国王夫妻のとある一日

FE風花雪月ディミレス

釣りをする二人の話
同人誌『血反吐を吐くように「好き」と言え。』を読まれていると少し楽しいかもしれません


 さらさら、さらさら。
 絶えず流れゆく川の音だけが耳朶を擽っている。麗らかな午後の日差しが降り注ぎ、良い日和だとベレスは目を細めた。大樹の節は午睡に最適なのだと聞いたことがあったが、確かにこの陽気はとても和やかで眠気を誘う。凛冽たる寒気に包まれるファーガスにおいても、大樹の節ともなればその寒風も穏やかなものとなっていた。
 ベレスの隣でディミトリは担いできた荷物を下ろしていく。その大半は幾つもの棒切れであり、棒の先端からは糸が伸びている。そう、釣り竿である。今日はかねてより計画していた渓流釣りを楽しもうと、二人馬を走らせてきたのだ。
 川の中にはゆらゆらと身をくねらせる魚の姿がある。正直なところ釣るよりも自ら狩りに行く方が早いような気がするが、本日は魚を捕らえることが目的ではない。釣りをするという行為こそが目的であるのだ。
「じゃあ、始めようか」
 川辺に腰を下ろし、ディミトリに釣り竿を握らせるとベレスは彼の背後に回り腕を伸ばす。釣り竿を握る手を補助しようとした小さな手は、大きな体躯に阻まれて届かない。もっと体を密着させれば届くだろうかと考えたが、胸がみっちりと潰れていくばかりで距離は縮まらない。触れる部分から感じる温かな体温が無性に愛おしくなり、ベレスは伸ばしていた手をするりと目の前の胴に回した。
 ばきり。
 鈍い音が耳に届き、顔を上げればディミトリが何とも苦い面持ちで眉を寄せていた。その頬は薄らと赤い。
「……すまない」
 そう告げる彼の手には、無惨にへし折れた釣り竿があった。どこかおかしい気持ちになり、ベレスはくすりと笑みを零しながら新たな竿を取りに行く。釣り竿を幾つも用意していた理由はつまりそういうことである。
 ベレスが新たな釣り竿を手にして、今度はディミトリの腕の中へと潜り込む。逞しい胸板に体を預けながら、再び釣り竿を握った大きな手に自らのそれを重ねた。
 釣り糸を垂らし、魚が食い付いてくるのを静かに待つ。川のせせらぎと、風に揺れる木々の葉が擦れる微かな音。時折聞こえてくる鳥の囀り。ごく近くで互いの息遣いを感じながら、じっと時が流れていくこの瞬間こそが非常に貴いものであった。
 互いにすっかりと忙しい身の上になってしまったので、取れる時間は随分と少なくなってしまった。顔を合わせる機会は会談くらいなもので、より良い治世のために激論を交わす日々が続いており、睦み合うこととは程遠い。勿論、間隙を縫って二人きりで語らう時間は設けているのだが、こうしてゆっくりと予定や立場を気にせず過ごす機会は実に久しい。ただ二人身を寄せ合い、無為に流れゆく時間がこれほどまでに貴重になってしまうとは思ってもみなかった。
 今日は随分前から約束していた二人だけの釣り大会である。士官学校時代に開催された釣り大会で、竿を壊してしまうことが容易に想像できるからと参加を辞していた彼にも楽しんで貰おうと考えたものであった。ディミトリに釣り竿を握らせ、その上からベレスが手を重ねることで、力加減をベレスが行ってしまおうという寸法である。
「あっ」
 川面を漂っていた浮きが沈むと共に、手に伝わる確かな感触。食材確保のために幾度も釣りをしてきたベレスには分かる。食い付いている、確実に。背後で息を呑む気配がした。早速竿を引き上げようとしたその時──
 ばきり。
 聞き覚えのある鈍い音がした。折れた部分から先が水面へと吸い込まれ、手に残っているものは竿の残骸と虚無のみだ。あっという間の出来事で呆気に取られていると、深い落胆の息が届く。
「その、すまない……」
 降ってくるばつの悪そうな声。気にするなと頷きながら、ベレスは再び釣り竿を取りに行く。恐らく逸る気持ちについ力が籠ってしまったのだろう。ならば、と今度はベレス自ら竿を握る。握った片手の上にディミトリの手を導けば、躊躇いに満ちた視線が向けられた。
「こうすればきっと大丈夫だね」
「いや、だが……」
 ディミトリが言わんとしていることは分かる。力加減を誤れば、ベレスの手は大変なことになってしまうのだろう。だが、ベレスはそうはならないと確信していた。彼は思いの外自分を大切にしてくれている。それこそ、触れれば散ってしまいそうな花を愛でるようにだ。
 重ねられた掌が強張り、汗ばんでいくのが分かる。自分を傷付けまいとディミトリが細心の注意を払っていることが如実に伝わってきて、ベレスは我知らず笑みを零していた。
 愛されている、と思う。ちらりと横目で後ろを流し見れば、緊張した面持ちがあり、視線はずっと手元に注がれている。和やかな釣りとはいきそうにないが、これはこれで悪くないと思うのだ。
 先程と同じように、ぐっと浮きが川面を潜る。より顕著になった感触が、食らい付いた魚の大きさまでをも伝えてくる。これは随分と大物がかかったようだ。
「さあ、釣り上げようか」
 釣り竿を引き上げる。遅れて戸惑いに満ちた頷きが返ってきた。一気に引き上げては糸が切れてしまうし、かといって力を緩め過ぎては逃げられてしまう。魚の動きを感じ取りながら、機を見て竿を引くのだ。竿を握り込む手に微かに力が籠るが、痛みは一切感じなかった。
 水面を激しく揺らしながら、幾度目かの駆け引きを繰り返す。緊張が高まるごとに、手に籠る力が強さを増していくのが分かる。同時に、力を込めるまいとどうにか抵抗しようとして、大きな手が強張りを増していくのが分かった。
「今だ!」
 抵抗が弱まった瞬間を狙って一気に釣り竿を引き上げる。ざばりと音を立てて、大きな魚影が飛沫と共にぐっと近づいてくる。更に竿を引き上げれば、水面の抵抗を超えてようやく魚が地上へと姿を現した。やった、と達成感に包まれたのも束の間。思いの外勢いが付いてしまい、二人揃って後方へと倒れ込んでしまう。一気に回る視界の先で、びちびちと鰭を叩く音と共に硬い砂利の上を魚が跳ねていた。
 身を起こし、川辺を跳ねる魚を回収しに行く。針を外すと腕の中でもがき、勢い良く暴れ始めた。随分と活きが良いようだ。釣り上げた魚をディミトリに渡すと、彼はいつか一緒に花を摘んだ時と同じように、ひどく不思議そうな顔で手にした魚を見つめていた。
「釣りはどう?」
 針の先に餌を付けながら、ベレスはディミトリを振り返る。ベレスを向いたディミトリは、微かに口元を綻ばせた。ほんの少しだけ、困ったように眉が下がる。
「……力を込めないことに必死で、よく分からなかったな」
 触れ合う手から緊張をつぶさに感じていたベレスは、あまりにも微笑ましい反応に目を和ませた。釣った魚を魚籠へと移すと、先程と同じように川面へと糸を垂らす。強張る手の感触は、ほんの少しだけ和らいだように感じられる。
「しかし、お前一人で釣った方が良いのではないだろうか」
 確かにこの方法ではあまりにも手間がかかり過ぎる。しかし、ベレスの目的は魚を釣ることではないのだ。ディミトリと釣りを楽しむという行為そのものにこそ意味がある。それに、ベレスがこの方法にこだわる理由はもう一つあった。
「時間は沢山あるから、ゆっくりと慣れればいい。それに、私がこうしたい理由はもう一つあってね。……付き合ってくれると、とても嬉しい」
 自身の手を覆うようにぴったりと重なった掌を見遣る。すると、ベレスの意図を理解したのだろう。ディミトリは穏やかに相好を崩した。二人微笑み合って、流れゆく川面を眺める。互いの温もりだけがそこにあり、静謐な時間を邪魔するものは何もない。ああ、何と贅沢な時間なのだろうかとベレスはゆっくりと瞼を下ろした。


 ──そうして国王夫妻によって大量に齎された魚により、王城では暫く魚料理が続くことになったのはまた別の話。