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皆が寝静まった真夜中──否、この施設では常に誰かが起きていて危険の気配を監視している──ふと目を覚まし、乾いた喉が水を求めるようにその部屋の扉をそっと開ける。暗闇の中、音もなく微かに上下する細く白い喉に安堵した。
「こんな夜更けに女性の部屋を訪れる行為は不埒では?」
ぬるりと穴蔵から這い出す蛇のように、寝台の下から姿を現したのは和装姿の女性である。決して嘘を許さぬ一対の瞳がじっとこちらを見つめている。
「そのような意図はなかったのですが……確かにそうですね」
マスターである彼女とは覆しようのない性差が横たわっている。それ以上に大きい生者と死者という壁があろうと、人の形をしている以上は人間の枠組みとして倫理に問われる。少し考えれば分かるはずであるのに、思考の欠落に驚く。
己が軽率な行動を悔いていると、姫君たる女はくすりと笑みを零した。幼子のような甘さを残した声音が、戯ればむように絡み付く。
「もし貴方が邪な考えを持っていたなら、私はこうして話してはいませんわ」
口元を優美に覆いながらも、二つの眼は決して逸らされることなくこちらを捉えている。彼女は訪れた人物が主に害為さないかをつぶさに観察し続けていた。
静かに眠る主を、彼女は夜毎見守り続けているのだろうか。見る夢が穏やかなものであるよう祈っているのだろうか。そう考えると、明確な意図もなくただ徒に訪れた自分が実に浅ましく感じられ、忸怩たる思いに消えてしまいたくなる。
しかし、千々に乱れる心とは裏腹に、足はぴくりとも動かず立ち去ることを拒んでいる。姫君たる女は騎士たる男に問いかけた。
「貴方はどうしてここへいらしたのです?」
尤もらしい答えなど、どこにもなかった。ただ『安心したかった』だけなのだ。あまりにも矮小で身勝手な理由であるが、取り繕ったところで意味のない相手である。嘘を許さぬ眼はあらゆる虚偽を見通すのだから。
「マスターが眠れているのか、気になって」
零してから、違うと思い直した。この後に及んで本心を隠したいという訳ではなく、自分の中ですら曖昧なその思いをうまく形にすることができないのだ。
「私は──マスターが生きている姿を見て、安心したかったのかもしれません」
ドアを開けて、ごくごく静かなその部屋の中では寝息すら聞こえず、微かに上下する無防備な喉を見た時の形容し難い感動は、恐らくきっと誰にも理解できない。自分ですらも理解しきれない情動であるのだから。ただ、ただ。自分は彼女が生きて呼吸をしているという事実に、この上なく安堵したのだ。
「それは、マスターが人理の要であるからですか? それとも、マスター自身が大切だからですか?」
再度の問いかけに、喉が詰まったように声が出なくなった。答えるべき言葉を用意しなくてはならないのに、がらんどうの部屋に一人放り込まれたかのように、戸惑いだけが胸を満たす。
思考が散逸しているのであれば、まだ良かった。散らばっているものの数々を整理していけば目当てのものは見付かるのだから、道筋ははっきりとしている。
「……分かりません」
主たる少女は、間違いなく大切な人間である。しかし、何故大切なのかと言われれば答えに窮する。形のないものを必死に掴もうとするかのようだ。
「私は、この思いが何であるのか、名前を付けねばならないのでしょうか」
ひっそりと眠るその存在を、尊いものだと思う。我が身をかけて守らねばならないものだと思う。しかし、その気持ちに理由を付けねば、側に居ることはできないのだろうか。大切なものであるということに、理由は必要なのだろうか?
迷い子のようなひどく心許ない顔をしていたのだろう。女は可憐に、それでいて妖しく笑った。爛熟した果実が如く甘やかな声音が、惑うこの身を宥め諭す。
「いえ、いえ。貴方が抱く思いに、理由を付ける必要などないのです。ただ──人は、何かと理由を付けて安心したがる生き物ですから、その方が楽になれると思っただけですのよ」
もし、理由があるのなら。不意に主の安否が気になり確かめるこの行動の意味が、帰結するものが何であるのかが分かるのだろうか。
それでも臆病なこの身は踏み込みねてしまう。未だ胸にあるものの形は分からずとも、主を思うこの心は間違いなどではないと思うからだ。或いは名付けることでどこか貴いとすら感じる思いを陳腐なものにしたくないのかもしれない。
「私はマスターの無事を喜んでいたい。ただ、それだけで良いのです」
いつかこの気持ちに名前を、理由を付けねば側に居られなくなるのだろうか。曖昧な輪郭を型に押し込めて、これだと定義する行為は窮屈であり少し怖い。
騎士が立ち去った後、女は『ですって』と零す。寝台から悩ましい息が落ちた。