がどんどん冷たくなっていくのが分かる。なんということをしてしまったのだろうという後悔が、際限なく湧き上がっていく。迷わなければ。躊躇わなければ。この命が失われることはなかったのではないか。気付けば謝罪の言葉を繰り返していた。
 この男を救わねばという使命感が、今にも砕けそうな脆く弱い心をかろうじて繋ぎ止めていた。ああどうか死なないで欲しい。どうかやめて欲しい。赦して欲しい。このように壮絶な思いを託されても、背負える訳などないではないか!
 そして男は愛しい人の愛する人を殺した。愛を知らぬ男には、それが愛であったのかすら分からない。ただ、その行いが生涯雪げぬ罪として残っただけである。
 項垂れながら、ディミトリは己の行いを告白する。ずっと秘めていた己が罪を、そして淡く痺れるような熱情を吐露する。それは彼にとって最も知られたくないものであり、同時に最も手放したい重荷であっただろう。しかし、彼はそれを捨てることを是としなかった。己が過ちの結果を直視して、贖い続けていた。
 血を吐くような懺悔をベレスは静かに聞いていた。残酷なまでに透明な瞳が、その罪を極める。そうして、硝子玉の目に差したのは憐憫の色であった。
「君はばかだ」
 伸ばされた両の腕が、男の体をごく優しく抱き締める。ベレスの体躯は男を包み込めるほど大きなものではない。むしろすっぽりと収まってしまうほどだ。
 しかし、この瞬間、ベレスはディミトリの全てを包み込んでいた。不安も、恐れも、秘匿していた罪とその後悔も。根源にある名状できない感情ごと包み込み、彼をあらゆる苦しみから守り、遠ざけていた。体温を分け、冷たい体を温めた。嬰児を慈しみ愛でるかの如く、男の全てを包み和す。そうして全てを脱ぎ捨て裸になった無防備な心を、ベレスは己が全身で抱き締めるのだ。
 そこに罪も救いもなく、ただ全てを抱擁する。それは、女神の降臨であった。
 これまで抱え続けてきた全てを洗いざらい吐き出し、彼の中にあった太い梁が無惨にへし折れる。ディミトリの体が力を無くして頽れると、ベレスは彼の頭を抱え強く抱き締めた。豊かな稜線を描く柔らかな胸が、彼の全てを受け入れる。
 ディミトリの中で行き場のない激情が彷徨い、ベレスの喪服を掴んで深い皺を刻む。彼の腕がベレスを抱くことは決してない。その資格などないと、彼自身が一番よく理解しているからだ。互いに言葉なく、交わす情もなく。仄かな息遣いだけを感じていた。ただ二人、真冬の夜が明けるのを待つように身を寄せ合う。
「本当に、君はばかだ」
 ベレスは繰り返す。その声音は怒りや呆れよりも、悲しみや憐れみに近い。
 そもそものところ、人間は視認できるほどの大穴を体に開けて生きていられるような生物ではないのだ。しかし、ディミトリは抱いた躊躇いを許すことができずに己の罪とした。たとえベレスの手から指輪が外れようと、彼が思いを遂げることはない。彼が淡い希望を抱いた瞬間、その願いは決して叶わないものになってしまったのである。ディミトリは生涯、己を許すことなく生き続けるのだろう。
 悔恨に咽ぶ男を、女はいつまでも抱いていた。



 ベレスが大司教の引退を宣言したのはそれから数節後のことであった。その消息は一切掴むことができず、時折墓地に献花が備えられているのみである。
 供えられた花が枯れ、やがて風に砕けどこかへと消えていく。幾度もそれを繰り返し、四季の巡りと共に積み重なった積層が歴史と呼ばれ始めた頃、ベレスは真白い息を吐き出しながら久し振りに訪れる王城を見上げていた。
 事前に連絡をしておいたおかげで、止められることなくすんなりと入城することができた。王の腹心たる男は恭しく頭を下げると、近頃お体が優れない様子で、と表情を曇らせる。そうして通された寝所で、彼はひっそりと息をしていた。全てが静寂に包まれており、微かに上下する胸板だけが彼が生きて呼吸をしていることを伝えていた。深く寝入っているのだろう、ベレスの訪れにも彼が目を開けることはない。それでよかった。ベレスは彼に最後の挨拶をしに訪れたのだから。
「これからは、私が君の罪を引き継ごう」
 金髪を掻き分け、乾いた額に唇を落とす。それは女神が祝福を贈るが如く荘厳な光景であった。間近に安らかな容貌を見下ろしていると、息は弱く小さくなっていく。その様子を一人看取り──そして、ベレスは遥か遠い旅路へと発った。